村田銃

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村田銃(むらたじゅう)は、薩摩藩日本陸軍の火器専門家だった村田経芳がフランスのグラース銃(金属薬莢用に改造されたシャスポー銃)の国産化を図る過程で開発し、明治13年(1880年)に日本軍が採用した最初の国産小銃

建軍当時の大日本帝国陸海軍は、陸軍がイギリス製のスナイドル銃、海軍が同マルティニ・ヘンリー銃を使用していたが、村田経芳が十三年式村田銃の製造に成功したことで、初めて「軍銃一定」(主力小銃の統一・一本化)が成し遂げられた。このことが後の日清戦争において、雑多な小銃を用いる清軍に対し、日本軍の優位につながる一因となった。

村田銃の出現は火縄銃以来の300年の欧米とのギャップを埋め、国産銃を欧州の水準へ引き上げた。また、戦前戦後を通じて日本の猟銃の代名詞的な存在ともなった。

二十二年式村田銃

村田銃の出現まで[編集]

江戸時代後期に入り、阿片戦争など西欧列強のアジア進出が活発化し、日本国内でも西欧軍事技術の研究が盛んになり、各種の銃砲が積極的に輸入されるようになった。

これらの銃砲を国産化しようと努力した諸藩のうち、集成館事業によって大規模な殖産興業政策を採った薩摩藩の家臣だった村田経芳は、豊富な火器知識と卓越した射撃の技量により、薩摩藩兵から新生日本陸軍の将校に転じ、薩摩閥の大久保グループに属して日本陸軍の火器購入・運用・修理の統括責任者となった。

明治維新期は火器が飛躍的に発達しはじめた時期にあたり、様々な形式の火器が出現して数年を置かずに瞬く間に旧式化するというサイクルが繰り返されており、各藩から集められた火器は新旧各種が混在した状態だった。

発足したばかりの新生日本陸軍での歩兵教練は、輸入されたテキストとお雇い外国人による指導[1]に頼っており、1872年(明治5年)兵部省によって1870年版フランス陸軍歩兵操典 [2]が、次いで1874年(明治7年)に陸軍省によって1872年版同操典が採用[3]された事から、その主力小銃は全て後装式[4]に統一された。

当時の日本陸軍が保有していた後装式火器には各々長短があったが、スナイドル銃(金属薬莢式[5][6][7])が主力小銃となり、ドライゼ銃紙製薬莢[8])が後方装備とされ、この他に七連発の米国製スペンサー騎兵銃(リムファイア金属薬莢式[9])が騎兵銃として、前装式で旧式化していたエンフィールド銃がスナイドル銃への改造母体および射撃訓練用などに多数が保有されているなど、多種の銃器・弾薬が混在する状況に、日本陸軍は補給や訓練の面で大きな困難を抱えていた。

これらの銃器のうち、最も先進的な構造と優れた性能(射程・弾道特性)を有していたのはシャスポー銃[10]であり、村田経芳は新生日本陸軍が幕府陸軍から引き継いだシャスポー銃用の紙製薬莢の製造[11]や、消耗品であるガス漏れ防止用ゴムリングの調達に腐心[12]するなど、そのメンテナンスに努めており構造も熟知していた。

普仏戦争後の明治7年(1874年)に、フランス本国でシャスポー銃のグラース銃への改造が行われ、シャスポー銃最大の弱点だった紙製薬莢が金属薬莢式に変更されたことを知った村田経芳は、日本陸軍のシャスポー銃を金属薬莢式に改造することと、その国産化を企図し始めた[13]

明治8年(1875年)に村田経芳は射撃技術と兵器研究のためフランス、ドイツ、スウェーデンなどの欧州留学に赴き、シャスポー改造グラース銃を国産化する準備を開始するが、帰国すると郷里の鹿児島で西南戦争が勃発した。

決起した西郷軍には戊辰戦争を経験した多くの元薩摩藩兵・日本陸軍軍人が参加しており、日本陸軍は徴兵で集められた鎮台兵を大量投入して鎮圧を図ったため、忽ち主力小銃であるスナイドル銃の在庫が足りなくなる事態[14]が発生した。

これを絶好の機会と見た村田経芳は、フランスでその改造工程を実見したシャスポー改造グラース銃を参考に、金属薬莢式に改造したシャスポー銃を自ら試作し、ドイツの企業を下請けにして陸軍が退蔵しているシャスポー銃の改造作業を行い、実戦配備する事を計画[15]した。

しかし、この計画が実行に移される前に、日本陸軍はスナイドル弾薬の確保に辛うじて成功し、村田経芳自身も狙撃の腕を見込まれて西南戦争へ送られ、そこで負傷してしまった。

西南戦争は日本陸軍の勝利で終結したが、歳入のほとんどを戦費に使い果たした日本政府は財政難に陥り、陸軍も新小銃の国産化よりエンフィールド銃のスナイドル銃への改造を優先させたため、村田経芳のシャスポー銃改造計画は凍結された。

しかし、この凍結が怪我の治療を終えた村田経芳に時間の余裕を与え、シャスポー改造グラース銃を一部簡略化した設計で試作を始めた村田は、明治13年(1880年)に至り、ついに国産小銃の製造に成功した。

