伊東祐親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
伊東祐親
時代 平安時代末期
生誕 不詳
死没 寿永元年2月15日1182年3月20日
別名 次郎、祐近、伊東入道、祐親法師
墓所 静岡県伊東市大原
氏族 藤原南家伊東氏河津氏
父母 伊東祐家
河津祐泰祐清八重姫三浦義澄室、
工藤祐経前妻、北条時政前妻、ほか

伊東 祐親(いとう すけちか)は平安時代末期の伊豆国武将豪族藤原南家の流れを汲む伊東祐家の子。祐近とも。

[編集] 生涯

伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父祐家が早世すると、祖父祐隆(法名寂心)は後妻の連れ子である工藤祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親には河津荘を与えた。総領の地位を奪われた事に不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子工藤祐経から伊東荘を奪った。これを恨んだ祐経は祐親の嫡男河津祐泰を狩りの場で射殺し、これがのちに祐親の孫たちが起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。

東国における親平家方豪族として平清盛からの信頼を受け、平治元年(1159年)の平治の乱に敗れて伊豆に配流されてきた源頼朝の監視を任される。しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、一子千鶴丸を儲けるまでの仲になってしまう。祐親はこれを知って激怒し、安元元年(1175年)9月、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。祐親はこの前後に出家している。

治承4年(1180年)8月に頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。頼朝の妻北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。

八重姫と千鶴丸のエピソードにより敵役のイメージの強い祐親であるが、地元の伊東市では毎年「伊東祐親まつり」が開催され、物見塚公園には祐親の騎馬武者像が建てられるなど、郷土の英雄として親しまれている。

孫には曾我兄弟の他、鎌倉幕府二代執権北条義時、有力御家人の三浦義村がいる。

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス