竹崎季長
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竹崎 季長(たけさき すえなが、寛元4年(1246年) - 正和3年(1314年)頃)は、鎌倉時代中期における九州の御家人。通称は五郎。兵衛尉。元寇における自身の戦功を描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。
[編集] 生涯
肥後国竹崎郷(熊本県宇城市松橋町)の出身。菊池氏の一族[1]であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため、季長が持っていた所領は相当少なかったと言われている。姉婿に鎌倉幕府政所執事を務める二階堂行忠の家人・三井資長がいる。
文永11年(1274年)、元(蒙古)の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、博多において箱崎の少弐景資の軍に参陣し、息浜に陣した。合戦では、景資の許しを得て5名の郎党とともに赤坂へ赴く。赤崎では既に菊池武房が蒙古兵を討ち取っていたが、武房は少弐氏の指揮下ではなく、季長は戦傷を負いながらも一番駆けの武功を立てた。
文永の役は、暴風雨とも撤退とも言われる事情で蒙古軍が一夜にして博多湾から去り、終結する。季長の武功は、負傷したのみであり、戦功とは認められなかった、あるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長はこれを不服として、建治元年(1275年)6月に馬などを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられた。
弘安4年(1281年)、蒙古の第二次侵攻である弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島や壱岐の海戦で敵の軍船に斬り込む等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。
戦後には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった安達泰盛や少弐景資らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があるとも指摘されている。
正応6年(1293年)、菩提寺を建立して出家。正和3年(1314年)、死去。享年69。熊本県宇城市の塔福寺に葬られた。