十三年式・十六年式・十八年式 村田単発銃[編集]

以下の村田銃は日清戦争の一線部隊で活躍したが、絶対数が足りず二線部隊の装備は依然としてスナイドル銃が用いられていた。

十三年式村田銃[編集]

十ヶ月に及ぶ欧州留学から帰国した村田経芳は、グラース(グラー)M1874ライフルやバーモン(ボーモン)M1871ライフルを参考に、明治13年(1880年)に日本独自の国産小銃を完成させ、日本陸軍によって制式採用され、制式名称を「紀元二五四〇年式村田銃」(後の明治18年(1885年)に、改良型の「十八年式村田銃」に合わせて、「十三年式村田銃」(正式には「明治十三年 大日本帝國村田銃」)に改称)とされた。

十三年式村田銃はボルトアクション式単発銃であり、使用弾薬は11mm村田(11x60R Japanese Murata)有縁(リムド)弾薬(装薬は黒色火薬)を使用したが、これはシャスポー/グラース銃に使用された11mmx59.5弾薬とほぼ同寸[16][17]のものだった。

これは、村田銃の生産と並行して手持ちのシャスポー銃を村田式(金属薬莢用)へ改造する作業[18]が同時に行われていたため、弾薬を共通化するための措置であり、これら改造されたシャスポー銃は“シヤスポー(シアスポー)改造村田銃”と呼ばれ[19]、明治18年(1885年)の時点で村田銃と呼ばれていた物の相当数がこの改造品であったこと[20]も記録されている。なお、当時の薬莢製造工程に起因するため[21]か、今日のリムド弾薬と異なり、リム底面は雷管周辺部のみが僅かに突き出した形状となっている。リム底面には寛永通宝等の江戸時代の通貨と同様の文字配列で四文字の刻印が記された。一般的には明治を表す「明」と、二桁の年号を一文字分に縮小した「廿三」(23)等の漢数字が製造年号として必ず刻印され、残りの二文字は「実包」あるいは村田の読みを仮借した造語である「邑手(むらた)」のどちらかが用いられた。

最重要部品である銃身はベルギーからの輸入に頼っていたが、その他の部品は全て日本国内で加工されていた。

村田十三年式がシャスポー/グラース銃と異なる点は、日本の気候に合わせて表面仕上げが白磨きではなくブルー仕上げ(酸化処理)とされ、ボルト後端のノブが単純な円形にローレット加工のみとされ製造が容易になっている点と、ボルト内部のスプリングに松葉バネを使用していた点である。

当初は参考としたシャスポーやグラースと同様にコイルスプリングを用いた機構を考えて、スプリングの製造装置を輸入して試作してみたが、良質な鋼材そのものを輸入に頼っていた当時の日本では満足なものを作ることができなかった。しかし松葉バネなら江戸時代から続く国産技術が存在したため、妥協的に松葉バネを使用して製造された。耐久性やメンテナンスの問題があったが、当時の日本の技術水準では一番確実な選択をしたと評価できる。バネはボルト・ハンドル部の内側に仕込まれ、そのためボルト・ハンドル部が太く平たくなっており、これが村田銃の外観の特徴になっている。尚、これと同様の機構を持った銃としてオランダボーモン銃がある。

薬室の密閉は金属薬莢の膨張作用と薬室内に挿入されたボルトの先端部で行い、大きく平たいボルト本体が機関部先端の溝に填り込むことで強固な固定が行われるため、ボルト先端には閉鎖機構や噛み合いラグの類は特に装備されていない。ボルトは90度垂直に起こすことでコッキングが行われ(コック・オン・オープニング方式)、十三年式や十三年式を参考にした村田式散弾銃の場合には、ボルトが後退した際にはボルト先端側面にマイナスネジで固定されたボルトストッパーが機関部後端に当たることでそれ以上の後退が阻止される。このボルトストッパーを取り外すことで簡単にボルトを機関部から抜くことができるが、古い銃の場合にはボルトストッパーが変形・脱落して排莢の際にボルトが後方にすっぽ抜けることもあった。十八年式では機関部左側面にマイナスネジ状のストッパーをねじ込むことでボルトの抜け止めが行われる形に変更された。

撃針はボルト後端の円形の出っ張り(コッキング・ピース)と一体化した長い複雑な形状のものが用いられ、コッキングした際にはこの円形の出っ張りが後方に突き出すことで、コッキングされているか否かが容易に判別できた。後年、村田式散弾銃においてはこの円形の出っ張りを指してデベソと呼ぶ場合があった[22]という。コッキングの判別自体が容易に行える上、コッキングされた撃針をゆっくり戻すには一旦ボルトを後方に引き、引き金を引いたままボルトを再度前進させることで簡単に行えたことから、十三年式、十八年式共に安全装置の類は一切装備されなかった

