平等院

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平等院
Byodoin Phoenix Hall Uji 2009.jpg
鳳凰堂(国宝)
所在地 京都府宇治市宇治蓮華116
位置 北緯34度53分21.45秒
東経135度48分27.69秒
座標: 北緯34度53分21.45秒 東経135度48分27.69秒
山号 朝日山
宗派 単立
本尊 阿弥陀如来
創建年 永承7年(1052年
開基 藤原頼通明尊(開山)
文化財 鳳凰堂、阿弥陀如来坐像ほか(国宝)
世界遺産
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平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号朝日山と称する。宗派17世紀以来天台宗浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊阿弥陀如来開基藤原頼通開山明尊である。

歴史[編集]

平等院の創建[編集]

浄土式庭園と鳳凰堂

京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

鳳凰堂建立の思想的・信仰的背景[編集]

観無量寿経』の一節に「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当(まさ)に一の丈六の像池水の上に在(いま)すを観るべし)とある。鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説である[1]

飛鳥奈良平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院が創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。

鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いない。しかしながら、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるということが、複数の研究者により指摘されている[2][3]。平等院の境内が現在のような景観になったのは、南北朝時代の争乱以降、鳳凰堂(阿弥陀堂)のみが焼け残ったことによるものである[4]。鳳凰堂が主要な堂宇であることは間違いないが、平安時代の平等院では、本堂には密教の主尊である大日如来が安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいた。鳳凰堂の阿弥陀像の印相は定印(膝上で両手を組む)であるが、これは密教の両界曼荼羅の阿弥陀如来の結ぶ印である。阿弥陀像の普段見えない像内はベンガラで朱色に塗られている。これは、両界曼荼羅の金剛界五仏に五色を配当する際、西方阿弥陀を紅玻璃色(ぐはりじき、赤色)とすることに対応する。阿弥陀像の像内には阿弥陀の大呪・小呪を書いた月輪(がちりん、円板)が納入されていたが、これはこの阿弥陀像が密教の修法である阿弥陀法の本尊像でもあることを意味している。以上のことを踏まえ、建築史家の冨島義幸は、鳳凰堂の阿弥陀像には密教の阿弥陀如来としての一面があり、鳳凰堂全体が阿弥陀曼荼羅を表しているとする。[5][6]

平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。

鳳凰堂以外の堂塔[編集]

平等院には、鳳凰堂以外に以下のような堂塔が建ち並んでいた。[7][8][9]

  • 本堂・懴法堂 - 本堂は宇治川の近く、現在の観音堂付近にあり、懴法堂はその南にあった。宇治川に突出して釣殿があって、宇治川から直接舟をつけることができ、釣殿と本堂は廊でむすばれていた。
  • 小御所 - 鳳凰堂の東、池を挟んで対岸にあった。
  • 法華堂 - 天喜4年(1056年)、頼通によって建立。正確な位置は未詳。
  • 多宝塔 - 康平4年(1061年)、頼通の娘の四条宮寛子(後冷泉天皇皇后)によって建立。鳳凰堂の南東、現在は寺域外の公園地になっている場所から塔の遺構が検出されている。
  • 五大堂 - 治暦2年(1066年)、右大臣・藤原師実(頼通三男)によって建立。正確な位置は未詳。
  • 不動堂 - 延久5年(1073年)、右大臣・源師房(頼通養子)によって建立。記録によれば境内の西南隅にあった。
  • 経蔵(宝蔵) - 文献上の初出は康平6年(1063年)。一切経のみならず、藤原氏代々の重宝が納められ、「宇治の経蔵」として摂関家の権威の象徴とされていた。正確な位置は未詳。[10][11]

平等院領[編集]

平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。治暦3年(1067年)10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた。翌年3月、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は3月28日5月2日)には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。頼通は翌29日3日)に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日22日)に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であった後三条天皇が即位して延久元年(1069年)には有名な延久の荘園整理令を出した。摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園の公験として有効とされて整理を免れた(延久の荘園整理令は有効な太政官符・太政官牒を持たない荘園を整理対象としていた)[12]

その9か所の全てについては明らかではないが、山城国紀伊郡芹川荘摂津国住吉郡杭全荘島下郡平田荘河内国河内郡玉櫛荘近江国高島郡子田上荘・同郡河上荘の6か所を含んでいることが知られている。頼通の没後、平等院領は殿下渡領と並んで藤氏長者の支配する所領の中核として位置づけられ、代々の摂関が継承してきた。嘉元3年(1305年)に作成された『摂籙家渡荘目録』(「九条家文書」)によれば、平等院領は12か国に18か所あったという[13]

現在の平等院[編集]

修理のため仮設素屋根に覆われている鳳凰堂(2012年11月)

現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である[14]

1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築 平成13年(2001年)9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。

平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建てのマンション2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキ植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている[15]

平成24年(2012年9月3日から平成26年(2014年3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われている[16][17][18][19][20]。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなる。

鳳凰堂[編集]

鳳凰堂中堂
中堂正面
北翼廊
南翼廊
(左から)北翼廊、中堂、尾廊。庭園の洲浜と反橋が復元されている。
堂内の彩色(内法長押、無目、支輪)
壁扉画のうち上品下生図(部分)
壁扉画のうち中品上生図右扉(部分)

平等院鳳凰堂は天喜元年(1053年)に建立された阿弥陀堂である。「鳳凰堂」の呼称は後世のもので、平安時代の記録では「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれている。堂内須弥壇の格狭間に嵌め込まれた金銅板の延宝8年(1680年)の刻銘に「平等院鳳凰堂」とあり、江戸時代には「鳳凰堂」の呼称があったことがわかる。江戸時代の地誌『山州名跡志』(正徳元年・1711年)にも「鳳凰堂」とみえる。[21]

本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作である。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。現状では剥落が著しいが、堂内の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。[22][23]

鳳凰堂は、建造物としては中堂、北翼廊、南翼廊、尾廊の4棟からなる。阿字池の中島に東を正面として阿弥陀如来坐像を安置する中堂が建ち、その北と南(向かって右と左)にそれぞれ北翼廊、南翼廊が接続して建ち、中堂の西(背後)に接続して尾廊が建つ。中堂は石積の基壇上に建つ。この基壇は壇上積基壇と称し、地覆石、羽目石、束石(つかいし)、葛石(かつらいし)からなる格式の高いものである。中堂の外観は2階建てのように見えるが、建築構造としては一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。裳階とは、身舎(もや、建物の主要部)の周囲に差し掛けられた屋根の部分を指す。身舎は入母屋造、本瓦葺き。組物は三手先(みてさき)、中備(なかぞなえ)は間斗束(けんとづか)、軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)とし、棟上に一対の銅製鳳凰を置く。なお、保存上の観点から、1968年以降、棟上にはレプリカの鳳凰が設置されており、実物は別途保管されている[24]。垂木は地垂木を円形断面、飛檐垂木(ひえんたるき)を方形断面とする「地円飛角」という、奈良時代以来の形式である。軒には支輪を設け、支輪部分には宝相華文を描く。身舎の規模は桁行(正面)3間、梁間(奥行)2間とする(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表す建築用語。以下同じ)。身舎は円柱を頭貫(かしらぬき)と内法長押(うちのりなげし)で固める。この3間×2間の身舎の周囲に東西南北とも1間の裳階が付く。裳階の屋根は本瓦葺、軒は二軒繁垂木で、組物は平三斗、中備は間斗束である。裳階の垂木は身舎と異なり、地垂木、飛檐垂木ともに面取りの角垂木である。裳階柱と身舎との間には繋虹梁(つなぎこうりょう)を渡す。裳階柱は大面取りの角柱とし、これらを頭貫と飛貫(ひぬき)で繋ぐ。ただし、飛貫は当初はなく、後世補強のために入れたものである。裳階の正面(東面)中央間は屋根を一段高く切り上げて、外観に変化をもたせるとともに、池の対岸から本尊阿弥陀如来像を拝するように設計されている。身舎東正面中央間の扉を開けると、その内側の格子には軍配形の窓が開けられ、阿弥陀如来の面相が見えるようになっている。裳階屋根上には高欄を設けるが、これは実用的なものではない。日本の一般的な仏堂建築は身舎の前後または四周に「庇」と呼ばれる部分があり、裳階が付く場合は、庇のさらに外側に付けるが、鳳凰堂中堂は身舎と裳階のみで庇のない特徴的な構造になる[25]。身舎の円柱は径2尺(約60センチ)ある太いものであるが、周囲を裳階がとりまいているため、外観では身舎の太い柱が目立たなくなっており、これによって建物全体を軽快に見せている。裳階柱も幅8寸5分(約27センチ)あるが、大面取りが施され、断面八角形に近い柱形状になっているため、実際より細く見える[26]。中堂は前述のように身舎と裳階のみで庇を設けない特異な構造であることに加え、屋根の出が非常に大きく、構造的には不安定な建物になっている。身舎の屋根の先端部は、裳階屋根の先端部や基壇の端部よりもさらに外側に突き出ている[27]。明治期の修理以前の古写真をみると、中堂には、屋根の垂れ下がりを防止するための突っかえ棒が設置されて、外観を損ねていた[28]。こうした構造に加え、境内からは創建当初の瓦がほとんど出土しないこともあり、当初の鳳凰堂は屋根に大きな荷重の掛かる本瓦葺きではなく、木瓦葺きだったのではないかと推定されている[29]。木瓦葺きとは、外観を瓦に似せた板で屋根を葺くもので、平安時代の実物としては中尊寺金色堂のものが唯一現存する[30][31]

