東急バス

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東急バス株式会社
TOKYU BUS CORPORATION
一般路線車
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
153-8518
東京都目黒区東山三丁目8番1号
設立 1991年5月21日
業種 陸運業
事業内容 乗合バス事業、貸切バス事業、特定バス事業、不動産他
代表者 取締役社長 長山昭一郎
資本金 33億円
売上高 272億5100万円
(2011年3月期)
従業員数 1,660名
(2011年3月31日現在)
決算期 3月
主要株主 東京急行電鉄 100%
主要子会社 東急トランセ
外部リンク http://www.tokyubus.co.jp/
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東急バス株式会社(とうきゅうバス)は、東京都城南地域・川崎市横浜市北部を中心にバスを運行する東急グループの会社である。東京急行電鉄のバス部門を分社化することにより1991年5月に設立され、同年10月より営業を開始した。本社は目黒区東山三丁目にある。不動産などの部門で付帯事業を営む。

路線バス事業としては、一般路線バスのほか、深夜急行バス空港直通バスなどを運行している。都市間高速路線(長距離夜行高速バス)に参入していた時期もあったが、収支状況の悪化により1998年までに全線から撤退した。貸切バス事業は1994年より順次縮小を進め、小規模なものとなっている。

関東の大手私鉄系バス会社で唯一、全ての路線が前乗り運賃先払いで、整理券方式の路線が無い。

目次

[編集] 沿革

ここでは、東京急行電鉄時代とその前身事業者のバス事業を含めた沿革について記述する。東京急行電鉄は1922年、目黒蒲田電鉄として設立された。

[編集] 目黒蒲田電鉄のバス事業

目黒蒲田電鉄がバス事業を開始したのは1929年のことであり、最初の路線は同年6月25日に開通した大井町線である。大井町線は、大井町駅を起点に西へ向かう路線であるが、当初の終点については荏原町車庫前と東洗足の2つの説がある。これは東急が発行した2つの社史においても食い違っているため、どちらが正しいのかの判断が困難であるが、いずれにしても鉄道の大井町線に並行する道路に路線を設けることで、その営業を防衛する意味合いを持つ路線であったことは間違いない。

目黒蒲田電鉄はその後、小山・自由ヶ丘・等々力・下丸子などに路線を拡張したのち、1933年に子会社・目蒲乗合を設立し、バス事業を同社に譲渡して分社化した。この間、1932年に大森乗合自動車を傘下におさめ開業させているが、同社もまもなく目蒲乗合が吸収合併した。

[編集] 池上電気鉄道および周辺事業者の合併・買収

目蒲乗合と池上電気鉄道のバス路線

1934年、目黒蒲田電鉄は池上電気鉄道を合併し、同社のバス事業を引き継いだ。池上電気鉄道のバスは1927年に中原街道の五反田駅 - 中延間で始まり、その後両端部を丸子渡および品川駅まで延長、さらにいくつかの支線を開通した。1930年には池上通りの大森 - 池上間を新たに開業し、1932年に池上 - 雪ヶ谷間を開通して中原街道と池上通りの連絡をつけた。これらの路線を、池上・中延の2車庫にて運営していた。

目黒蒲田電鉄は旧・池上電気鉄道のバスを継承後、直営で経営していたが、競合区間のある旧・池上路線と目蒲乗合を別会社で経営することは不合理であったため、3年後の1937年に目蒲乗合の路線を目黒蒲田電鉄に戻し、バス事業を直営に統合した。

その後、目黒蒲田電鉄は、玉川電気鉄道傘下にあった2つのバス事業者を1937年に合併する。すなわち、目黒通り周辺に路線を持つ目黒自動車運輸、田町・芝浦周辺を営業区域とする芝浦乗合自動車である。また、1939年には、大井周辺に路線を有する城南乗合自動車を傘下におさめている。

[編集] 旧・東京横浜電鉄のバス事業

旧・東京横浜電鉄も目黒蒲田電鉄と同じく、1929年にバス事業を開始した。最初の路線は東神奈川 - 六角橋 - 綱島間、東神奈川 - 六角橋 - 川和間の系統であるが、これらは神奈川自動車より譲受したもので、前者は現在の東横線に並行する旧・綱島街道を通るものであった。しかし、営業成績は芳しくなく、わずか3ヶ月足らずで子会社・東横タクシーを設立し、事業を同社に譲渡してしまっている。

1936年頃の東横乗合路線

また都内では、大橋 - 大鳥神社前間の免許を得ていたが、これも傘下の東横乗合に譲渡したうえで運行させることとした。東横乗合は、恵比寿・田町方面を運行していたヱビス乗合自動車に、同社の姉妹会社で渋谷・中野方面で営業していた代々木乗合自動車を合併のうえ、改称したものである。東横乗合はその後、世界恐慌の影響により業績が悪化しながらも積極的に路線の拡張を進め、1932年には杉並の大宮八幡から井の頭・武蔵小金井方面の人見街道周辺に路線を有する城西自動車商会を買収した。ただし、この線は不調に終わり、のちに帝都電鉄に譲渡している。