エキストラクターはボルトの側面に設けられた溝に簡易に嵌め込まれただけのものであり、ボルトを抜く際にはエキストラクターの脱落に注意する必要がある。このエキストラクターは薬莢を薬室から引き抜くだけの役割しか果たさず、後年の銃に見られるような薬室外に薬莢を蹴り出す機能は存在しないため、引き抜かれた空薬莢を排除するには銃を斜めに倒すか、ボルトを操作した手で直接薬莢を排除する必要がある。しかし、熟練した射手であれば引き金を操作する右手の中指と薬指の間に数発の予備弾を挟んでおき、小指と掌でボルトを操作しながら素早く装填することでかなりの速度で連射することもできたという。

銃身と機関部は銃身側に外ネジ、機関部側に内ネジが切られ、ねじ込み構造によって固定される。銃身後端には照星を正確に銃身直上に合わせるためのごく薄い微調整用金属製ガスケットが挿入され、銃身と機関部のシールが行われた。薬室後端部上面には異常腔圧により薬莢が破断した場合に撃針側から燃焼ガスの吹き抜けが起きないように非常用ガス抜き穴が設けられた。このガス抜き穴は日本軍の後継ボルトアクションライフルの多くに引き続き採用され続けた。

歩兵銃に菊の御紋が刻印されるようになったのも本銃が始まりである。西南戦争における退却の際、小銃を放棄して逃げる兵が続出したため、銃を捨てることがないようにとの村田の配慮で刻まれたと言われている。

十六年式騎銃[編集]

明治16年(1883年)には、カービン(騎兵用に馬上で取り扱いやすいように短銃身にした小銃のこと。騎兵銃)モデルとして、十三年式をベースにした「十六年式騎銃」(正式には「明治十六年 大日本帝國村田騎銃」)が開発され、スペンサー銃の後継として、騎兵や砲兵に配備された。

十八年式村田銃[編集]

明治18年(1885年)には、当時の日本人の体格に合わせ銃身長・銃床長を見直し、機関部にも改良を加えた「十八年式村田銃」(正式には「明治十八年 大日本帝國村田銃」)が制式採用され、銃身鋼材も含めた国産体制の構築が達成された(素材である鋼材の国内供給が実現するのは1901年八幡製鐵所建設以降のことである)(参照: 十三年式と十八年式の比較)

甲号擲弾銃[編集]

後に、十八年式の機関部を流用した擲弾筒である「甲号擲弾銃」が開発された。

村田十三年式銃剣[編集]

明治十三年に制式化された十三年式村田単発銃用銃剣。剣先が両刃になっている。剣長:71.0 cm、刃長:57.0 cm。 十三・十八年式村田銃は、銃先端右側面に着剣し、剣身は水平を向く。

十三年式・十八年式・十六年式 村田単發銃

  • 口径 11mm村田(11x60Rmm Japanese Murata)
  • 銃身長 840mm/840mm/740mm
  • 銃旋 5条
  • 全長 1,294mm/1,278mm/1,178mm
  • 重量 4,620g/4,098g/3,600g
  • 射程 1,800m/1,800m/1,500m
  • 銃剣身長 570mm/459mm/-
  • 銃剣量 1.000kg/0.662kg/-
  • 弾量 27.2g/27.2g/24.0g
  • 火薬量(黒色) 5.3g/5.3g/5.3g
  • 初速 437m/435m/400.2m

二十二年式村田連発銃[編集]

二十二年式村田連発銃」は、当時の欧州各国で採用され始めた連発式軍用銃を研究するため、明治22年(1889年)に再度渡欧[23]した村田経芳によって設計・製造された。

従来の黒色火薬にかわって無煙火薬を使用する小口径の8mm弾を使用し、銃身下部に8発収容の管状弾倉を持っていた。小銃と同時に騎兵銃も制定され、正式名称は「明治二十二年制定 大日本帝國村田連發銃」である。

撃発バネは単発銃の松葉バネからコイルバネに変更され、槓桿も小型化された。ライフリングは当時としては珍しかったメトフォード式を採用するなど、様々な新コンセプトを盛り込んだ意欲作であったが、軍用ライフル用弾倉として一時的に流行した管状弾倉を採用したことが、村田連発銃を短命に終わらせる原因となった。

管状弾倉を利用する銃器では、雷管に尖った弾頭がぶつかって暴発が発生するのを防ぐため必ず平頭弾丸を用いる必要があり、雷管も十三年式の村田一号雷管に保護カバーを追加した専用の物が用いられた。

欧州各国でも実用化されて間もなかった無煙火薬の採用で、高腔圧となった二十二年式は発射初速が一挙に上がり、弾道特性が悪化して命中率が低下した。また、弾薬をフル装填した際と、空の状態での重心の変化も無視できないほど大きく、1発撃つ毎に銃全体のバランスが変化してしまうため、初弾と最終弾で弾着位置が大きく異なってしまう一因となった。

二十二年式の管状弾倉は、現在の自動散弾銃などのように機関部下から弾薬を装填する機構ではなく、ボルトを開いて薬室側から弾を装填しなければならないため、弾薬の装填に時間が掛かり、装填時には射撃できないため、結果的には「多少弾が余分に持てる単発銃」程度の実用性しか得られなかったことや、給弾の信頼性にやや難があったことから兵士たちには不評であった。