鳳凰堂の修理は、近代以降では1902年から1907年に半解体修理、1950年から1957年に解体修理が行われている。[32]

次に中堂の室内の状況について説明する。前述のように身舎は正面3間、側面2間であるが、裳階の西側(裏側)部分を室内に取り込んでおり、この部分を含んだ全体を板敷の1室としている。裳階の東・北・南の3面は吹き放し(建具や壁を入れない)とし、切目縁(簀子縁)を設ける。すなわち、石積基壇の上に直接、縁を乗せた形になる。室内は身舎の後寄りに、中央部分を石敷きとした須弥壇を設け、本尊の定朝作阿弥陀如来坐像を安置する。阿弥陀像の頭上には木造天蓋を吊る。須弥壇周囲には高欄を設け、後方左右には壇上に上がる階段を設ける。須弥壇の外面は漆塗とし、螺鈿で装飾されていたが、螺鈿はすべて脱落している。中堂の柱間装置は以下のとおりである。身舎正面(東面)は3間とも両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。身舎側面(北・南面とも)の前間は正面と同様、両開き板扉で、室内側には格子を立て込む。身舎側面(北・南面とも)の後間は、外面は腰長押を入れ、それより上を連子窓、下を土壁としている。ただし、この連子窓は見かけだけで、室内側は全面板壁になっている。前述の腰長押も外面だけに打たれている。身舎の西側は中央間を板壁、その両脇の間は開放とし、裏手の裳階部分と一体の空間を形成している。身舎西側中央間の板壁は他の壁と接していない独立壁で、本尊阿弥陀像の背後に位置することから「仏後壁」(ぶつごへき)と称される。西側裳階部分は、西面中央間のみを両開き板扉(尾廊へ通じる)とし、他の柱間は土壁とする。身舎の内法長押上の小壁は外見上は土壁に見えるが、実際は板壁に土を塗ったものである。東西南北各面の内法長押より上、頭貫より下の壁面には計52躯の雲中供養菩薩像を取り付けていたが、うち半数の26躯は平等院ミュージアム鳳翔館に移動している[33]。室内には前後方向に虹梁を2本掛け渡し、組入天井を支えている。[34]