このように2つの子会社により経営されてきた旧・東横のバスであるが、バスの交通機関としての認知度が高まり、業界の活性化が進んだことを受け、段階的に直営化が進められることとなった。1933年には、東横タクシーに譲渡していた路線と同年買収した溝ノ口乗合自動車(鶴屋商会)などの路線を東京横浜電鉄が吸収し、神奈川県内で直営バス事業を再開した。続いて1936年に、貸切バス・タクシー業のみとなっていた東横タクシー、および東京横浜電鉄の子会社で中野・練馬方面に路線を有する大正自動車の2社を東横乗合が合併し、さらに東京横浜電鉄が東横乗合を吸収したことにより、直営化による統合が完了した。

[編集] 日本興業の路線継承と玉川電気軌道の合併

その後、東京横浜電鉄は、傘下にあった玉川電気鉄道を合併することとなる。その前段階として1937年、同社の子会社である日本興業のバス路線を吸収した。この路線は、「山手バス」の通称で呼ばれ、渋谷駅南口から代官山・恵比寿を経て赤十字病院(現・日赤医療センター)前に至るものであった。

そして、翌1938年に玉川電気鉄道を合併し、同社のバス事業を継承した。玉川電気鉄道のバス事業への進出は早く、1927年に軌道線に並行する渋谷 - 新町間を開通したのが始まりである。その後、1929年に淡島通り周辺に路線を持つ日東乗合自動車を合併、さらに1931年に八木哲から世田谷通り上の三軒茶屋 - 調布(国領付近)間を譲り受け、翌32年には同個人より神奈川県内の路線も継承した。東京横浜電鉄による合併時の路線網は、渋谷・広尾から世田谷・調布方面、さらには神奈川県の柿生・中山・勝田周辺にまでおよぶ広大なものであった。

[編集] 東横・目蒲の合併 - 大東急へ

1939年10月1日、目黒蒲田電鉄は東京横浜電鉄を合併し、同月16日、東京横浜電鉄に商号変更した。これにより、現在の東急バスにつながる路線の経営が一元化されたわけであるが、この時点では山手線内や芝浦地区のほか、中野・練馬方面にも路線を有していた。

東急から東京市への譲渡バス路線

その後、戦時下に公布された陸上交通事業調整法により、旧東京市内のバス路線に対する調整が命じられ、 1942年に一部路線を東京市に譲渡した。このとき対象となった路線は、右図の通りである。

戦時の統制下では、一方で東京横浜電鉄による周辺事業者の統合も進み、1942年には京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併、社名を東京急行電鉄に変更した。これにより、両社のバス事業を継承したほか、同日には城南乗合自動車のバス事業を吸収、その後まもなく梅屋敷・蒲田周辺で営業していた旧・京浜電鉄系の梅森蒲田自動車も吸収した。また、1944年には京王電気軌道を合併し、「大東急」と呼ばれる時代を迎えることとなる。しかし、この頃にはすでに物資不足のため、路線休止や代燃車での運行を余儀なくされる状態であった。

[編集] 戦後の復旧と発展

終戦時において休止バス路線は実に7割近くにも及び、戦後数年間は依然として車両や燃料の不足が続いていた。このため、大森駅 - 池上駅間に電気自動車を導入したり、神奈川県内の一部路線の運行を横浜市に委託したりするなどの措置がとられ、復旧が急がれた。一方、路線の新設も徐々に始まり、1947年にはGHQの指導により、東京都交通局との相互乗り入れによる都心直通路線の運行が始まった。都心直通路線は、駒沢・都立高校・洗足池の自社鉄道線3駅を起点とするものに始まり、のちに小田急線や京王線の駅にも拡大した。

1948年には、小田急電鉄京浜急行電鉄・京王帝都電鉄(現・京王電鉄)が分離され、「大東急」の時代が終焉を告げた。これにより、バス事業の一部が京急、京王帝都に譲渡されることとなったが、都内では両社との境界が戦前の旧・京浜電気鉄道、京王電気軌道時代とは異なるものとなった。すなわち、京急とは東海道線周辺において若干の路線調整が行われたにとどまったが、経営が不安定だった京王帝都には京王線以北の中野営業所・大正営業所と管轄下の多数の路線が譲渡されることとなった。一方、旧・京王電気軌道の路線のうち、京王線以南に大きく入り込んでいた千歳烏山 - 祖師ヶ谷大蔵間は東急が継承したが、この線は1952年に小田急バスに譲渡されている。

その後、東京駅 - 横浜駅間、渋谷駅 - 江ノ島間の長距離路線が相次いで開業し、1953年には休止路線の復旧を完了した。

昭和30年代には、郊外の世田谷区目黒区横浜市などで路線の伸びが著しく、営業所の新設も相次いだ。昭和40年代に入ると東急田園都市線が延長され、多摩田園都市における住宅路線の整備が進められた。また、都内では都心への新たな通勤手段として、首都高速道路経由路線が開通するなど、この時期は各地でめまぐるしい発展が見られた。

しかし、昭和40年代半ばころを境に輸送量は減少に転じることとなり、特に都内では新たな鉄道の開通や渋滞の悪化によりバス離れが急速に進んだ。このため、都心直通路線をはじめとする大幅な路線整理が行われ、昭和50年代以降は都内の営業所を一部廃止して、発展の余地のある神奈川県のニュータウン側の輸送に力を傾けた。

[編集] 東急バスの設立

その後、東急電鉄はバス事業の自立と経営の安定化を図るべく、1991年に東急バス株式会社を設立、事業を移譲した。これにより、収支はまもなく黒字に転じている。同じく東急バスのほうも、黒字を維持している。さらに、バス事業の規制緩和を前にした1998年には東急トランセを設立、代官山地区での運行を開始するとともに、翌年より東急バスの路線の受託運行を開始し、現在に至る。