黒色火薬銃の場合は弾丸の初速が遅く、弾頭形状が弾道特性に対して余り大きな要因にならないことや、散弾銃の場合には弾頭がケースの口巻きに保護されており弾倉内で雷管を叩く恐れがないことと元々長距離の狙撃を行うこと自体が少ないため、これらの欠点は通常殆ど問題になることはないのだが、村田連発銃は図らずも「無煙火薬を用いた近代ライフルには管状弾倉は全く不適」であることの良い実例となってしまった(これは同時期における、無煙火薬を使用した小銃としては世界初のフランスのルベルM1886ライフルにも当てはまる)。

管状弾倉を採用したことで銃身下のスペースが無くなったため、さく杖は短い物が銃床内部に収められており、清掃の際には数人がそれぞれのさく杖を繋ぎ合わせて交替で使用した。銃剣は十三年式から一挙に短縮化された二十二年式銃剣が採用された。また、現在の管状弾倉式の自動散弾銃に装備されているマガジンカットオフ機構に相当する機構もこの頃既に装備しており、薬室を解放して携行する際に送弾機構を予め停止しておくことも可能であった。近年の日本の研究者の報告[24]では、弾道特性の良い尖頭弾丸を使用した実包での射撃では後年の軍用小銃に匹敵する集弾性が発揮されるなど、決して粗悪な作りの銃ではなかったが、コンセプトが余りにも一時的な流行を追いすぎたことが祟り、村田経芳の後輩である有坂成章モーゼルボルトアクション小銃を参考に開発した三十年式歩兵銃が好評を博したことも相まって、軍制式としては極めて短命な8年という寿命に終わった。

日清戦争では十三年式、十八年式村田銃が、日露戦争では三十年式歩兵銃がそれぞれ主力小銃となったため、同銃が大規模な実戦で使用されたことはなく、台湾鎮定戦北清事変で用いられた記録が残るのみである。

また、十三年式・十八年式村田銃と異なり三十年式歩兵銃配備後も後方部隊及び教練用銃として軍で保管された後に、当時の財閥や陸軍の中古兵器を取り扱った泰平組合などを通じて主に中国へ輸出[25]され、散弾銃化されて民間に出回ることも無かったため、現存する銃・銃剣は国内外共に極めて少なく、程度の良い物は米国内でも高値で取引されている。

村田二十二年式銃剣[編集]

明治二十二年に制式化された二十二年式村田連発銃用銃剣。剣長:37.0 cm、刃長:28.0 cm。銃先端下面に着剣し、剣身は垂直を向く。

二十二年式村田連發銃 小銃/騎兵銃

  • 口径 8mm村田(8x53Rmm Japanese Murata)
  • 銃身長 750mm/500mm
  • 銃旋 メトフォード式4条
  • 全長 1,210mm/960mm
  • 重量 4,000g/3,853g
  • 射程 2,000m/1,500m
  • 弾量 15.5g
  • 火薬量(無煙) 2.4g
  • 初速 612m/590m
  • 銃剣身長 280mm

その後の村田銃[編集]

近隣諸国への供与[編集]

三十年式歩兵銃が採用されると、旧式火器となった村田銃の多くは猟銃に改造されて民間の銃砲店に払い下げられたり、学校教練用に用いられたが、一部は清国や朝鮮などの近隣諸国に供与された。

1898年6月にフィリピン革命政府カティプナン)が、M.ポンセ・F.リチャウコの2名を、日本からの武器・弾薬の調達と支援獲得を求めて派遣した際に、日本滞在中の孫文宮崎滔天の紹介で中村弥六犬養毅らの口添えを受け、陸軍参謀本部から中古の村田銃などの払下げを得て、1899年7月に布引丸に村田銃を積んで出航するも途中で台風に遭って沈没するという事件(布引丸事件)が発生した[26]

尚、太平洋戦争末期には、火器不足から他の旧式銃とともに村田銃も倉庫から引っ張り出され、本土決戦を控えた隣組の在郷軍人達に再配備されたと伝えられている。

猟銃としての村田銃[編集]

村田銃を背にした秋田県上小阿仁村八木沢集落最後のマタギ佐藤良蔵(1958年)

村田銃の猟銃としての歩みは、明治14年に松屋兼次郎が村田経芳の指導の元で火縄銃の銃身に村田式機関部を取り付けた元込め散弾銃を開発したことに始まる。

旧式化した十三年式・十八年式村田銃の一部は、軍の収益事業の一環として着剣装置や銃身内のライフリングを銃身長の半分まで削り取られ[27]散弾銃に改造されてから民間に払い下げられ、軍用銃としてよりも長い期間を猟銃として活躍した。

村田銃の散弾銃への改造は東京砲兵工廠小銃器製造所が担当し、この時に11mm村田弾をベースにした30番真鍮薬莢が工廠の薬莢製造施設を流用する形で製造が始められた。

「村田銃」の名前は、始めは払い下げられた軍用ライフル銃や、それを改造して散弾銃とした物を指していたが、後に村田経芳が村田銃のパテントを民間に広く販売したことにより、多くの民間銃器メーカーや銃職人により軍用村田銃の機構を模した散弾銃が作られることとなった。最初はそれらの散弾銃は村田式散弾銃と呼ばれていたが、次第に本来の村田銃ではない同形式の猟銃もすべて「村田銃」と呼ばれるようになったのである。

