洲崎神社

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洲崎神社
拝殿
拝殿
所在地 千葉県館山市洲崎1697
位置 北緯34度58分5秒
東経139度45分29.60秒
主祭神 天比理刀咩命
社格 式内社(大)・安房国一宮・県社
創建 神武天皇の治世
本殿の様式 流造
例祭 8月20日
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浜鳥居
海岸に面して立つ。眼前の海は東京湾に出入りする大型船舶や漁船が行きかう海上交通の要衝であることから、当社では戦前まで航海安全を祈願して船頭が奉納した絵馬が多く見られたと言う。
大鳥居
背後の御手洗山から朝日が昇るところ。鳥居の向こう150段の階段の先に拝殿の屋根が見える。
随身門
宝永年間の建造。社殿へ上がる階段上り口にある。

洲崎神社(すさきじんじゃ、すのさきじんじゃ)は、千葉県館山市洲崎(すのさき)の御手洗山の中腹にある神社である。式内社安房国安房郡 后神天比理乃咩命神社 元名洲神」の論社で、江戸時代に安房国一宮とされた。旧社格は県社

目次

[編集] 祭神

  • 天比理乃咩命(あまのひりのめのみこと)[1] - 安房神社祭神天太玉命の后神で元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称した。

延喜式神名帳』では当社の祭神名を「天比理咩命」とし、鈴鹿連胤の『神社覈録』、教部省編纂の『特選神名牒』、当社配布の『参拝の枝折』などはこれに従っている。しかし『延喜式神名帳』よりも古い成立の『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』では「天比理咩命」(あめのひりとめのみこと)としており、『洲崎大明神由緒旧記』や『洲宮神社伝記』はこちらに従って祭神名を記載している。『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]によれば、この相違が起こったのは元来正史にある天比理刀咩命と記すべきものを『延喜式神名帳』が誤って「刀」を「乃」と記載した為と考えられているのだと言う。

また、慶長2年(1597年)の著とされる『金丸家累代鑑』に「安房郡洲宮村魚尾山に鎮座する洲宮后神社は、後に洲宮明神と称し、それを奥殿とし二ノ宮と曰う。また、洲崎村手洗山に洲崎明神あり、これを拝殿とし、一宮と曰う」とあることから、『中世諸国一宮制の基礎的研究』[3]では当社と洲宮神社は「洲の神」を祀る2社一体の神社で、当社が「洲の神」を祀る一宮、洲宮神社が「洲の神」を祀る二宮とされたのではないかと考察している。『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]でも同様のことを述べている。

[編集] 歴史

大同2年(807年)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年(紀元前660年)に神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓した後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとされている。宝暦3年(1753年)に成立した当社の社伝『洲崎大明神由緒旧記』によれば、神武天皇の治世、天富命が祖母神の天比理乃咩命が持っていた鏡を神体として、美多良洲山(御手洗山)に祀ったのが当社の始まりであるという。

また、『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』には、天富命15代目の子孫である佐賀斯の第2子・色弗が初めて祖神天太玉命の后神を祀ったとの記述がある。『安房忌部家系之図』や『斎部宿禰本系帳』では色弗の兄の第4子・加奈万呂が安房神社第22代祠官として勝義と改名し、勝浦崎(洲崎)に仮宮を作って天比理刀咩命を祀ったとしており、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]では色弗が初めて祀った斎場は大和国で、加奈万呂が勝浦崎(洲崎)に仮宮を作った養老4年(720年)7月が当社の創始とされている、との説を紹介している。

当社の社伝によれば、養老元年(717年)大地変のため境内の鐘ヶ池が埋まり、地底の鐘を守っていた大蛇が災いしたので役小角が7日7夜の祈祷を行い、明神のご神託により大蛇を退治して災厄を除いたのだと言う。また、役小角が海上安全のため浜鳥居前の海岸と横須賀に御神石を1つずつ置いた[4]など、当社には修験道の開祖である役小角にまつわる伝承が多くあり、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]では当社が古くから神仏習合思想や修験道の影響を強く受けていたことを物語っていると述べている。

「安房国 天比理刀咩神」は度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている。まず、『続日本後紀』承和9年(842年)10月2日の条により無位から従五位下へ陞叙された。『日本文徳天皇実録』仁寿2年(852年)8月22日の条では従三位に進み、『日本三代実録』貞観元年(859年)1月27日の条で従三位勳八等から正三位となった。