[編集] 年譜

  • 1929年3月17日 東京横浜電鉄、神奈川自動車より東神奈川 - 川和間、六角橋 - 綱島を譲受し、バス事業を開業。
  • 1929年6月1日 東京横浜電鉄、バス事業を東横タクシー(5月に東京横浜電鉄の全額出資で設立。現在の神奈川都市交通の前身)へ譲渡。
  • 1929年6月25日 目黒蒲田電鉄、大井町駅 - 荏原町車庫前(東洗足との説もある)間を開業。
  • 1929年8月 東京横浜電鉄、ヱビス乗合自動車(1923年設立。田町駅 - 白金三光町 - 恵比寿駅間。現在の都営バス路線。)および代々木乗合自動車(1920年設立。渋谷駅 - 幡ヶ谷 - 中野駅間他)を傘下におさめる。
  • 1929年11月21日 ヱビス乗合自動車、代々木乗合自動車を合併し、東横乗合と改称。
  • 1932年2月 目黒蒲田電鉄、大森乗合自動車(未開業。大森駅 - 梅屋敷通り間。現在の京浜急行バスの路線。)を傘下におさめ、4月25日に開業させる。
  • 1932年12月8日 東横乗合、城西乗合自動車商会(大宮八幡公園 - 牟礼 - 武蔵小金井間。現在の京王バス東の路線)を買収。
  • 1933年2月 東京横浜電鉄、溝ノ口乗合自動車(古家達三経営。川崎駅 - 溝ノ口間他)を買収。
  • 1933年6月1日 目黒蒲田電鉄、バス事業を目蒲乗合(2月に目黒蒲田電鉄の全額出資で設立)へ譲渡。
  • 1933年6月1日 東京横浜電鉄、東横タクシーよりバス事業を譲受し、直営を再開。
  • 1933年8月1日 目蒲乗合、大森乗合自動車を合併。
  • 1934年10月1日 目黒蒲田電鉄、池上電気鉄道を合併し、同社バス路線(1927年9月開業。品川駅 - 五反田駅 - 中延間他)を承継。
  • 1935年4月8日 東横乗合、旧城西乗合自動車商会の路線を帝都電鉄へ譲渡。
  • 1935年7月26日 東京横浜電鉄、大正自動車(1929年5月設立。児玉衛一経営。中野坂上 - 中野駅 - 沼袋 - 練馬駅間他。現在の京王バス東の路線。)を傘下におさめる。
  • 1935年6月1日 東横乗合、大正自動車と東横タクシーを合併。東横タクシーからは観光バス事業を承継。
  • 1936年11月1日 東京横浜電鉄、東横乗合を合併し、バス事業を一本化。
  • 1937年6月1日 目黒蒲田電鉄、目蒲乗合からバス事業を譲受し、バス事業を一本化。
  • 1937年12月1日 目黒蒲田電鉄、目黒自動車運輸(1923年4月開業。玉川電気鉄道傘下。田町駅 - 高輪警察署前 - 日吉坂上 - 目黒駅 - 自由ヶ丘間他)および芝浦乗合自動車(1930年1月設立。玉川電気鉄道傘下。田町駅 - 天王洲橋間他)を合併。
  • 1937年6月1日 東京横浜電鉄、日本興業(通称・山手バス。玉川電気鉄道傘下。渋谷駅南口 - 赤十字病院前間他)の路線を譲受。
  • 1938年4月1日 東京横浜電鉄、玉川電気鉄道を合併し、同社バス路線(渋谷駅 - 溝ノ口 - 荏田 - 長津田間他)を承継。
  • 1939年6月16日 目黒蒲田電鉄、城南乗合自動車(大井町駅 - 立会川 - 現在の西大井駅周辺)を傘下におさめる。
  • 1939年10月1日 目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄を合併。
  • 1939年10月16日 目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄と改称。
  • 1942年2月1日 陸上交通事業調整法に基づく戦時統合のため、山手線以内を中心とする路線を東京市へ譲渡。
  • 1942年5月1日 京浜電気鉄道、小田急電鉄を合併し、東京急行電鉄に改称。両社のバス事業を承継。
  • 1942年5月1日 城南乗合自動車のバス事業を吸収。
  • 1942年12月 梅森蒲田自動車(旧京浜電気鉄道系。蒲田駅 - 六郷土手間他)のバス事業を吸収。
  • 1944年5月31日 京王電気軌道を合併し、同社バス事業を承継。
  • 1944年8月1日 府中乗合自動車商会(現在の京王バス中央の路線)を傘下におさめ、同時にバス事業を吸収。
