竹崎季長

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竹崎季長
Takezaki Suenaga.jpg
蒙古襲来絵詞』より蒙古軍に突撃する季長
時代 鎌倉時代中期
生誕 寛元4年(1246年
死没 不詳
改名 季長、法喜(法名)
別名 五郎(通称)
墓所 熊本県宇城市小川町北海東 平原公園
官位 兵衛尉
幕府 鎌倉幕府
主君 惟康親王久明親王
氏族 菊池氏
兄弟 姉(三井資長妻)、季長

竹崎 季長(たけさき すえなが)は、鎌倉時代中期の御家人元寇における自身の戦いを描かせた『蒙古襲来絵詞』で知られる。

[編集] 生涯

肥後国竹崎郷(現熊本県宇城市松橋町)の出身。菊池氏の一族[1]であるが、同族内の所領争いに敗れて没落した。このため季長が持っていた所領は相当少なかったか、もしくは所領を失った「無足の御家人」であったと言われている。

文永11年(1274年)、蒙古)の第一次侵攻である文永の役(元寇)では、博多において箱崎少弐景資の軍に参陣し、息浜に陣した。合戦では、景資の許しを得て5名の郎党とともに赤坂へ赴く。赤崎では既に菊池武房が蒙古兵を討ち取っていたが、武房は少弐氏の指揮下ではなく、季長は戦傷を負いながらも一番駆けの武功を立てたとされている。

文永の役は、暴風雨とも撤退とも言われる事情で蒙古軍が一夜にして博多湾から去り、終結する。季長の武功は負傷したのみであり、戦功とは認められなかったかあるいは事務的な手違いで報告されておらず、恩賞も与えられなかったと言われている。季長はこれを不服として、建治元年(1275年)6月になどを処分して旅費を調達し、鎌倉へ赴いて幕府に直訴する。同年8月には恩賞奉行である安達泰盛との面会を果たし、恩賞地として肥後国海東郷の地頭に任じられた。泰盛との対面がかなったのは、季長の烏帽子親である三井季成と幕府実力者との繋がりによるものと見られる。

弘安4年(1281年)、蒙古の第二次侵攻である弘安の役では、安達盛宗(泰盛の子)の指揮下において、志賀島壱岐海戦で敵の軍船に斬り込む等の活躍をして軍功を挙げ、多大な恩賞を与えられた。戦後の永仁元年(1293年)には元寇における自らの武功や鎌倉へ赴く事情などを中心に『蒙古襲来絵詞』(竹崎季長絵詞)を描かせ、甲佐大明神へ奉納した。このとき季長に恩賞の便宜を取り計らった泰盛や景資らは、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅びており、恩義のある彼らへの鎮魂の意味があると考えられている。

『蒙古襲来絵詞』より鎌倉の安達泰盛邸で先駆けの功を訴える季長(右)

永仁元年(1293年)、菩提寺を建立して出家し、法喜と号する。同年、所領の郷社に対して祭田・修理田・出挙などに関する7か条の置文を定め、正和3年(1314年)には更に18か条の置文を改めて制定した。元亨4年(1324年)3月4日、海東神社に対して修理費用として銭162貫文・米67石・田1町を寄進した記録が残っているが、以降の消息は不明[2]

熊本県宇城市塔福寺に葬られた。また、同市小川町北海東にも季長のものとされる墓があり、平原公園として整備されている。

[編集] 脚注

  1. ^ 以前は阿蘇神社大宮司阿蘇氏の一族とみなされていたが、竹崎氏が藤原姓を名乗る点から宇治姓の阿蘇氏庶流とするには矛盾がある。(参考:松本雅明 『熊本の美術工芸』 熊本日日新聞社、1978年、30-31P」「松本寿三郎、板楠和子、工藤敬一、猪飼隆明 『熊本県の歴史』 山川出版社、1999年、98P」
  2. ^ 田中健夫石井正敏編『対外関係史事典』(吉川弘文館、2009年)
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[編集] 関連項目

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