大伴古麻呂

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大伴 古麻呂(おおとも の こまろ、生年不詳 - 天平宝字元年7月4日(757年7月24日))は奈良時代の貴族。父親については複数の説があり確実なことは不明だが、右大臣・大伴長徳あるいは大納言・大伴御行の子とする系図[1]が見られる。子に竹良継人がいる。官位正四位下左大弁

経歴[編集]

天平4年(732年遣唐留学生として入。帰朝後、天平10年(738年)に兵部大丞。天平勝宝元年(749年)に左少弁。

天平勝宝4年(752年)、遣唐副使に任じられ、大使・藤原清河とともに入唐。天平勝宝5年(753年)正月、玄宗臨御の諸藩の朝賀に出席。古麻呂は日本の席次が西畔(西側)第二席で、新羅の東畔第一席より下であったことに抗議し、新羅より上席に代えさせている[2]。 天平勝宝6年(754年)の帰国の際、遣唐使一行は鑑真を同行させようとしたが、唐の官憲がこれを禁じた。大使藤原清河は鑑真一行の乗船を拒否したが、古麻呂は独断でこれを許して副使船に乗船させた。帰路、大使船は暴風雨に遭い、南方に流されて帰国できなかったが(清河は唐で客死)、副使船は無事帰国して鑑真を来日させることができた。同年、左大弁に任じられる。

天平宝字元年(757年)3月、聖武上皇の遺言により皇太子に立てられていた道祖(ふなど)王孝謙天皇の勘を受けて廃太子される。4月、孝謙天皇は群臣に新太子を諮ると、右大臣・藤原豊成塩焼王を適当とし、古麻呂は池田王を推したが、天皇の意中は大納言・藤原仲麻呂の推す大炊王(のちの淳仁天皇)であり、大炊王が立太子された。

仲麻呂は孝謙天皇の信任が厚く、専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿・橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王・道祖王・安宿(あすかべ)王黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。

同年6月、古麻呂は鎮守将軍陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられ、橘奈良麻呂は左大弁に移され兵権を奪われた。7月3日、山背王らの密告により反乱計画は露見。奈良麻呂・古麻呂・道祖王・黄文王らは捕えられ、翌日、で何度も打たれる拷問の末、絶命した。(橘奈良麻呂の乱

絵巻物である『鑑眞和上東征傳』に大伴古麻呂が登場する。

脚注[編集]

  1. ^ 父を長徳とするものに「大伴系図」(『続群書類従』所収)、父を御行とするものに「大伴系図」(内閣文庫)および「伴氏系図」(『系図綜覧』所収)、父を家持とするものに「伴氏系図」(『続群書類従』所収)がある。ほかに『万葉集』四 で古麻呂を「旅人の姪」としている事を根拠に、父を田主あるいは宿奈麻呂とする説もある。
  2. ^ 副使大伴宿禰古麻呂自唐國至。古麻呂奏曰。大唐天寶十二載。歳在癸巳正月朔癸卯。百官諸蕃朝賀。天子於蓬莱宮含元殿受朝。▽是日。以我次西畔第二吐蕃下。以新羅使次東畔第一大食國上。古麻呂論曰。自古至今。新羅之朝貢大日本國久矣。而今列東畔上。我反在其下。義不合得。時将軍呉懐實見知古麻呂不肯色。即引新羅使。次西畔第二吐蕃下。以日本使次東畔第一大食國上。(『続日本紀』天平勝宝6年正月丙寅条)

関連項目[編集]

  • 穴太寺 - 大伴古麻呂が開山・開基した寺院