  • 1947年6月25日 東京都交通局と協定し、駒沢 - 築地間、洗足 - 東京駅間、都立高校(現在の都立大学駅) - 東京駅間の三路線で都心相互乗り入れを実施。
  • 1947年7月11日 横浜市交通局と臨時運転契約を結び、8月1日から東神奈川 - 川和間、8月16日から横浜駅 - 杉田間(現在の横浜京急バスの路線)でそれぞれ横浜市営バスによる代理運行が行われる。
  • 1947年9月13日 大森駅 - 池上駅間で電気自動車を導入。
  • 1948年5月26日 日本遊覧自動車(現在の日本交通観光バス)に観光バスの営業権を譲渡。
  • 1948年6月1日 京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)、小田急電鉄京浜急行電鉄を設立して分離。京王線以北のバス路線を京王に、東海道線以南のバス路線を京急にそれぞれ譲渡。
  • 1953年7月22日 観光バス事業に再進出。
  • 1954年6月26日 江ノ島鎌倉観光(現在の江ノ島電鉄)との共同運行による、渋谷駅 - 江の島間の江の島線運行開始。
  • 1961年4月15日 大森駅 - 馬込循環線でワンマンカーの運行を開始。
  • 1961年7月1日 渋谷駅 - 長野駅間の長距離バス長野線、運行開始。
  • 1966年4月 第三京浜道路経由の渋谷駅 - 横浜駅西口間運行開始。江の島線も第三京浜経由に変更。
  • 1967年12月25日 首都高速3号渋谷線経由の高速通勤バス、桜新町 - 東京駅南口間運行開始。
  • 1971年6月30日 長野線廃止。
  • 1973年6月 乗合バスが全車ワンマン化。
  • 1974年 江の島線廃止。
  • 1975年12月24日 デマンドバス「東急コーチ」自由が丘駅 - 駒沢間運行開始。路線は貸切バスの扱い。
  • 1982年 第三京浜経由の京浜線(二子玉川園駅 - 横浜駅西口間)廃止。
  • 1987年5月16日 高速通勤バスの運行を取り止め。
  • 1988年10月25日 夜間高速バス「ミルキーウェイ」渋谷駅 - 和歌山駅間(和歌山線)および渋谷駅から鶴岡酒田間(酒田線)運行開始。
  • 1989年7月3日 深夜急行バス「ミッドナイトアロー」渋谷駅 - 青葉台駅間運行開始。
  • 1991年5月21日 東急バス株式会社設立。東京急行電鉄のバス事業を継承。
  • 1991年10月1日 東急バスが営業開始。
  • 1998年4月1日 東急トランセを設立。
  • 1998年9月30日 夜間高速バスから撤退。
  • 1998年10月1日 羽田空港連絡バス・たまプラーザ駅 - 羽田空港間運行開始。
  • 2001年3月1日 東急コーチのデマンド運行を廃止。一般路線バスに転換。(東急コーチの呼称は継続使用。)
  • 2003年4月16日 成田空港連絡バス・新百合ヶ丘駅 - たまプラーザ駅 - 成田空港間運行開始。
  • 2005年12月1日 パソコン・携帯電話から閲覧可能な東急バスナビが(一部路線を除く)路線バス全線に導入される。
  • 2006年11月16日 川和線市03系統(市が尾駅 - 横浜駅西口)区間廃止(又口橋 - 横浜駅西口が廃止)に伴い東急バスの横浜駅西口乗入れがなくなる。
  • 2007年7月12日 センター北・センター南 - 羽田空港間運行開始。
  • 2008年3月30日 横浜市営地下鉄グリーンライン開業に伴い、日吉駅・綱島駅・港北ニュータウン発着路線を再編。路線の新設・廃止・ルート変更、停留所の新設・移設・停留所名の変更など、再編の内容は多岐に渡る。
  • 2008年7月18日 中山駅・センター南 - 成田空港間運行開始。
  • 2008年9月8日 本社事務所を目黒区大橋一丁目から、目黒区東山三丁目の東急池尻大橋ビルに移転。
  • 2009年4月24日 二子玉川駅 - 羽田空港間運行開始。
  • 2010年9月30日 川崎営業所が営業を終了。
  • 2011年3月16日 武蔵小杉駅(横須賀線口)- 羽田空港間運行開始。
  • 2011年11月1日 通勤高速バス「TOKYU E-Liner」虹が丘営業所→渋谷駅間運行開始。

