平等院
| 平等院 | |
|---|---|
鳳凰堂(国宝) |
|
| 所在地 | 京都府宇治市宇治蓮華116 |
| 位置 | 北緯34度53分21.45秒 東経135度48分27.69秒 |
| 山号 | 朝日山 |
| 宗派 | 単立 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建年 | 永承7年(1052年) |
| 開基 | 藤原頼通、明尊(開山) |
| 文化財 | 鳳凰堂、阿弥陀如来坐像ほか(国宝) 世界遺産 |
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園などを今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。また鳳凰堂が十円硬貨の表の絵柄として有名である。
目次 |
歴史[編集]
平等院の創建[編集]
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていたが、翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
『仏説阿弥陀経』では、「從是西方 過十万億佛土 有世界 名曰極樂 其土有佛 號阿彌陀 今現在說法 舍利弗 彼土何故 名爲極樂 其國衆生 無有衆苦 但受諸樂 故名極樂[1]」と説かれている。その意は、「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて、世界あり、名づけて極楽と曰う。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまう。舎利弗、かの土を何のゆえぞ名づけて極楽とする。その国の衆生、もろもろの苦あることなし、但もろもろの楽を受く、かるがゆえに極楽と名づく[2]」で、阿弥陀如来とその仏国土である「極楽」について説かれている。平等院の庭と建物は、その極楽浄土をあらわしており「浄土庭園」と言う。
飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。
平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。
平等院には、鳳凰堂以外に以下のような堂塔が建ち並んでいた。
- 法華堂 - 天喜4年(1056年)、頼通によって建立。今の平等院ミュージアム付近にあった。
- 多宝塔 - 康平4年(1061年)、頼通の娘の四条宮寛子(かんし)によって建立。鳳凰堂の南東方向の宇治川べりにあった。
- 五大堂 - 治暦2年(1066年)、右大臣・藤原師実(頼通三男)によって建立。鳳凰堂背後の浄土院付近にあった。
- 不動堂 - 延久5年(1073年)、右大臣・源師房(頼通養子)によって建立。鳳凰堂の南西方にあった。
平等院領[編集]
平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。治暦3年(1067年)10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた。翌年3月、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は3月28日(5月2日)には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。頼通は翌29日(3日)に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日(22日)に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であった後三条天皇が即位して延久元年(1069年)には有名な延久の荘園整理令を出した。摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園の公験として有効とされて整理を免れた(延久の荘園整理令は有効な太政官符・太政官牒を持たない荘園を整理対象としていた)[3]。