堂内は、板扉と板壁には『観無量寿経』の所説による九品来迎図などの壁扉画(へきひが)があり、柱、長押、貫、組物、天井などの部材はすべて彩色が施されていたが、現状ではいずれも剥落が著しい。正面3間の扉(計6面)、側面(北・南面)前間の扉(計4面)、側面後間の板壁(北面と南面の2面)には九品来迎図が描かれ、背面裳階中央扉(2面)には日想観図が描かれていた。日想観とは、『観無量寿経』の所説によるもので、西方阿弥陀浄土に往生するための16の段階の一つとして、沈みゆく夕陽を観想するものである。仏後壁(身舎西側中央壁)の前面と背面にも絵画がある。このうち、背面は九品来迎図の一部であるが、前面の絵は剥落が激しく、主題や制作年代について諸説ある[35]。板扉のうち、正面中央間のものは傷みが激しかったため、江戸時代の寛文10年(1670年)に新しい扉に取り換えられ、絵も新たに描かれている[36]。扉と板壁以外の堂内の部材は、宝相華文を主体とする彩色文様で装飾されていた。柱は宝相華文の水平の帯で区切り、宝相華文を背景にして菩薩像や童子像を描く。長押、頭貫などの水平材は、花文を一定間隔で描き、残りの空間は繧繝彩色の条帯文とする。[37][38]

中堂の柱間装置のうち、正面各間と側面前間は創建当初から板扉であったが、側面後間と仏後壁は以下のような改造を経ていることが解体修理時の調査で判明している。

  • (当初)側面後間は板扉、仏後壁は土壁であり、背面裳階部分は腰長押から上を外面は連子窓、室内側は板扉としていた。
  • (第一次改造)創建直後、または創建時の工事途上に側面後間の板扉を、外面連子窓、内面土壁に変更した。
  • (第二次改造)仏後壁を前面板壁、背面土壁にした。側面後間と仏後壁に補強のために筋違を入れた。各面の内法長押上の小壁を土壁から板壁に変えた。
  • (第三次改造)側面後間の土壁を板壁とし、仏後壁の背面も板壁にした。側面後間と仏後壁の筋違を除去した。各面の小壁は、内法長押の上、頭貫の下にあたる位置に飛貫を挿入した。背面裳階部分の連子窓はこの時に廃されて土壁になったとみられる。

以上の改造がいつ行われたかは正確には不明であるが、建築史家はおおむね13世紀までには第三次改造が終わったとみている。改造の理由については、前述のとおり、当初の鳳凰堂は木瓦葺きであったとみられ、木瓦葺きからより重量の大きい本瓦葺きに変更するに際して、補強のために改造が行われたとみられる。[39][40]

南北の翼廊は形式が等しいため、まとめて説明する。北翼廊、南翼廊とも切妻造、本瓦葺き、一重二階建て。各翼廊は中堂の側面から南北方向に延び、途中で東方向に直角に折れ曲がっており、平面はL字形を呈する。桁行は折曲り8間、梁間は1間である(折曲り8間とは、L字形の外側の柱間を数えた数字である)。直角に曲がる角の部分には隅楼があり、この部分のみ3階建てになる。組物は1階が二手先、2階が平三斗で、軒は二軒繁垂木とする。1階柱は頭貫、飛貫、腰貫で固めるが、創建当初は飛貫、腰貫はなく、後から補強のために入れたものである。1階の頭貫から下は建具や壁を入れず開放とし、床も張らない。天井は組入天井とし、虹梁と蟇股で支える。2階は階高が低く、人が立って歩ける高さではないが、儀式等の際に人が立ち入ったことも想定されている[41]。2階内部の構架は二重虹梁蟇股で、天井は張らず、垂木がそのまま見えている。隅楼の3階部分は方3間、宝形造、本瓦葺きで、屋根頂部に瓦製の宝珠を乗せる。組物は出組、軒は二軒繁垂木とする。東西南北面とも中央間を板扉、両脇間を連子窓とする。3階部分には下から昇ることはできず、人の入る空間はない。南北翼廊は修理によって取り換えられた部材が多い。各翼廊に16本ずつの柱があるが、うち古いものは北翼廊の柱1本、南翼廊の柱5本のみで、他の柱は明治の修理時の取り換え材である。[42]

