藤原広嗣

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藤原広嗣 『前賢故実』より

藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ、生年不詳 - 天平12年11月1日740年11月28日))は、奈良時代の廷臣。藤原式家の祖、参議藤原宇合の長男。母は石上麻呂(一説には蘇我倉山田石川麻呂)の女。官位従五位下大宰少弐

生涯[編集]

聖武天皇の時代に朝廷において圧倒的な権力を誇っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなった天平9年(737年)の9月28日に従六位上から従五位下に昇叙される。天平10年(738年)4月22日、大養徳(大和)守を兼任する。なお、叙爵以降に式部少輔に任官されている。朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと、親族への誹謗を理由に同年12月4日に大宰少弐に左遷される。

広嗣は左遷を不服とし、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督吉備真備と僧正・玄昉に起因するとの上奏文を朝廷に送るが、時の権力者左大臣橘諸兄はこれを謀反と受け取った。真備と玄昉の起用を進めたのは諸兄であり、疫病により被害を受けた民心安定策を批判するなど、その内実は諸兄その人への批判であることは明白であった。聖武天皇はこれに対して広嗣の召喚の詔勅を出す。

広嗣は勅に従わず、天平12年(740年)弟・綱手とともに大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱を起こした。しかし大野東人を大将軍とする追討軍に敗走し、最後は肥前国松浦郡で捕らえられ、同国唐津にて処刑された(藤原広嗣の乱)。これによって多くの式家関係者が処分を受け、奈良時代末期には一時的には政治の実権を握るものの、後世における式家の不振を招く要因の一つになった。

広嗣の怨霊を鎮めるため、唐津に広嗣を祀る鏡神社が創建された。新薬師寺の西隣に鎮座する鏡神社はその勧請を受けたものである。

参考文献[編集]

  • 八木充「藤原広嗣の叛乱」『山口大学文学会志』11-2。
  • 坂本太郎「藤原広嗣の乱とその史料」『古典と歴史』。
  • 丸山二郎「藤原広嗣の乱と鎮西府」『歴史教育』3-5。
  • 栄原永遠男「藤原広嗣の乱の展開過程」『太宰府古文化論叢』上巻。
  • 柳雄太郎「広嗣の乱と勅符」直木孝次郎博士古稀記念『古代史論集』中巻。
  • 横田健一「天平十二年藤原広嗣の乱の一考察」『白鳳天平の世界』。
  • 竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」『古代の日本』3、九州。
  • 北山茂夫「七四〇年の藤原広嗣の叛乱」『日本古代政治史の研究』。
  • 利光三津夫「広嗣の乱の背景」『律令制の研究』。
  • 木本好信「藤原広嗣の乱について」『奈良朝政治と皇位継承』。

広嗣を題材にした作品[編集]

  • 『朱盗』

 司馬遼太郎による短編小説。『オール讀物』1960年5月号に発表。新潮文庫『果心居士の幻術』(ISBN 978-4101152233) に収録。
 反乱を夢想していた広嗣が、偶然から「扶余の穴蛙(あなかわず)」と名のる奇怪な百済人の男と出会い、俗世のことをまるで意に介さずに超然としているその生き方に不思議な興をかき立てられる。

関連項目[編集]