その9か所の全てについては明らかではないが、山城国紀伊郡芹川荘、摂津国住吉郡杭全荘・島下郡平田荘、河内国河内郡玉櫛荘、近江国高島郡子田上荘・同郡河上荘の6か所を含んでいることが知られている。頼通の没後、平等院領は殿下渡領と並んで藤氏長者の支配する所領の中核として位置づけられ、代々の摂関が継承してきた。嘉元3年(1305年)に作成された『摂籙家渡荘目録』(「九条家文書」)によれば、平等院領は12か国に18か所あったという[4]。
現在の平等院[編集]
現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。
1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築 平成13年(2001年)9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。
平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建てのマンション2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている[5]。
平成24年9月3日~平成26年3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われる[6][7]。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなる。
境内[編集]
鳳凰堂[編集]
天喜元年(1053年)の建立[8]。浄土式庭園の阿字池の中島に東向きに建つ。本尊阿弥陀如来像を安置する中堂(ちゅうどう)、左右の翼廊、中堂背後の尾廊の計4棟が「平等院鳳凰堂」として国宝に指定されている。中堂は入母屋造、裳階(もこし)付き。東側正面中央の扉を開放すると、柱間の格子は本尊の頭部の高さに円窓が開けられており、建物外からも本尊阿弥陀如来の面相が拝せるようになっている。阿弥陀如来の住する極楽浄土は西方にあると信じられており、池の東岸(あるいは寺の前を流れる宇治川の東岸)から、向かい岸(彼岸)の阿弥陀像を拝するように意図されたものである。中堂の屋根上には1対の鳳凰(想像上の鳥)像が据えられているが、現在屋根上にあるのは複製で、実物(国宝)は取り外して別途保管されている。本尊阿弥陀如来像(国宝)は仏師定朝の確証ある唯一の遺作。本尊を安置する須弥壇は螺鈿(らでん)や飾金具で装飾され、周囲の扉や壁は極彩色の絵画で飾られ、天井や柱にも彩色文様が施されていた。長押(なげし)上の壁には楽器を奏で、舞いを舞う姿の供養菩薩像の浮き彫り(現存52体)があり、本尊の頭上には精巧な透かし彫りの天蓋(てんがい)を吊る。現在、壁画は剥落が激しく、柱や天井の装飾は色あせ、須弥壇の螺鈿は脱落しているが、創建当時の堂内は、当時の貴族が思い描いた極楽のイメージを再現した、華麗なものであったと思われる。なお、「鳳凰堂」の呼称は江戸時代からで、当初は「阿弥陀堂」あるいは単に「御堂」と呼ばれていた。日本の十円硬貨には平等院鳳凰堂が、一万円紙幣には鳳凰堂の屋根上に飾られている鳳凰がデザインされている。
鳳凰堂には52049枚の瓦が使用されており[9][8]、建立当時は木製瓦を使った木瓦(こがわら)葺きだったが[8]、約半世紀後の康和3(1101)年の修理で粘土瓦を使った総瓦葺きに改修された[9][8]。粘土瓦は平等院の荘園であった「玉櫛荘(たまくしのしょう)」(現在の大阪府八尾市)の向山瓦窯跡で1100年初頭に製造されたとされ[9][8]、2012年9月に始まった改修作業でも平安期の陶器瓦が1560枚のそのまま残っていることが確認された[8][10]。
その他[編集]
- 庭園 - 中島に鳳凰堂の建つ阿字池を中心とした浄土式庭園。国指定の名勝。平成2年(1990年)からの発掘調査により平安時代築造の州浜が検出され、現在は創建当初の姿に復元整備されている。鳳凰堂への入堂も池の北岸から2つの小橋を渡る当初の形式に復されている。
- 観音堂 - 境内北側、表門を入って左側に建つ。鎌倉時代初期の建築で本堂跡に建てられた。国の重要文化財に指定されている。本尊十一面観音立像(平安時代後期)を安置していたが、現在は鳳翔館に移されている。
- 鐘楼
- 表門
- 南門
- 鳳翔館 - 境内南側にある博物館で、平成13年(2001年)に開館した。平等院鳳翔館の項を参照。