当時は富裕層しか買うことのできなかった英国製水平二連銃やブローニング連発銃と比較して村田銃の価格は格段に安く、単発式ながらもそれまで民間で主流であった火縄銃よりも圧倒的に次弾発射までの時間が短縮されることから、村田式散弾銃は庶民の猟銃として戦後に至るまで広く親しまれた。昭和30年代にJISは散弾銃に関連した諸規格[28]を制定したが、この時に試験銃として採用されたのも村田式散弾銃であった。

形式には大きく分けて5種類あり、

  1. 軍用村田銃を改造し28/30/36番径とした物
  2. 村田経芳が設立した村田製作所(株式会社 村田製作所とは無関係)により、民間向けに軍用村田銃の構造を踏襲する形で最初から12番-40番径散弾銃として制作された物
  3. 民間銃器職人・工場にてライセンス製造された物[29]
  4. 火縄銃を改造し村田式のボルトを後付けした物
  5. 十三年式村田銃以前に陸軍に導入された洋式銃が村田式のボルトを取り付けて改造され、後に払い下げられた物

が存在し、いずれも「古式銃」[30]としては取り扱われず、現行の散弾銃として所持許可登録を行う必要がある。

戦後、新式の猟銃が普及したことにより村田銃が用いられることはほとんどなくなったが、老猟師やマタギを象徴するアイテムとして今日でもフィクション中に登場することがある。

なお、村田式散弾銃は口径が12番、16番、20番、24番、28番、30番、36番、40番、7.6mm(76番)まで幅広い種類が存在するが、十三年式・十八年式の軍用ライフル銃を由来とする村田散弾銃は28/30/36番などの比較的小口径の物が多い。民間製造品の中には12番や20番などの大口径銃も存在するが、村田散弾銃は全て、現行規格の12GA/20GAとは異なるサイズの専用規格の真鍮薬莢に黒色火薬や「送り」と呼ばれるフェルト製ワッズでハンドロードして使用するため、現在の紙またはプラスチックケース装弾を装填して撃つことは原則として不可能である。

その専用真鍮薬莢や弾頭類も、1990年代初頭頃にはメーカー品の製造が中止されたことや、火縄銃などと異なり「古式銃」にも相当しない「現行狩猟銃」のため、所持許可などの入手要件が厳しいこともあり、近年では村田式散弾銃の実射を行うことは、ある意味火縄銃よりも難しくなりつつあるのが現状[31]である。

村田銃が登場する作品[編集]

漫画・アニメ[編集]

小説[編集]