延長5年(927年)の『延喜式神名帳』に「安房国安房郡 后神天比理乃咩命神社 大 元名洲神」と記載され、天比理乃咩命神社は大社に列格された。当社は、この天比理乃咩命神社の論社の1つで、もう1つの論社である洲宮神社と、どちらが式内社であるか江戸時代から争うようになる。

永保元年(1081年)神階が最高位の正一位に達した。また、後の弘安4年(1281年)には元寇の役の功により勲二等に叙せられている。

治承4年(1180年)8月、源頼朝石橋山の合戦に敗れ海路で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条によれば、安房に逃れた源頼朝は上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、当社へ参拝して使者が交渉を成功させて無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事に役目を果たし、同年9月12日の条では当社に神田が寄進された。また、寿永元年(1182年)8月11日の条では、頼朝の妻政子の安産祈願のため、安房国の豪族である安西三郎景益が奉幣使として当社へ派遣されたことが記されている。以降も関東武家の崇敬を受けた。

また、『吾妻鏡』治承5年(養和元年、1181年)2月10日の条では、安房国洲崎神領で在庁官人らが煩いをなすことを停止させる下知書が洲宮神官宛に下されているが、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]によれば、これが当社と洲宮神社の関連を記した文書の初見となっているのだと言う。

文化9年(1812年)、房総沿岸を視察した筆頭老中松平定信が「安房国一宮 洲崎大明神」の扁額を奉納した。江戸時代一宮とされた根拠はこの扁額であるが、「安房一宮 洲崎大明神」となっており、断定できない。これをもって一宮としたのは、昭和13年(1938年)に来房した栃木県の郷土史研究家であり、どの書物にも正式に一宮と記載された歴史はない。『館山市史』では、当社を一宮としたのは西岬に一宮道があったことによる誤りではないかと述べている。

江戸時代までは別当養老寺が当社を支配し、これが明治元年(1868年)に神仏分離令が出されるまで続いた。明治5年(1872年)神祇を管轄する教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して当社を式内社とした。『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』[2]によれば、決定の論拠はあまり明白で無いのだと言う。また、同6年(1873年)近代社格制度により当社は県社へ列格された。

当社は海上交通の関所と言うべき位置にあり、昭和15年~16年(1940年 - 1941年)頃まで沖を通る船に奉賽を納めさせる風習があった。昭和47年(1972年)御手洗山が「洲崎神社自然林」として千葉県指定の天然記念物となっている。現在は兼務社となり、神職は常駐していない。

[編集] 分社

東京都品川区品川神社は、源頼朝が海上安全のために当社から勧請したものである。

室町時代には江戸城を築いた太田道灌が、江戸の鎮守として分霊を勧請した。『永享記』には「神田の牛頭天王、洲崎大明神は安房洲崎明神と一体」とあり、ここから神田明神もしくはその摂社・八雲神社が道灌の勧請した洲崎明神の後裔という説があるが、現在はどちらにも天比理刀咩命は祀られていない。

神社近くの波左間海中公園内の海中に、水難事故・水難事件防止を祈願するために作られた当社の分社がある。日本唯一の「水中神社」である。

[編集] アクセス

[編集] 脚注

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  1. ^ 祭神の名と読み仮名については当社で配布している『参拝の枝折』に従った。
  2. ^ a b c d e f 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 ㈱白水社 1984年12月 より。
  3. ^ 中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月 より。
  4. ^ 対を成すもう1つの御神石は、横須賀市吉井に鎮座する安房口神社の御神体になっている。

[編集] 参考文献

  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第32巻 吾妻鏡前編』 ㈱吉川弘文館 1964年7月
  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第4巻 日本三代実録』 ㈱吉川弘文館 1966年4月
  • 黒板勝美 國史大系編修会 編 『國史大系 第3巻 日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録』 ㈱吉川弘文館 1966年8月
  • 全国神社名鑑刊行会史学センター 編 『全国神社名鑑 上巻』 全国神社名鑑刊行会史学センター 1977年7月
  • 谷川健一 編 『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 ㈱白水社 1984年12月
  • 神道大系編纂会 編 『神道大系 古典編5 古語拾遺附注釈』 神道大系編纂会 1986年3月
  • 中世諸国一宮制研究会 編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月
  • 千葉県神社庁房総の杜編纂委員会 『房総の杜』 ㈱おうふう 2004年9月
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