[編集] 営業所

営業所は、都内に7か所、神奈川県内に5か所があり、各営業所とも敷地内または直近に車庫を有している。数だけを見れば都内のほうが多いが、多くのニュータウンを抱える神奈川県内のほうが、1営業所あたりの規模が大きい。東急バスには、支所、分車庫等は存在せず、規模の小さい車庫も営業所として独立している。以下、所名の後に掲げるアルファベットは、所属車両の判別等のために設けられている各営業所の略記号である。

[編集] 廃止営業所

  • 不動前営業所 (3100)
    不動前営業所は、東横乗合をルーツとする中目黒営業所の移転により1940年7月9日に開設された。所在地は、山手通り沿いの東京都目黒区下目黒二丁目である。1969年5月7日、大橋営業所の開設とともに廃止され、跡地は東名急行バスの車庫として使われたのち、現在は東急不動前ビルが建っている。
  • 中延営業所 (N)
    都営バスと共管路線である雪が谷線(丸子橋 - 東京駅八重洲口、東90)をはじめ、上池上循環線(大森駅 - 夫婦坂 - 上池上 - 池上駅 - 大森駅、森06・07)等の中原街道周辺路線を受け持っていた営業所である。戦前の池上電気鉄道の乗合自動車をルーツとする営業所であるが、「東急バス10年のあゆみ」によれば、開設日は1947年6月25日となっている。所在地は、品川区旗の台一丁目の中原街道沿いで、1981年6月21日に廃止され、跡地には、かつて東急バスやグループの他社がフランチャイズとして参加していたTSUTAYA旗の台店が建っている。
  • 駒沢営業所 (K)
    駒沢営業所は、世田谷区駒沢四丁目の現・駒沢公園西口停留所前に置かれた営業所で、東京オリンピック輸送を主な目的として1964年10月1日に開設された。後に宿91(新宿駅 - 大森駅)やコーチ自由が丘線等を受け持ったのち、1984年3月16日に廃止となっている。跡地は折返所として使われたのち、現在は他企業に賃貸している。
  • 日吉営業所 (H)
    神奈川県内2番目の営業所として、1962年4月1日に港北区日吉四丁目に開設。日吉駅再開発に伴い1993年11月1日に廃止され、跡地は折返所となっている。
  • 大橋営業所 (O)
    東急玉川線(玉電)の廃止に伴い代替輸送を受け持つため、1969年5月7日、玉川線大橋車庫跡地(東京都目黒区大橋一丁目)に開設された。2002年9月16日に廃止され、跡地は首都高速道路中央環状新宿線大橋ジャンクションになった。
  • 川崎営業所 (KA)
    不動前営業所同様東横乗合をルーツとする溝ノ口営業所からの新丸子を経て二度目の移転で1940年6月12日に開設された営業所。所在地は神奈川県川崎市中原区小杉御殿町。2010年10月1日に廃止され、跡地は小杉折返所になったが、小杉折返所も2011年6月末をもって廃止された。

[編集] 営業所の変遷

1939年の目蒲・東横合併による新・東京横浜電鉄成立時において、営業所は東京13箇所、神奈川県2箇所の計15箇所があった。すなわち、エビス、代々木、中目黒、中野、大正、世田谷、淡島、新丸子、神奈川(以上、旧東横より継承)、池上、中延、神明、大森、下目黒、芝浦(以上目蒲より継続)である。その後、1940年に運用の効率化を図るべく、下目黒営業所(権之輔坂)を目黒営業所(清水)に、中目黒営業所を不動前営業所に、新丸子営業所を小杉営業所に、それぞれ移転・改称した。また同年には、代々木営業所も三角橋から代々木本町へ移転している。1942年に山手線内の路線を東京都に譲渡した際には、芝浦営業所が廃止され、他の営業所も編成替えが行われた。

終戦を経て、1948年にはいわゆる大東急が解体された。この際、旧・京浜電気鉄道、京王電気軌道のバス事業がそれぞれ京浜急行電鉄京王帝都電鉄に引き継がれたのに加え、両社との新たなエリア境界を京王線東海道線とすることが定められ、両線の外側を走る路線も両社に譲渡された。これに伴い、これらの地域を担当していた中野、大正、大森の各営業所がそれぞれ譲渡、または廃止された。

さらに、戦中・戦後の混乱の中で、エビス、代々木、世田谷、神奈川の各営業所が休廃止され、それぞれ近隣の営業所に統合された。その結果、淡島、目黒、不動前、中延、神明、池上、川崎(小杉から改称)の7営業所体制で再スタートが切られることとなった。

戦後は、休止路線の復旧や新線の開通が進められ、昭和30年代から営業所数は再び増加するようになる。世田谷区内では、1956年に瀬田営業所が開設され、多摩川流域を走る路線が移管された。続いて1959年には弦巻営業所が開設され、世田谷通りの路線などが移管された。1964年には、東京オリンピックの輸送等に対応するため、駒沢営業所が開設され、神奈川県内でも路線数の増加に伴い、1962年に日吉営業所、高津営業所が相次いで新設されている。

1966年には田園都市線長津田へと延伸されたのを受け、新羽営業所が開設され、延伸後の各駅を結ぶ路線の運行を開始した。1969年に玉川線が廃止されると、その大橋車庫跡地に大橋営業所が開設され、玉川線代替路線の運行を開始するとともに、同時に廃止された不動前営業所の路線を引き継いだ。

昭和40年代から50年代にかけて、多摩田園都市ではニュータウンと田園都市線各駅を結ぶ路線が急速に発達した。これらの多くは、高津営業所が長い回送距離を伴って担当しており、非効率であったため、田園都市内の新たな拠点として、1981年に青葉台営業所が、1986年に虹が丘営業所が開設された。なお、都内では同時期に路線の整理が行われ、青葉台営業所開設と引き換えに中延営業所が、1984年に駒沢営業所が廃止されている。

また、1993年には日吉営業所が廃止され、東山田営業所が新設された。これは、日吉営業所の敷地が東横線の線増工事のため収容されることとなったのに加え、輸送拠点を宅地造成の進む港北ニュータウン側に移したほうが有利との判断からである。

その後、1999年に全線の運行を東急トランセに委託する下馬営業所が開設され、2002年に大橋営業所が廃止された。

2010年に川崎営業所が廃止され、現在の12の営業所体制になる。

[編集] 車両

車両は、UDトラックス(旧・日産ディーゼル)日野自動車いすゞ自動車三菱ふそうトラック・バスの4メーカーより導入している。車両規模は2009年現在、930両強である。[1]