映画[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 陸軍省各局文書 卿官房 明治6年7月
    山県陸軍卿 明治6年7月18日
    「一歩兵操典 大隊ノ部 小隊ノ部 各一冊 右ハ今般教使エレマン氏講義ヲ@リ兵学寮於テ正@候条其局於テ活阪ヲ以テ改編取計可申此旨相達候事 明治六年七月十日 山県陸軍卿 第六局」
  2. ^ 公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第十一巻・明治四年~明治八年
    兵部省 明治5年2月12日
    「東京鎮台歩兵練兵式ヲ定ム 東京鎮台 其台本営歩兵之儀西暦一千八百七十年式ニ相定候間歩兵操典ニ基キ可致練兵候事衆規淵鑑
  3. ^ 陸軍省大日記 「大日記 諸寮司伺届弁諸達 1月金 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年1月
    「但仏書右此戸山出張所ニ於テ入用ニ付至急貸渡相成度此段相伺候也 曽我兵学頭代理六年十二月二十三日 兵学助 保科正敬山縣卿殿伺之通但買上下貸渡事 一月十三日 第六十九号千八百七十二年式仏歩兵操典 三部右歩兵科教師通弁課之者職務用必要ニ付至急御貸渡相成度尤御貯蔵乞之候事 実上御渡相成候様致度此段相伺候也」
  4. ^ 後装式のメリットは、その連射性と伏射姿勢を維持したまま弾薬の装填が可能な点にあった。
  5. ^ スナイドル銃に使用された.577 Snider弾薬は、1866年にイギリス陸軍に採用されたボクサー型雷管を使用する一体型薬莢であり、開発当初は真鍮製の基部と紙製の側筒部を組み合わせて製造されていたが、ほどなくして真鍮素材から一体成型された金属薬莢へ発展し、ボクサー型薬莢と呼ばれるようになった。
    ボクサー型薬莢は現代でもほぼ原型のまま使用されているほど完成度が高く、金属で密閉された発射薬と点火薬は環境の影響を受けにくく、多湿・多雨なアジア地域においてもその信頼性は比類なきものだった。
  6. ^ スナイドル銃は、各藩が多数の在庫を抱えながら旧式化してしまった前装式エンフィールド銃に、比較的簡単な加工を施すだけで製造できたため、コストパフォーマンスに優れており、日本陸軍のみならず各藩の鉄砲鍛冶の手になる無数の改造例が存在していた。
    陸軍軍政年報(明治八年の項より)
    第五 砲兵事務 (明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム 「スナテトル」弾製造器械来着セリ(八年九月)此器械ヲ用ユルキハ大凡一日五万発ノ弾ヲ製造スルコトヲ得ル~和歌山属廠ハ(当)時「ツンナール」ヲ用ヒサル因ヲ閉廠~ (注:アルミー銃とはスナイドル・アルミニー(歩兵)銃の意味)
  7. ^ スナイドル銃は最初期の後装銃だったため、薬室先端から弾丸がライフリングに喰い込む部分の調整が技術的に未確立な状態にあった。
    エンフィールド銃では紙に包まれた状態で装填されていた弾丸が、スナイドル銃では直接ライフリングと摩擦する構造に変更されたため、弾丸の初速を上げすぎると、摩擦熱で溶けた鉛がライフリングに付着して蓄積し銃身の寿命を短くするため低初速でしか使用できず、弾道特性の向上は期待できなかった。
    また、エンフィールド銃から簡単に改造できる事を優先したデザインだったため、撃発機構は管打ち式から流用されたサイドハンマー式のままで、射撃の際に銃身軸線へ大角度で打撃が与えられて干渉が生じ、命中精度の向上と有効射程距離の延長は期待できない構造だった。
    スナイドル銃弾薬は高い信頼性を有したが、その製造には大規模な設備と工業インフラの存在が不可欠であり、1877年(明治10年)までに同弾薬の国産化に成功していたのは集成館事業の蓄積を有した旧薩摩藩だけで、東京・大阪に基盤を置く新政府にとって、薩摩以外の供給源は輸入品しかなく、この事が薩摩閥の内紛が内戦に拡大した西南戦争勃発要因のひとつとなった。
  8. ^ ドライゼ銃(普式ツンナール銃)は、弾丸がサボットに包まれた状態でライフリングにより回転を与えられる構造であり、銃身への鉛の付着やライフリングへの喰い込みの問題はなかった。撃発機構も銃身軸線と並行して撃針が前後するボルトアクション式であり、命中精度への悪影響は極めて小さかったが、使用する弾薬が紙製薬莢式だったため環境の影響を受け易く、多湿・多雨な日本では発射薬の黒色火薬が湿気り易く、長い撃針が焼損して折れる問題と、手入れを怠るとボルトと銃身後端の隙間から高温・高圧の発射ガスが漏れ出す問題は最後まで解決されなかった。
    ただし、紙製薬莢はデメリットばかりではなく、水圧プレスなど専用設備を要する金属薬莢の製造に比べて、紙製薬莢はマニュファクチュアレベルの工業水準でも製造が可能であったため、ドライゼ銃を採用した紀州藩では工廠を設置して弾薬の国産化に成功しており、後の西南戦争勃発の時点で日本陸軍は200万発近いドライゼ弾薬の備蓄を有していた。
  9. ^ スペンサー騎兵銃坂本龍馬のエピソードで有名だが、リムファイア式薬莢を用いるため高腔圧の弾薬が作れず、拳銃弾程度の弱装であるため射程も短く、既に旧式化しつつあった。
  10. ^ シャスポー銃はドライゼ銃と同じく紙製薬莢を使用しながら、ドライゼ銃の欠点の多くを解決し、小口径ながら発射薬の量が多かったため、当時最も優れた弾道特性を有していたが、シャスポー銃に用いられる紙製薬莢はドライゼ銃以上に湿気の影響に弱かった。