尾廊は中堂西側裳階に接続し、西側に真っ直ぐ伸びる。切妻造、本瓦葺き、平屋建てで、桁行7間、梁間1間とする。組物は平三斗、内部の構架は二重虹梁蟇股とし、天井は張らない。桁行7間のうち、中堂裳階に接する第1間は片引戸、以下は第2・3・6・7間を花頭窓、第4・5間を格子窓とする。尾廊は第5・6間の部分で池をまたいでおり、その部分の柱(西から3本目)は池中に立っている。尾廊の窓や床は室町時代頃に設けられたものとみられる[43]。尾廊の柱は大部分が修理によって取り換えられているが、南側の第3間の左右の柱のみは古い。[44]

鳳凰堂の建つ中島と周囲の池については、1990年以降の発掘調査により、拳大の玉石を敷き詰めた平安時代の洲浜が出土し、創建当初の状況が明らかになっている。近代以降、中島の面積が広げられているが、平安時代には島の面積は狭く、ほとんど堂と同じ程度の大きさで、両翼廊の端は池に突出していた。翼楼の基壇も当初はなかったとみられる。池の対岸(東岸)には、鳳凰堂の阿弥陀如来像を礼拝するための「小御所」という建物の存在したことが福山敏男によって早くから明らかにされていたが、発掘調査により小御所の遺構も検出されている。[45][46][47]

鳳凰堂には52049枚のが使用されており[48][49]、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きだったが[49]、約半世紀後の康和3(1101)年の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修された[48][49]粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ[48][49]、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦がまだ1560枚そのまま屋根に残っていることが確認された[49][50]

その他の建物と庭園[編集]

  • 庭園 - 中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。国指定の名勝。平成2年(1990年)からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されている。
  • 観音堂 - 境内北側、表門を入って左側に建つ。鎌倉時代初期の建築で本堂跡に建てられた。国の重要文化財に指定されている。本尊十一面観音立像(平安時代後期)を安置していたが、現在は鳳翔館に移されている。
  • 鐘楼
  • 表門
  • 南門
  • 鳳翔館 - 境内南側にある博物館で、平成13年(2001年)に開館した。平等院鳳翔館の項を参照。

塔頭寺院[編集]

  • 浄土院 - 本堂、羅漢堂、養林庵書院
  • 最勝院 - 不動堂、源頼政の墓地

文化財[編集]

国宝[編集]