[編集] 路線車

一般路線車は、ホイールベース5メートル未満のいわゆる短尺車が多くを占めているが、田園都市線沿線の営業所には、大量の通勤・通学輸送に対応した長尺車も配置されており、中にはオールロングシートとなった車両もある。このほか、狭隘路線用の中型車・小型車、貸切輸送や高速走行に適したロマンス車東急コーチ専用車両などがある。いずれも、ワンステップ車・ノンステップ車の導入により、低床化が進められているところである。都内の営業所で導入される新車は一部を除き全てノンステップ車であるのに対し、県内の営業所で導入される新車はワンステップ車が中心であり、特に虹が丘営業所の場合2010年までノンステップ車が全く導入されていなかった。また、環境に配慮したハイブリッド車、CNG(圧縮天然ガス)車も使用されているほか、高速車、企業・学校輸送用の特定車、観光車などが少数ある。

一般路線車の塗装は、銀色に赤色の帯を配するデザインが基本である。このコンセプトは長らく変わっておらず、昭和20年代にはすでに銀と赤を基調とした塗装が施されていた。初期の車両には車体裾部に水色、赤帯上下に黄色が配されていたが、1968年に塗装作業の簡略化のため、赤帯を窓下に1本回すだけのシンプルなデザインとなり、東急のステンレス電車のイメージとも一致するこの銀と赤2色塗りの時代が長く続くこととなった。

その後、1985年に目黒通りに導入された「東急バス新交通システム」対応車(109車)、1986年に導入された初代ロマンス車をきっかけとして、再び塗装の一部にアクセントを加えた車両が導入されるようになった。これらの車両は幹線路線を走る機会の多い優等車両であることから、設備の向上だけでなく外観においても差別化が図られており、ロマンス車には金色が、109車には窓上と裾部に赤帯が、ノンステップ車には側面中ドア付近の裾と窓上に青帯がそれぞれ追加された。このような塗装上の区別は、1997年より導入されているノンステップ車・ワンステップ車においても同じように行われているが、現在はこれらの車両のみが投入されており、銀色に赤帯のみの車両は一部を除き投入されていない。 また、東急バスでは全ての車内広告を一定期間1つの顧客に統一する車両を「TOQ-BOX」として運行している。現在は2002年度導入車の一部がTOQ-BOXとして運用されており、過去には1993年度導入車、1987年度導入車のいずれも一部において運用例がある。なお、2008年6月ごろから安全対策のため路線車の後部に黄色の蛍光テープを貼り付け、2009年から全車を対象にドライブレコーダーが装備されるようになった。

高津営業所にドライブレコーダー・乗務員運転動作測定・車内アナウンス測定・エコドライブ測定機能を装備したTA8730(日産ディーゼルPKG-RA274KAN改ノンステップ車)が安全運転訓練車として在籍している(白ナンバーのため、営業路線に入ることはない)。

近年のリーマン・ショックに端を発する景気後退の影響から、ディーゼル規制によって車検が通らなくなる1997年度車(1600番台)の67台が置き換え対象であるにもかかわらず、2009年度新車(900番台)は、HOTほっとTOKYU7月号の公式発表で30台と発表されている。そのため2009年度から都内を中心に一部ダイヤで減便を行っており、減便で余剰となった車両を置き換え対象車のある営業所へ転属させ、経年車の置き換えに充当している。毎年のHOTほっとTOKYU7月号の公式発表で、2010年度の新車(1000番台)は28台、2011年度の新車(1100番台)は34台と発表されている。

2011年の会社設立20周年を機に、路線バスの正面左上(行先表示LEDから左)にイメージキャラクター「ノッテちゃん」の顔を描いたステッカーを貼付するようになった。このステッカーには顔の表情によって数種類のバリエーションがある。[1]

[編集] 高速車・貸切車

高速車は銀色に2色の帯が斜めに入り、ロゴが記載される。このデザインは昭和末期から平成初期に運行していた夜行高速バス専用車「ミルキーウェイ」で採用されていたものがベースで、帯は青と水色だった。主に空港リムジンバスとして運行される車両はマゼンタと藤色の帯にTOKYU Limousineのロゴ、通勤高速バスとして運行される車両は緑と黄緑の帯にTOKYU BUS Highway Linerのロゴが採用される。三菱ふそう・エアロバス/エアロエースシリーズが中心だが、空港リムジンでは日野・セレガも少数導入されている。空港リムジン運行初期には貸切からの転用車や他社からの中古車も使用されていた。通勤高速バスは三菱ふそう・エアロスターのロマンス車が導入されている。

貸切車は白地に赤と金帯を採用していたが、1980年代後半のスーパーハイデッカー"SSマーキュリー109"(三菱ふそう・エアロクィーン)投入後は現在の白地に青・赤・橙の帯となった。現在は観光貸切バスの運行は東急トランセが行っている。

[編集] 使用年数と車体再生

東急バスの車両は、首都圏の排出ガス規制の関係から、原則として新車導入後12年間使用されたのち除籍となる。2005年度までは、15年間の使用を原則とし、この間4 - 6年目に車内外再生、10年目に車体再々生と呼ばれるリニューアル工事が実施されていた。しかし、8都県市ディーゼル規制の開始等による規制強化を受け12年使用が原則化したことにより、再生時期が見直され、10年目の車体再々生に関しては、2005年度の1400番台を最後に廃止となった。なお、これらのリニューアル工事は、川崎市中原区今井上町にある東急テクノシステムで実施される。これにより、東急バスの車体は、廃車時まで非常に綺麗な状態を保っていることも特徴である。 2008年秋季以降では、車内まで行っていた再生工事を簡略化し、色あせした赤帯部分の再塗装(西工車体車と痛みの激しい車両は車体腰部全体を再塗装)と、車内には座席のクリーニングなど補修程度な簡易的な再生工事がほとんどである。

