中村不折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
中村不折肖像

中村 不折(なかむら ふせつ、慶応2年7月10日1866年8月19日) - 昭和18年(1943年6月6日)は明治、大正、昭和期に活躍した日本の洋画家書家である。正五位太平洋美術学校校長。夏目漱石吾輩は猫である』の挿絵画家として知られている。

経歴[編集]

不折の書

父・源蔵、母・りゅうの子供として東京の京橋に生まれ幼名を鈼太郎といった。一時は郷里の高遠に帰るも22歳の時に上京し、高橋是清の館に住み込みながら小山正太郎に師事し絵を学んだ。その後、30歳の時には正岡子規とともに新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍し中国に渡り書に興味を持った。36歳の時には渡仏して、ラファエル・コランジャン=ポール・ローランスらから絵の指導を受け1905年の帰国後は明治美術会の後身である「太平洋画会」に所属し主に歴史画の分野で活躍した。また森鷗外夏目漱石等の作家とも親しく、『吾輩は猫である』『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書いた。

中国の書の収集家としても知られ顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「自書告身帖」などを収集し、1936年台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造清酒真澄」や新宿中村屋の商品表記に用いられている。

不折と歴史画[編集]

フランス留学から帰国した不折は東西の歴史を題材とする油絵を多く描いた。この時期の作品である「建国剏業」(1907年)は東京府主催の勧業博覧会に出品され第1等を獲得したが、天皇家の祖先神たる天照大神とそれを守護する7人の男神たちをすべて裸で描いたため、当時の文部大臣九鬼隆一は「不敬である」と激怒。なおこの作品は関東大震災で焼失してしまった。

関連書籍[編集]

関連項目[編集]