阿弥陀如来像 像高約284cm
月輪と蓮台
雲中供養菩薩(北1号像)像高約90cm
扉画 中品上生図 左扉(部分)
鳳凰堂
伽藍」の節を参照
木造阿弥陀如来坐像
仏師定朝の確証ある唯一の遺作。寄木造漆箔、像高284cm。定朝は和様彫刻様式の大成者、また寄木造技法の完成者として日本彫刻史上著名な仏師である。円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、以後の仏像彫刻には定朝様(よう)が流行した。定朝が制作した法成寺藤原道長が建立した寺)などの仏像はことごとく失われ、晩年の作品である平等院像は、彼の作風を具体的に知ることのできる唯一の遺品として、きわめて貴重なものである。像内納入品の木板梵字阿弥陀大小呪月輪(もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)と木造蓮台は国宝の附(つけたり)指定となっている。
木造雲中供養菩薩像 52躯
鳳凰堂中堂の長押上の壁を飾る浮き彫りの菩薩像。極楽浄土において阿弥陀を讃嘆する菩薩像とする説もあるが、いずれの像も飛雲に乗ることから、阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したものとみられる[51]。52躯が現存し、すべて(平成20年(2008年)に追加指定された1躯を含む)国宝に指定されている[52]。各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、立って舞う姿のものなどがある。菩薩形の像が主だが、僧形の像も5体ある。本尊阿弥陀如来像と同様、天喜元年(1053年)の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が明治時代の修理で補作されているもの、像全体が鎌倉時代の補作であるものが各数体ある[53]。現存52体だが、当初全部で何体あったのかは定かでない。52体のうち半数の26体は鳳翔館に移されている[54]
鳳凰堂中堂壁扉画(へきひが)14面
  • 九品来迎図 旧扉画8面(上品中生、上品下生、中品上生、下品上生)、壁画3面(中品中生、下品中生、中品下生、下品下生)
  • 日想感図 扉画2面
  • 本尊後壁画 1面
  • 附:九品来迎図 扉画(上品上生)2面
中堂の扉10面、壁4面は、国宝建造物の一部であると共に、そこに描かれた絵は絵画部門の国宝にも指定されている。主な主題は『観無量寿経』に基づく九品来迎図である。壁画の構成は以下のようになっている。
  • 正面中央扉(2面)上品上生図
  • 正面北扉(2面)上品中生図
  • 正面南扉(2面)上品下生図
  • 北面扉(2面)中品上生図
  • 北面壁(1面)中品中生図
  • 南面扉(2面)下品上生図
  • 南面壁(1面)下品中生図
  • 仏後壁前面(1面)図様不明、諸説あり
  • 仏後壁背面(1面)下品下生図・中品下生図
  • 西面(背面)扉(2面)日想観図
以上のうち、北面壁、南面壁、仏後壁(前面、背面)は当初の土壁を板壁に変更したもので、壁画が描かれたのは鎌倉時代に下るとされていたが、仏後壁前面画については、調査の結果、藤原頼通在世時(11世紀末)にさかのぼる作とみられている[55]。2004年に阿弥陀如来像を修理のため堂外に搬出した際に、阿弥陀像の背後にあって観察困難であった仏後壁前面画に対する科学的調査が実施された。仏後壁前面画の主題については、釈迦八相(阿闍世太子授記説話)説(渡邉里志)、阿弥陀因位譚説(源豊宗)、弥勒下生説(大原嘉豊)、九品往生のうちの中品下生図とする説(富島義幸)などがある[56][57]
正面中央の2面の扉は、最も消耗が激しかったためか、江戸時代の寛文10年(1670年)の修理の際に取り替えた新しい扉になっており、国宝の14面には含まれない「附(つけたり)指定」となっている。その他の画面も剥落が激しく、画面には江戸時代末期の落書きも目立つが、平安時代後期 - 鎌倉時代の貴重な絵画遺品である。なお、正面と南北側面のオリジナルの扉は取り外して宝物館に収められており、代わりに復元模写の扉がはめられている。
木造天蓋
本尊阿弥陀如来像の頭上に吊られた木造天蓋で、像とは別個に、彫刻部門の国宝に指定されている。折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾されている。
鳳凰像(複製)
鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾)
阿弥陀堂中堂大棟の南北両端部に設置されていた金銅製の鳳凰像。北方像・南方像の一対で、北方像は総高235.0センチメートル、像高98.8センチメートル、総幅34.5センチメートル、南方像は総高228.8センチメートル、像高95.0センチメートル、総幅44.5センチメートル。
製作は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられているが、藤原資房日記『春記』の長久2年(1041年)条に拠れば同年2月23日3月27日)・24日28日)に仏師定朝に対して龍頭の製作が命じられていることから、鳳凰像も定朝により原型が製作された可能性が考えられている。また、源師時日記『長秋記』の長承3年(1134年)条の記述から製作は本体部分が鳥羽の鋳物師、翼や風切羽は鳥羽の鋳物師によって鋳造された可能性が考えられている。近世には本像に因み阿弥陀堂は「鳳凰堂」の通称で呼ばれる。
頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共にで留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭いをもつ。首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いた首輪がはめられている。風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている。現在は屋根上に複製像を設置し、鳳凰像は鳳翔館に収蔵されている。
梵鐘
鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、神護寺園城寺(三井寺)の鐘と共に、「天下の三名鐘」に数えられている。現在鐘楼にある梵鐘は複製で、実物は鳳翔館に収蔵されている。この梵鐘は昭和55年(1980年11月25日発行の60円普通切手のデザインにも採用されている(平成18年(2006年)現在も利用可能だが、販売は平成14年(2002年)に停止)。
雲中供養菩薩像52躯のうち