    また、ドライゼ銃の欠点だったガス漏れを防ぐため、当時はまだ高価だったゴム製のリングを消耗品として使用しており、主力小銃として運用できるだけのゴムリングを確保するためには、フランスやイギリスといった特定のゴム産出国に依存し、高価な消耗品を輸入し続けなければならないという問題があった。
  11. ^ 陸軍省大日記 明治5年 「大日記 壬申3月 省中の部 辛」
    陸軍省 明治5年3月
    「沼津出張 間宮兵学大助教 右之者御用有之候間早々上京有様可分相成候也壬申三月二十八日 山県陸軍大輔 兵学寮 第八百七十九号 記 一金百両也 小銃弾函弐百個 但シ壱函ニ付金弐歩 寸法 堅壱尺五寸壱歩 横六七分 深サ四寸六分 木厚七分 但シ鉄釘打ニ付中函亜鉛板入子外函角ニ里ペッキ塗リ 右ハシャスポー実包弾格護用ニ付当司ニオイテ出来為致度有之御検印被下度候也 申出之通 三月二十六日」
  12. ^ 陸軍省大日記 明治7年 卿官房 12月
    兵学寮 第三局
    兵学寮 本年十月十九日ハ@第五千六十五号@@シヤスボー銃ゴム般来ニ付可@試験上タ相達@@@@@村田少佐右円流政正之ヲ以更ニ可改試検此上@相達之事 第三局 別紙之通兵学寮相達候条ニ@@@@@会試検可改此上@相返@
  13. ^ この時期、将来的にシャスポー改造グラース銃を日本国内で製造する事を規定路線としながら、当面はスナイドルを使用するとの通達が出されている。
    公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年~明治八年・第十一巻・明治四年~明治八年
    明治7年5月15日 太政官 陸軍省
    「東京鎮台歩工兵携帯銃シャスポー製作未整ヲ以テ姑クスナイトル銃ヲ以テ備付ト為ス 達東京鎮台 其台歩工@兵携帯銃シャスポート相定候ニ付テハ春@於造兵司@修理@店候@@@他@至為製作ノ品多分有之ヨリ右銃小ノ半ハ出来ニ至兼@付@延ニ及ヒ不都合ニ付当分「スナイトル」銃ノ以テ備付候条此旨相達候事 但「スナイトル」銃@@属品不足有之一時悉旨@付@難相成漸々取揃相渡一筈@候事衆規@鑑」
  14. ^ 各鎮台から西南戦争へ派遣される事になった兵のうち、ドライゼ銃(ツンナール銃)を支給されていた兵は、弾薬補給統一のためにスナイドル銃を新たに支給されてから九州へ派遣されていた。
    陸軍省大日記 明治10年 「大日記砲兵工兵の部12月木陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年12月
    「砲六百〇二号 大阪鎮台@歩兵第十連隊一大隊第一中隊従前携帯シスナイトル@出征之際ツンナール@@交換其兵@別紙之通@帰之数@返納之義伺出@此旨相達候事 十年十二月二十二日 陸軍卿山県有朋 砲兵支廠 別紙ハ~」
    陸軍省大日記 明治11年 「大日記鎮台の部 2月木乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年2月12日
    「東四十八号 其@歩兵第二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪鎮台@携帯スナイトル致ツンナール銃与交換出征@戦地ヨリ@ニ本営へ引揚@付@引渡方@五第三千十七号大阪鎮台伺出@之通及指令候条@心得此旨相達候事 明治十一年二月十二日 陸軍卿山県有朋 東京鎮台 別紙@大九十四号」
    しかし、途中からスナイドル銃のストックがなくなり、そのまま派遣される兵が存在していた事も記録されている。
    陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年4月
    「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」
  15. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月7日
    「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」
  16. ^ 11x60 R Murata Mod. 1880 / MUNICION.ORG
  17. ^ 11 x 59 R Gras - MUNICION.ORG
  18. ^ 陸軍省大日記 明治14年 「大日記 局部 9月水 陸軍省総務局」
    陸軍省 明治14年9月
    「二第@@二七号 @@第四十八号 当十四年度中村田銃其外製造@@@達相成度義伺 総水局第六〇三号 村田銃 同空@弾丸共 シヤスポー銃改造 右@@田銃其外製造之義予@東京砲兵工廠@年度之義ハ@@之通製造取計@達@相添此段相伺候也」
  19. ^ 陸軍省大日記 明治22年 「貳大日記 8月」
    監軍伯爵 大山巌 明治22年8月12日
    「総監第四〇六号 弐第一六二五号 監軍部 士官学校ヘ改造村田銃廃銃渡方之件 議案 明治二十二年八月十二日 甲第七一六号照会士官学校生徒銃槍試合演習用トシテシアスポー改造村田銃廃銃渡方之件承認候也 陸軍省送達 送乙第二四三二号 砲兵第一方面ヘ在案 @@弐第一六二五号監軍部照会之趣承認候条渡方取計フヘシ 士官学校生徒銃槍試合演習用トシテシアスポー改造村田銃廃銃渡方相成及該校長伺出候旨将校学校監具申候条渡方相成度此段及照会候也 明治二十二年六月二十五日 監軍伯爵 大山巖 陸軍大臣伯爵 大山巖殿 シヤスポー改造村田銃廃銃御渡之義伺 シヤスポー改造村田銃廃銃 四十挺 右当校生徒銃鎗仕合演習用トシテ御渡相成度此段相伺候也」
