稲毛重成
| 稲毛重成 | |
|---|---|
| 時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
| 生誕 | 不詳 |
| 死没 | 元久2年6月23日(1205年7月11日) |
| 改名 | 小山田重成、稲毛重成、道全(法名) |
| 別名 | 小山田三郎、稲毛三郎、 稲毛入道、小沢入道 |
| 墓所 | 神奈川県川崎市多摩区 広福寺 |
| 幕府 | 鎌倉幕府 |
| 主君 | 源頼朝、頼家、実朝 |
| 氏族 | 桓武平氏良文流 秩父氏、小山田氏、稲毛氏 |
| 父母 | 父:小山田有重 |
| 兄弟 | 重成、榛谷重朝、田奈有朝、 小山田重親、森行重 |
| 妻 | 北条時政の娘 |
| 子 | 小沢重政、女(宇都宮頼綱室)、 女(綾小路(源)師季室) |
稲毛 重成(いなげ しげなり)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。桓武平氏の流れを汲む秩父氏の一族。武蔵国稲毛荘を領した。父は小山田氏の祖・小山田有重。畠山重忠は従兄弟にあたる。
[編集] 生涯
当初、小山田重成を名乗る。父小山田有重は畠山重能と共に平家の忠実な家人として仕えた。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵では平家方として頼朝と敵対したが、同年10月、 隅田川の長井の渡しにおいて、畠山重忠ら秩父一族と共に頼朝に帰伏し御家人となる。その後頼朝の正室政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を安堵され、枡形山に枡形城(現生田緑地)を築城、稲毛三郎と称した。
養和元年(1181年)、 前年に所領として加えられた多磨郡の土地が、本来は平太弘貞の所有である事が発覚し、頼朝の怒りを受ける。文治3年(1187年)、弓術の行事に参加し、源頼朝より弓三張が下賜される。神鳥前川神社を創立。寿永3年(1184年)の木曾義仲追討に参加、続く 一ノ谷の戦いでは源範頼の軍に加わる。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に参加。建久元年(1190年)の頼朝上洛に供奉。
建久6年(1195年) 6月、 頼朝の再上洛に随行し、その帰路美濃国で妻の危篤を知る。頼朝から駿馬が下賜され急ぎ本領へもどる。同年7月、妻の病没を悲しみ出家して法名を道全と名乗った。以降、稲毛入道、小沢入道と呼ばれる。建久9年(1198年) 重成は亡き妻のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養に出席した頼朝が帰りの道中で落馬し、それが元で死去している。
元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱が起こり、北条時政の謀略によって従兄弟の重忠が滅ぼされると、その原因は重成の謀略によるもので、重成が舅の時政の意を受けて無実の重忠を讒言したとされ、翌23日、三浦義村によって弟の榛谷重朝、その子太郎重季・次郎秀重が謀殺され、重成は大江戸行元によって殺害された。子の小沢重政は宇佐見祐村に討たれた。
11月3日、一族の小沢信重が乳母夫を務める2歳の姫を伴って京から鎌倉を訪れる。姫は源師季(綾小路師季)と重成の娘の間の子で、北条時政の外曾孫であった。重成の災禍を恐れて隠れ住んでいたが、哀れんだ北条政子が綾小路の姫を自身の猶子として、重成の遺領武蔵国小沢郷を与えた。