重要文化財[編集]

  • 観音堂
  • 木造十一面観音立像
  • 養林庵書院 - 山内寺院の浄土院に建つ。非公開。

史跡・名勝[編集]

意匠[編集]

切手通貨の意匠に平等院の文物が取り入れられている。

切手

  • 1950年(昭和25年)11月1日発売 24円普通切手 鳳凰堂
  • 1957年(昭和32年)3月19日発売 24円普通切手 銭位省略
  • 1959年(昭和34年)4月1日発売 30円普通切手 24円の刷色違い
  • 1971年(昭和46年)3月29日発売 150円普通切手 鳳凰像
  • 1976年(昭和51年)1月25日発売 150円普通切手 刷色変更
  • 1980年(昭和55年)11月25日発売 60円普通切手 梵鐘
  • 1991年(平成3年)5月24日発売 41円 国土緑化運動 シダレザクラ北山杉・鳳凰堂

硬貨

  • 1951年(昭和26年)より発行 十円硬貨表面 鳳凰堂 年銘は昭和二十六年より

日本銀行券

  • 2004年(平成16年)11月1日より発行 壱万円裏面 鳳凰像
鳳凰堂 十円硬貨表面(左側)
鳳凰像 壱万円紙幣裏面左側

アクセス[編集]

参考文献[編集]

  • 東京国立博物館ほか編『国宝 平等院展』(特別展図録)、朝日新聞社発行、平成12年(2000年)
  • 井上靖、塚本善隆監修、竹西寛子、宮城宏著『古寺巡礼京都8 平等院』、淡交社、昭和51年(1976年
  • 『日本歴史地名大系 京都府の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
  • 『国史大辞典』、吉川弘文館
  • 特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館・仙台市博物館・山口県立美術館、平成12年(2000年)
    • 杉本宏「平等院伽藍の復元」
  • 『日本名建築写真選集3平等院』、小学館、1992
    • 伊藤延男「現世の浄土 - 平等院」
  • 冨島義幸『平等院鳳凰堂 現世と浄土のあいだ』、吉川弘文館、2010
  • 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、平凡社、2009
    • 渡邉里志「浄土への往生が約束された情景 主題、新解釈の可能性」
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、朝日新聞社、1998

脚注[編集]