  20. ^ 陸軍省大日記 明治18年 「大日記 9月 月 陸軍省総務局」
    陸軍省 明治18年9月
    「電信局 陸軍省 @仲林@継@出@委@御打合相成度候也 総第二五三号 一第三五四九号 在靖国天津港@村田銃@貸渡度云ニノ義別紙ノ通波多野領事ヨリ申越@召@省御考案承@度右@相@ヘ此段申進候也 十八年九月十九日 井上@郷 大山陸軍@ 別紙 公信第五十一号 我陸軍省製造村田銃ハ精巧之良銃ニシテ殊ニ射的命中ニ宜敷トノ@当地ニ於テ評判高ク随テ清官并ニ他ノ外国人ニテ右銃ノ製法ヲ質問シ或ハ一覧ヲ請度旨申出@者モ有之@@製法ニ付テハ多少ノ説明ヲモ致@ヘモ何分實物ヲ有セサル@ニ付常ニ隔靴ノ憾アルハ免レサル所ニ有之@就テハ見本トシテ村田銃十五挺内長筒之分五挺短筒之分五挺仏国製シヤスポ銃改造ニ係ル村田銃五挺其筋ヨリ当館ヘ御貸渡相成候様致度@然ル時ハ前顕請求ニ應シテ一覧ヲ許シ實物ニ就テ其精巧ナル~」
  21. ^ 十三年式のボルトフェイス自体は平面のため、本来は平たいリム底面の薬莢を使用しても何ら問題はない。後年の8mm村田弾や村田式散弾銃用薬莢は平たいリム底面の薬莢に変更されているが、30番真鍮薬莢のみは最後まで11mm村田弾と同様のリム底面形状で製造され続けた。
  22. ^ 伊藤眞吉 「鉄砲の安全(その2)」『銃砲年鑑』06-07年版、254頁、2006年
  23. ^ 陸軍省大日記 明治22年 「伍大日記 5月」
    東京砲兵工廠提理 黒田久孝 明治22年4月15日
    伍第五四七号 村田歩兵大佐以下二名欧来江被差遣度義上申 東京砲兵工廠附 陸軍歩兵大佐村田経芳 陸軍砲兵監護山崎与 陸軍六等技手渡邊栄英 近時欧米各国ノ軍用銃ハ弾道ノ低伸ト射程ノ遠大ナルトノ企図セシヨリ専ラ小口径連発銃ノ制式ヲ採用スルニ至レリ而テ本邦ノ如キモ両三年前ヨリ之レガ制式ノ研究ニ怠ラス終ニ今回村田連発銃ヲ制定採用セラル爾来製造ノ御達モ有之其製作ニ従事罷在候処該銃ノ制式タル素ヨリ軍用村田銃ニ比スレバ数層之精蜜ヲ要スルハ勿論間々製作法ノ困難ナル部分アリテ意外ノ工金ヲ費シ随テ銃器ノ製造費ヲ高貴ナラシムルノミナラズ姑息ノ製造法ヨリ竟ニ不良ノ銃器ヲ製出スルノ患モ有之頗ル苦慮罷在候就テハ銃器製作ノ方法或ハ職工使役ノ程度器械工具ノ使用法等欧米各国ノ製造所ニ就キ実地研究習学為致候得者前件許数多ノ困難ヲ排除シ良器ヲ低廉ニ製作スルノ鴻益ヲ収メ得ラルベキ事ト確信致候依テ前書村田歩兵大佐以下二名ヲシテ小銃製造法為取調欧米各国江被差遣候様致度此段意見及上申候也
  24. ^ JapaneseWeapons.Net 須川薫雄氏 バンザイシュート報告
  25. ^ 陸軍省大日記 密大日記 明治43年
    泰平組合 明治43年4月19日
    密受第一五五号 泰平組合 旧式兵器拂下ノ件 銃密第三七号 指令 願之通聞届ク 但シ現品ノ受領代価納入等ノ儀ハ直接兵器本廠ヘ承合スヘシ 兵器本廠ヘ逹 村田連發銃 実包 右海外販売用見本トシテ拂下方泰平組合ヨリ願出認可候条拂下方取計フヘシ 陸密第七六号 但シ現品ノ@@代価納入等ノ儀ハ直接同組合理事呉大五郎ヘ指示スヘシ 泰陸第二十一号 拂下御願 二十二年式村田歩兵連發銃員革共 銃剣 彈藥合帯革剣差共 實包 右海外販売用見本トシテ御拂下被成下度此段奉願上候也 陸軍大臣子爵 寺内正毅
  26. ^ mofa.go.jp トップページ>外務省案内>外務本省
    外交史料Q&A 明治期 1890年代(明治23年~32年頃)
    “布引丸事件とは”より引用。
  27. ^ 村田銃のライフリング除去措置は、現代の猟銃に使用されるスラッグ銃身に銃身長の半分までライフリングを施せることの法的根拠となっている。
  28. ^ 散弾銃、紙・真鍮薬莢、銃用雷管、銃用黒色・無煙火薬など。現在では廃止規格になっている物が多い。
  29. ^ 多くは撃鉄ばねに松葉バネを使用しているが、金丸銃砲店製の物はコイルスプリング式に改良された。番系も12番から40番。中には40番より更に小口径の7.6mm(76番)径の物も制作された。
  30. ^ 概ね慶応3年(1869年)以前に製造または渡来した銃で、文化財保護を担当する都道府県教育委員会が、美術品もしくは骨董品として価値があると判断して登録されたもの。
  31. ^ ただし黒色火薬は勿論のこと、村田薬莢に適合する雷管として信号弾用の「はやぶさ雷管」が現在でも売られており、真鍮薬莢も12番や20番、28番などの海外でも比較的一般的な口径であればMagtech社製のプレス薬莢や、Circle Fly社製の羊毛ワッズが現在でも個人輸入可能なため、スラッグ弾を鉛で鋳造するなどして、標的射撃や実猟を楽しむ者もごく少数ではあるが存在する。

参考文献[編集]

  • 国際出版「月刊Gun」1978年3月号/4月号
  • 愛知県古銃研究会「あい砲 17号」
  • 社団法人全日本狩猟倶楽部「日本狩猟百科」

参照資料[編集]

  • 国立公文書館収蔵資料
  • 外務省外交史料館収蔵資料
  • 防衛省防衛研究所収蔵資料

関連項目[編集]

先代:
陸軍:スナイドル銃
海軍:マルティニ・ヘンリー銃
日本軍制式小銃
1880-1898
次代:
有坂銃