[編集] 廃車車両の譲渡

東急バスで役目を終えた車両は、グループ会社ほか全国の地方事業者に譲渡されて引き続き使用されている。

夜行用車両は夜行バス運行の撤退に伴い、車齢の若い車両については北海道北見バス(ドリーミントオホーツク号・特急釧北号)や宗谷バス(特急わっかない号)に譲渡されたほか、神姫バス(プリンセスロード)の単独運行となったため、同社に譲渡された車両もある。

元東急バス車両の譲渡先としては、北海道のじょうてつなどのグループ会社や長野県の草軽交通、新潟県の越後交通越後柏崎観光バス、北海道の函館バス宗谷バス北海道北見バスなどのかつて東急グループだった事業者へまとまった台数を譲渡することが殆どであった。グループ外の事業者への譲渡は新潟交通等ごく僅かであったが、2008年の1500番台以降東急バス側が、除籍車両を中古バス事業者へも転売するようになったことからこの法則が崩れ、ジェイアールバス関東福島交通関東鉄道中国バス広島バス南国交通琉球バス交通那覇バスなどへの譲渡が大幅に増加し、北は北海道稚内から、南は沖縄本島まで元東急バス車両が日本全国で見受けられるようになった。なお、2005年度の除籍車両(0・100番台の一部・1200番台)だけは一切地方譲渡されず、全車廃車解体となっている。

2009年から、三菱ふそう・エアロスターノンステップバスの廃車が始まっており、そのうち6台がジェイアールバス関東[2]、2台が函館バス[3]関東鉄道日本中央バス中国バス那覇バス岩手県北自動車[要出典]へ譲渡された。

[編集] 社番

車体側面とリアウインドウの社番表示の例 車体側面とリアウインドウの社番表示の例
車体側面とリアウインドウの社番表示の例

東急バスの車両には、1台ごとに社番と呼ばれる独自の車両管理番号が付与されている。社番は車体側面、車内前部等に表示されており、数字部分は原則として、車両導入より廃車まで変わることがない。

一般路線車の社番
AO 4 39
営業所 年式(1-2桁) 固有番号

例の場合は、AOが青葉台営業所で、439が2003年度の日野車である。

営業所記号については当該節を参照。

一般路線車の社番は、所属営業所の略号(上記参照)+1 - 4桁の数字で構成され、営業所記号は転属のたびに書き換えられる。番号部分は、1984年度以前は年度を問わず連番方式となっており、1980年度からの5年間に導入された車両の番号は以下の通りであった。

  • 旧300番台315 - 384:1980年度(1994年全廃)
  • 旧400番台前期385 - 441:1981年度(1995年全廃)
  • 旧400番台後期443 - 500:1982年度(1996年全廃)(442は欠番)
  • 旧500番台前期501 - 555:1983年度(1996年全廃)
  • 旧500番台後期556 - 603:1984年度(1996年全廃)

しかし、1985年度からは、数字のうち上2桁が導入年度を表す現行の方式となった。以後、上2桁は以下のように割り振られている。なお、現行方式では、下2桁はメーカーごとにまとめて割り振られている。付番ルールは以下のとおりであるが、導入年度により下2桁のメーカーへの割り振り方など若干の差異がある。

  • 旧600番台:1985年度(1997年全廃)
  • 旧700番台:1986年度(1998年全廃)
  • 旧800番台:1987年度(2002年全廃)
  • 旧900番台:1988年度(2003年全廃)
  • 旧1000番台:1989年度(2003年全廃)
  • 旧1100番台:1990年度(2003年全廃)
  • 0番台(1 - 2桁):1991年度(全車廃車)
  • 100番台:1992年度(全車廃車)
  • 1200番台:1993年度(全車廃車)
  • 1300番台:1994年度(全車廃車)
  • 1400番台:1995年度(全車廃車)
  • 1500番台:1996年度(全車廃車)
  • 1600番台:1997年度(全車廃車)
  • 1700番台:1998年度(一部廃車)
  • 1800番台:1999年度(一部廃車)
  • 1900番台:2000年度
  • 200番台:2001年度
  • 300番台:2002年度(一部廃車)
  • 400番台:2003年度
  • 500番台:2004年度
  • 600番台、6600番台(06年3月導入の三菱ふそうのみ):2005年度
  • 700番台、7700番台(三菱ふそう・日野のみ):2006年度
  • 8700番台:2007年度
  • 800番台:2008年度
  • 900番台:2009年度
  • 1000番台:2010年度
  • 1100番台:2011年度

※原則として上記のように1~4の順で下2桁のメーカー別車番を割り振るが、300~800番台のように導入台数が非常に多かった時期が続いた。そのため長らく原則が崩れていたが、900番台では導入台数を大幅に縮小したため、標準的な車番割り振りに戻った。

その他の車両の社番

その他の車両の社番は以下の通りである。

空港路線車の3000番台、特定輸送車の4000・5000番台は2003年度より使用されており、それ以前は一般路線車と同様の方式であった。また、東急コーチは6000・7000番台であったが、デマンド運行の終了した2001年度より一般路線車と共通となっている。尚、コーチ車の上2桁は営業所コードが付番されており、淡島営業所:60、大橋営業所:61、弦巻営業所:62、瀬田営業所:63と順になっている。