塔頭寺院[編集]
- 浄土院 - 本堂、羅漢堂、養林庵書院
- 最勝院 - 不動堂、源頼政の墓地
文化財[編集]
国宝[編集]
- 鳳凰堂
- 「伽藍」の節を参照
- 木造阿弥陀如来坐像
- 仏師定朝の確証ある唯一の遺作。寄木造漆箔、像高284cm。定朝は和様彫刻様式の大成者、また寄木造技法の完成者として日本彫刻史上著名な仏師である。円満な面相、浅く流れる衣文などを特色とする定朝の優美で温和な作風は、「仏の本様」と称されて平安時代の貴族にもてはやされ、以後の仏像彫刻には定朝様(よう)が流行した。定朝が制作した法成寺(藤原道長が建立した寺)などの仏像はことごとく失われ、晩年の作品である平等院像は、彼の作風を具体的に知ることのできる唯一の遺品として、きわめて貴重なものである。像内納入品の木板梵字阿弥陀大小呪月輪(もくはんぼんじあみだだいしょうじゅがちりん)と木造蓮台は国宝の附(つけたり)指定となっている。
- 木造雲中供養菩薩像 52躯
- 鳳凰堂中堂の長押上の壁を飾る浮き彫りの菩薩像。飛雲に乗り、阿弥陀如来と共に来迎する菩薩像を表したもので、52体(平成20年(2008年)に追加指定された1体を含む)が国宝に指定されている[11]。各像のポーズは変化に富み、琴、琵琶、縦笛、横笛、笙、太鼓、鼓、鉦鼓などの楽器を奏する像が27体あり、他には合掌するもの、幡や蓮華などを持つもの、立って舞う姿のものなどがある。菩薩形の像が主だが、僧形の像も5体ある。本尊阿弥陀如来像と同様、天喜元年(1053年)の作とされるが、補修はかなり多く、頭部が明治時代の修理で補作されているもの、像全体が鎌倉時代の補作であるものが各数体ある[12]。現存52体だが、当初全部で何体あったのかは定かでない。52体のうち半数の26体は鳳翔館に移されている[13]。
- 鳳凰堂壁扉画(へきひが)14面
- 中堂の扉10面、壁4面は、国宝建造物の一部であると共に、そこに描かれた絵は絵画部門の国宝にも指定されている。主な主題は『観無量寿経』に基づく九品来迎図である。壁画の構成は以下のようになっている。
- 正面中央扉(2面)上品上生図
- 正面北扉(2面)上品中生図
- 正面南扉(2面)上品下生図
- 北面扉(2面)中品下生図
- 北面壁(1面)中品中生図
- 南面扉(2面)下品上生図
- 南面壁(1面)下品中生図
- 本尊後壁正面(1面)図様不明(阿弥陀供養図とする説が有力)
- 本尊後壁背面(1面)下品下生図・中品下生図
- 西面(背面)扉(2面)日想観図
- 以上のうち、北面壁、南面壁、本尊後壁(表裏)は当初は土壁で、壁画が描かれたのは鎌倉時代に下るとされていたが、本尊後壁については創建時にさかのぼるとの新説もある[14]。扉絵は創建当初のものであるが、正面中央の2面の扉は、最も消耗が激しかったためか、江戸時代の寛文10年(1670年)の修理の際に取り替えた新しい扉になっており、国宝の14面には含まれない「附(つけたり)指定」となっている。その他の画面も剥落が激しく、画面には江戸時代末期の落書きも目立つが、平安時代後期 - 鎌倉時代の貴重な絵画遺品である。なお、正面と南北側面のオリジナルの扉は取り外して宝物館に収められており、代わりに復元模写の扉がはめられている。
- 木造天蓋
- 本尊阿弥陀如来像の頭上に吊られた木造天蓋で、像とは別個に、彫刻部門の国宝に指定されている。折上小組格天井形の方蓋と、その内側に吊る円蓋からなり、透彫と螺鈿で装飾されている。
- 鳳凰(鳳凰堂中堂旧棟飾)
- 阿弥陀堂中堂大棟の南北両端部に設置されていた金銅製の鳳凰像。北方像・南方像の一対で、北方像は総高235.0センチメートル、像高98.8センチメートル、総幅34.5センチメートル、南方像は総高228.8センチメートル、像高95.0センチメートル、総幅44.5センチメートル。
- 製作は阿弥陀堂の創建と同時期であると考えられているが、藤原資房日記『春記』の長久2年(1041年)条に拠れば同年2月23日(3月27日)・24日(28日)に仏師定朝に対して龍頭の製作が命じられていることから、鳳凰像も定朝により原型が製作された可能性が考えられている。また、源師時日記『長秋記』の長承3年(1134年)条の記述から製作は本体部分が鳥羽の鋳物師、翼や風切羽は鳥羽の鋳物師によって鋳造された可能性が考えられている。近世には本像に因み阿弥陀堂は「鳳凰堂」の通称で呼ばれる。
