山田高塚古墳

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山田高塚古墳
Yamada Takatsuka kohun aerial.jpg
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
位置 北緯34度30分42.83秒
東経135度38分58.44秒
座標: 北緯34度30分42.83秒 東経135度38分58.44秒
所在地 大阪府南河内郡太子町大字山田
形状 方墳
規模 東西63m・南北56m
高さ12m
空壕幅7m
築造年代 古墳時代末期
被葬者 第33代推古天皇宮内庁治定)
史跡指定 宮内庁治定「磯長山田陵」
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磯長山田陵拝所(2008年7月6日撮影)

山田高塚古墳(やまだたかつかこふん)は、大阪府南河内郡太子町大字山田にある方墳古墳時代末期の古墳である。

宮内庁により「磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)」として第33代推古天皇に治定されている。

概要[編集]

東西63m、南北56m、高さ12m、空壕幅7mの方墳で、古墳時代末期に造られたと見られる。『古事記』推古天皇条「御陵在大野岡上。後遷科長大陵也」と『日本書紀』推古天皇36年条「葬竹田皇子之陵」などの記述をもとに、息子の竹田皇子が眠る大野岡上陵(奈良県橿原市植山古墳と治定)に合葬された後、竹田皇子とともに亡骸が遷された「科長大陵」が本古墳であると治定された。このため、被葬者は第33代天皇で、最初の女帝である推古天皇欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)と竹田皇子で、古墳内部には二つの石室があると推定されている。平安時代に盗掘され、天皇陵墓を理由にして考古学の発掘調査も行われていないため、実態は判然としていない。

江戸時代後期には江戸幕府により、保全作業が行われた。また、1991年平成3年)11月22日に、宮内庁の天皇陵保全事業の一環として、非公開で整備作業が行われた。

天皇陵治定への異論[編集]

推古天皇36年条に葬祭の状況を詳しく記述した『日本書紀』に『古事記』にある改葬の記述がないことなどから、改葬はされておらず、依然として奈良県橿原市にある植山古墳に合葬されたままであるとする説もある[誰によって?]

また、地元には南東200メートルに位置する双方墳二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがあるという[1]

名称[編集]

「山田」は古墳のある地名に由来し、地元住民から「山田古墳」と呼びなわされていたと言われる。「高塚」は、方墳の古墳形が盛土により築造されていることに由来する。

所在地・交通アクセス[編集]

周辺[編集]

[編集]

  1. ^ 太子町ホームページ - 二子塚古墳【国史跡】記載による

外部リンク[編集]