  1. ^ 小埜雅章「仏とともに観想する景色 平等院阿弥陀堂池庭」『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p.90
  2. ^ (杉本、2000)、p.198
  3. ^ (冨島、2010)、pp.178 - 179
  4. ^ (杉本、2000)、p.198
  5. ^ (杉本、2000)、p.198
  6. ^ (冨島、2010)、pp.123 - 130, 179
  7. ^ (伊藤、1992)、pp.90 - 91
  8. ^ (冨島、2010)、p.31
  9. ^ 杉本宏「12世紀中頃の宇治と平等院の復元想像図」『国宝 平等院展』、pp.166 - 167
  10. ^ (杉本、2000)、p.200
  11. ^ (冨島、2010)、pp.18 - 19
  12. ^ 上島享「中世庄園制の形成過程-〈立庄〉再考」『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、平成22年(2010年ISBN 978-4-8158-0635-4 所収
  13. ^ 藤本孝一「平等院領」『平安時代史事典』角川書店、平成6年(1994年ISBN 978-4-04-031700-7
  14. ^ 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p.127の年表
  15. ^ 宇治市平成10年12月定例会-12月15-05号-P.245「市長(久保田勇君)」(日本語)
  16. ^ 平等院公式サイト
  17. ^ 平等院鳳凰堂、本尊の魂移す 大規模修理に備え:朝日新聞2012年9月3日
  18. ^ 平等院鳳凰堂:平安の色 平成の大修理終了後のCG画像公開:毎日新聞2013年7月10日
  19. ^ 「極楽さもありなん」創建当初の鮮やか色彩に 平等院鳳凰堂の修理方針発表:iza2013年7月10日
  20. ^ 「新しい鳳凰堂に期待を」 56年ぶり修理平等院・神居住職が会見 京都msn2013年7月10日
  21. ^ (伊藤、1992)、pp.89 - 90, 128 - 130
  22. ^ 『国宝 平等院展』、p.45
  23. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、pp.8 - 106, 8 - 111
  24. ^ (伊藤、1992)、p.130
  25. ^ (冨島、2010)、pp.24, 30
  26. ^ (冨島、2010)、pp.24 - 25
  27. ^ (冨島、2010)、p.35
  28. ^ (冨島、2010)、pp.30 - 31
  29. ^ (冨島、2010)、p.31
  30. ^ (冨島、2010)、p.31
  31. ^ (伊藤、1992)、p.96 - 105
  32. ^ (伊藤、1992)、p.130
  33. ^ 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p.123
  34. ^ (伊藤、1992)、p.104 - 106
  35. ^ 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、pp.28 - 34
  36. ^ 『国宝 平等院展』、p.215
  37. ^ (伊藤、1992)、pp.107 - 108
  38. ^ 百橋明穂「鳳凰堂彩色復元」『国宝 平等院展』、pp.158 - 160
  39. ^ (伊藤、1992)、pp.108,113 - 114
  40. ^ (冨島、2010)、pp.38 - 39
  41. ^ (冨島、2010)、p.25
  42. ^ (伊藤、1992)、p.115 - 117
  43. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝74』、p.8 - 103
  44. ^ (伊藤、1992)、pp.117 - 118
  45. ^ 吹田直子「平等院庭園発掘調査の記録」『国宝 平等院展』、pp.162 - 164
  46. ^ 小埜雅章「仏とともに観想する景色 平等院阿弥陀堂池庭」『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、pp.90 - 95
  47. ^ (冨島、2010)、pp.28, 100
  48. ^ a b c 鳳凰堂、平安期の瓦1500枚 創建50年後 屋根ふく?『京都新聞』 2月14日(木)22時49分配信
  49. ^ a b c d e 国宝・平等院鳳凰堂で大量の平安期の瓦 修理で確認 『産経新聞』 2月14日(木)23時40分配信
  50. ^ 残っている1560枚のうち向山瓦窯製は1273枚で、あとは奈良で製造された瓦とされている
  51. ^ (冨島、2010)、pp.95, 110
  52. ^ 菩薩像は本尊の左右(南北)の壁に各26対ずつ懸けられており、北1号 - 北26号、南1号 - 南26号の整理番号が付けられている。南26号像は長らく「番外」とされ、国宝指定外であったが、平成20年(2008年)に国宝に追加指定された。
  53. ^ 北23号と南6号像は作風から鎌倉時代の補作とされている(特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館ほか、平成12年(2000年))。
  54. ^ 鳳凰堂内にはレプリカ像も含め30数体が残っている。
  55. ^ 『別冊太陽 平等院 王朝の美 国宝鳳凰堂の仏後壁』、p.64(執筆は有賀祥隆)
  56. ^ (渡邉、2009)、pp.40 - 41
  57. ^ (冨島、2010)、pp.70 - 73

関連項目[編集]

外部リンク[編集]