- 頭部・胴部・翼・脚部の各部は別々に鋳造され、銅板製の風切羽と共に鋲で留められ組み立てられている。一部に鍍金が残されているが、現在は全体が銅錆で覆われている。円盤状の台座に立つ鳳凰像で、頭部には鶏冠・冠毛・肉垂が表現され、太い眉と鋭い嘴をもつ。首から胴体には魚鱗紋が表現され、頚部には宝珠の付いた首輪がはめられている。風切羽は多くが後補であるが、鋤彫により波並が表現されている。現在は屋根上に複製像を設置し、鳳凰像は鳳翔館に収蔵されている。
- 梵鐘
- 鳳凰堂と同じ11世紀頃の制作と推定される。全面に天人、獅子、唐草文様などの繊細な浮き彫りを施した、他に例を見ない鐘である。「音の三井寺」、「銘の神護寺」、「姿、形の平等院」と謳われ、神護寺、園城寺(三井寺)の鐘と共に、「天下の三名鐘」に数えられている。現在鐘楼にある梵鐘は複製で、実物は鳳翔館に収蔵されている。この梵鐘は昭和55年(1980年)11月25日発行の60円普通切手のデザインにも採用されている(平成18年(2006年)現在も利用可能だが、販売は平成14年(2002年)に停止)。
- 雲中供養菩薩像52躯のうち
重要文化財[編集]
- 観音堂
- 木造十一面観音立像
- 養林庵書院 - 山内寺院の浄土院に建つ。非公開。
史跡・名勝[編集]
アクセス[編集]
参考文献[編集]
- 東京国立博物館ほか編『国宝 平等院展』(特別展図録)、朝日新聞社発行、平成12年(2000年)
- 井上靖、塚本善隆監修、竹西寛子、宮城宏著『古寺巡礼京都8 平等院』、淡交社、昭和51年(1976年)
- 『日本歴史地名大系 京都府の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
- 特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館・仙台市博物館・山口県立美術館、平成12年(2000年)
脚注[編集]
- ^ 『佛説阿彌陀經』(0346c10〜0346c14) - SAT DB(大正新脩大藏經テキストデータベース)
- ^ 真宗聖典編纂委員会 編 『真宗聖典』 真宗大谷派宗務所出版部、P.149。
- ^ 上島享「中世庄園制の形成過程-〈立庄〉再考」『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、平成22年(2010年) ISBN 978-4-8158-0635-4 所収
- ^ 藤本孝一「平等院領」『平安時代史事典』角川書店、平成6年(1994年) ISBN 978-4-04-031700-7)
- ^ 宇治市平成10年12月定例会-12月15-05号-P.245「市長(久保田勇君)」(日本語)
- ^ 平等院公式サイト
- ^ 平等院鳳凰堂、本尊の魂移す 大規模修理に備え:朝日新聞2012年9月3日
- ^ a b c d e f 国宝・平等院鳳凰堂で大量の平安期の瓦 修理で確認 『産経新聞』 2月14日(木)23時40分配信
- ^ a b c 鳳凰堂、平安期の瓦1500枚 創建50年後 屋根ふく?『京都新聞』 2月14日(木)22時49分配信
- ^ 向山瓦窯製は1560枚のうち1273枚で、残りは奈良で製造されたとされる
- ^ 菩薩像は本尊の左右(南北)の壁に各26対ずつ懸けられており、北1号 - 北26号、南1号 - 南26号の整理番号が付けられている。南26号像は長らく「番外」とされ、国宝指定外であったが、平成20年(2008年)に国宝に追加指定された。
- ^ 北23号と南6号像は作風から鎌倉時代の補作とされている(特別展図録『国宝平等院展』、東京国立博物館ほか、平成12年(2000年))。
- ^ 鳳凰堂内にはレプリカ像も含め30数体が残っている。
- ^ 平成21年(2009年)1月23日の平等院の発表によると、本尊後壁の絵は鳳凰堂創建期にさかのぼるもので、画題は「阿闍世(あじゃせ)太子授記」と推定されるという(同年1月24日付新聞各紙)。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 世界遺産 平等院 公式サイト(日本語)
|
|||||||