日野ポンチョのP1 - の社番は便宜上使用されているものであり、正しく(社内管理上)は2701からの付番である(例えばP9なら2709になる)。

  • 2000番台:貸切車
  • 2700番台:日野ポンチョ用
  • 3000番台:空港路線車(2003年度以降)
  • 3200番台:夜行路線車(全廃)
  • 4000,5000番台:特定輸送専用車(2003年度以降)・事業用車
  • 6000,7000番台:東急コーチ(2000年度まで、車体には下2桁のみ表示)
車両仕様の推移

1980年代に入ってまず行われたのが冷房車の導入で、東急における冷房車の登場は、周辺他社に比べると遅い1981年度[4]である。その後、非冷房車のうちエンジン出力の高い車両において冷房の後付け改造(+パワーステアリング化)も実施された。

  • 1983年以降の車両使用の推移は以下の通り。
  • 1983年度(旧・500番台前期)全車が新製冷房車になる。
  • 1984年度(旧・500番台後期)全メーカーがスケルトンボディとなる。
  • 1985年度(旧・600番台)目黒に21台の目黒通り新交通システム専用車(三菱ふそうエアロスターP-MP618K)が配属される。
  • 1986年度(旧・700番台)全車に中扉4枚折戸とフィンガーコントロールトランスミッションが採用。ワンロマ車が一部営業所に配属。
  • 1987年度(旧・800番台)正面の「ワンマン」サボ廃止(既存車も車内外再生時に取外し)。降車ボタン・吊革の形状が三角形に変わる。虹が丘・青葉台に団地ラッシュ対策車として室内をオールロングシートとした長尺3扉車が配属される。一部営業所に貸切用途にも対応する本格ワンロマ車が配属。
  • 1988年度(旧・900番台)「入口」「出口」表記が車体直書き化。方向幕の書体変更。長尺3扉車は引戸に変更。公式側前中扉間のシートがオールロング優先席化。
  • 1990年度(旧・1100番台)中4枚折戸が廃止され引戸に戻る。客室ベンチレーター廃止。
  • 1992年度(100番台)オールロング優先席の廃止。
  • 1993年度(1200番台)バンパーが濃茶色に変更。車内にLED案内機を搭載。長尺3扉車を1994年度まで再度導入。
  • 1994年度(1300番台)吊革の形状が五角形に変わる。
  • 1996年度(1500番台)全車マーカーランプ廃止・テールランプの角型化。
  • 1997年度(1600番台)目黒に三菱ふそう・エアロスター大型ノンステップバスが21台配属される。
  • 1998年度(1700番台)座席モケットが変更され、非常口のステッカーをピクトグラム化。「人と環境にやさしいアイドリングストップバス」のステッカーが貼り付けされる。
  • 2000年度(1900番台)以降導入する新車が小型バスの一部を除き全車がノンステップバス・ワンステップバスとなる。吊革の形状が丸型に変わる(300番台までの大半と400番台の一部は後年の車体再生の際に三角形のものに交換)。
  • 2002年度(300番台)全車にフォグランプが標準になる。前扉付近の屋根上に換気扇が設置される。
  • 2003年度(400番台)老朽化した長尺3扉車の置換えとして、旧1000番台以来の中4枚折戸を採用した長尺のワンステップバスが虹が丘・青葉台に配属される。東急バス初の中型ロング車・KL-JP252NTNが弦巻に7台配属される。
  • 2005年度(600・6600番台)内装の配色が大幅に変更される。オレンジ色のポールが採用され、降車ボタンの形状も変更される。「入口」「出口」表記をピクトグラム化(既存車も一部を除き車体再生時に変更。ワンロマ車はサボで表記するため対象外)。長尺ワンステ車が東山田に初めて導入される。2006年3月導入の6600番台からは熱反射ガラスが装備される。
  • 2006年度(700・7700番台)初期に導入された車両を除き、吊革の形状を旧・800番台~1200番台と同じ三角形に変更。優先席付近の吊革は三角形でオレンジ色のものになる(既存車も交換、ワンロマ車は一部車両のみ)。屋根上に車両番号表記を追加する(営業所表記は無く、例えばM744号車の場合は「東急バス 744」と表記する)。
  • 2009年度(900番台)一部の営業所のノンステップバスで座席削減車両が配属される。
  • 2010年度(1000番台)中扉開閉時のブザー音がチャイムに変更され、ドア開閉ランプが設置される。
  • 2011年度(1100番台)東急バス創立20周年を記念し、歴代塗装が導入される。ウィンカーチャイム導入(既存車も車体再生時に順次導入)。
    • AO1130号車、S685号車、T1139号車:一般路線バス先代塗装
    • SI1126号車、M1175号車:観光バス初代塗装
    • H1179号車、I611号車、NI1178号車:観光バス2代目塗装
    • NJ1153号車、TA1136号車:観光バス現行塗装(マーキュリーカラー)
    • NI3175号車:ミルキーウェイ塗装

[編集] 脚注

  1. ^ BJハンドブックシリーズ R69 東急バス ISBN 978-4-434-11564-6
  2. ^ 『バスラマ・インターナショナル』117号 p79
  3. ^ 『バス移籍車両最新情報ガイド』 p10 ISBN 978-4-86248-510-6
  4. ^ ただし、これは一部の新製車両に試験的に設置された。新製の全車が冷房を装備するようになるのは1983年度である。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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