相模鉄道

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相模鉄道株式会社
Sagami Railway Co., Ltd.
種類 株式会社
略称 相鉄(そうてつ)
本社所在地 日本の旗 日本
〒220-0004
神奈川県横浜市西区北幸二丁目9番14号
設立 1964年(昭和39年)11月24日(注1)
業種 陸運業
事業内容 旅客鉄道事業
代表者 沼野 恵一(代表取締役社長)
資本金 1億円
(2009年9月16日現在)
発行済株式総数 7億株
(2009年9月16日現在)
従業員数 1117人(2009年9月16日現在)
決算期 毎年3月31日
主要株主 相鉄ホールディングス株式会社 100%
外部リンク http://www.sotetsu.co.jp/
特記事項:注1:2009年9月16日に、旧相模鉄道株式会社(現:相鉄ホールディングス株式会社)の会社分割に伴い事業を承継し、商号を相鉄準備会社株式会社から現商号に変更
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相模鉄道株式会社(さがみてつどう、: Sagami Railway Co.,Ltd.)は、神奈川県東部を基盤とする鉄道事業者である。略称は相鉄〈そうてつ、SOTETSU〉。

本社所在地は神奈川県横浜市西区北幸二丁目9番14号の相鉄本社ビル。

目次

[編集] 会社概要

相鉄グループの中核企業であり、鉄道事業を専門に行っている会社で大手私鉄を構成する1社である。かつては経営の多角化を推し進め、バス事業、不動産事業なども自社で行っていたが、経営効率化のために1990年代後半から2000年代半ばにかけてこれらを相次いで分社化して組織のスリム化を図った。さらに2009年(平成21年)9月16日付で旧・相模鉄道を相鉄グループの統括だけを目的とする相鉄ホールディングスに商号を変更、鉄道事業はこれに先立ち、休眠状態だった完全子会社の株式会社大関[1]2009年1月22日付で業態変更の上相鉄準備会社株式会社に商号を変更し、宅建業などの許認可を取得させた上で同年9月16日に旧・相模鉄道の鉄道事業を承継し、商号を相模鉄道株式会社に変更するかたちで分社した。このために新旧の相模鉄道は厳密には別会社であるが、本項では相鉄グループ内で鉄道事業を行い、相模鉄道を名乗る会社として2009年(平成21年)9月までの相模鉄道(現:相鉄ホールディングス)および、以後の現行会社について述べる。

戦後は経営の多角化を進めたことや首都圏への人口集中により急速に成長、「準大手私鉄の雄」などと評されていたが、1990年(平成2年)5月31日付けで大手私鉄に格上げされた。大手16社の中では営業距離が最短であるとともに[2]、「特急」を運行していない唯一の会社[3]、社員数が最も少ない会社でもある。首都圏の大手民鉄で唯一東京都内に乗り入れておらず、また他社との相互直通運転も行っていないが、近年は他社との直通運転による都内乗り入れ構想が持ち上がっている。

労働組合の力が比較的強くストライキが計画されることの多い会社としても知られているが、近年は実行されることは稀で、直前撤回となることが多い。なお、相鉄労働組合(私鉄総連加盟団体)の組合員には鉄道事業やバス事業以外のグループ会社の社員も含むが、電車・バスのストライキが主となる。また、鉄道車両技術には保守的な傾向が強く、他社では廃れていった技術を用いた鉄道車両が近年まで多くみられた。

[編集] 歴史

相模鉄道は、現在のJR相模線である茅ヶ崎駅 - 橋本駅間を開業した会社で、現在の相鉄本線にあたる横浜駅 - 海老名駅間を開業させたのは神中鉄道(じんちゅうてつどう)という会社である。1943年(昭和18年)に神中鉄道は相模鉄道に吸収合併されるが、翌年に元の相模鉄道の路線であった茅ヶ崎駅 - 橋本駅間が国有化され、元の神中鉄道であった区間が相模鉄道になった。以上が概要であるが、以下に年代を含め詳しく記述する。

[編集] 相模鉄道と神中鉄道

相模鉄道1917年(大正6年)12月18日に創立総会を開催し、翌年1月4日に当時の高座郡茅ヶ崎町(現:茅ヶ崎市)で設立された。1921年9月に茅ヶ崎駅神奈川県茅ヶ崎市) - 寒川駅(同県高座郡寒川町)間を開業し、1931年4月に橋本駅(同県相模原市)まで全通した。同年11月からは八王子駅東京都八王子市)まで直通列車を走らせ、1940年12月には相模原駅 - 上溝駅 - 水郷田名間の乗合自動車事業も開始するなど意欲的であったが、業績が不振であったため、翌1941年6月に東京横浜電鉄(現在の東京急行電鉄)の傘下に入り、経営再建を図ることとなった[4]

神中鉄道の機関車(3号機関車)および客車(ハ20形24号客車)

一方、神中鉄道は、鎌倉郡瀬谷村(現:横浜市瀬谷区)の素封家、小島政五郎らが中心となって起業し、1917年(大正6年)12月2日に創立総会を開催、同月15日に神中軌道として設立された。翌々年の1919年(大正8年)6月10日には神中鉄道への商号変更を行っている。こちらは厚木駅から建設を始め、1926年5月12日二俣川駅 - 厚木駅間を開業させた。その2か月後の7月には寒川方面から厚木駅に乗り入れた相模鉄道と接続し、旅客輸送や相模川砂利輸送の営業を行った。

神中鉄道の開業当時は、厚木駅・相模国分駅(現:相模国分信号所)・相模大塚駅(現在のさがみ野1号踏切北側のマンションの場所にあった)・大和駅瀬谷駅二ツ橋駅(三ツ境2号踏切から海老名方50m付近)・三ツ境・二俣川の各駅で営業を開始した。相鉄社内報(1977年10月)に掲載されている座談会によれば、開業当時の話として「二俣川駅には駅長と駅手4名の合計5名。厚木駅には、運輸課長代理兼務の駅長と助役2名、駅夫4名、出札掛1名、車掌2名がいた。中間駅は、駅長と出札・改札を兼ねた駅手1名の2名のみ。全線でも26名しか駅にはいなかった。」とある。また、「機関庫には、機関士と機関助手、検査掛、炭水夫がいた。」とも話している。

二俣川駅から先は細切れに延長されたが、業績は不況下で低迷した。同年12月1日には星川駅(現・上星川駅)まで、1927年には北程ヶ谷駅(現・星川駅)まで、1929年には西横浜駅までと細切れに開業した。1931年10月25日に西横浜 - 平沼橋間の省線の側線を借り入れて営業を開始し、1933年12月27日になってやっと横浜駅に乗り入れた。全通により乗客は増加したが、業績は低迷したままで開業以来の赤字は拡大する一方であったため、1939年9月に同駅で接続する東京横浜電鉄の傘下に入り、再建を図ることとなった。

1941年(昭和16年)1月20日には相模国分駅から海老名駅への新線建設(0.5km)に着手し、同年11月25日に完成した。同時に小田急小田原線相模厚木駅(現:本厚木駅)へディーゼル自動客車での乗り入れを開始し(1964年11月5日中止)、神中鉄道発足時からの悲願であった厚木町(現・厚木市)乗り入れを他社線直通運転ながら達成した。しかし、小田急1943年3月31日まで同社の海老名国分駅を移転せず、海老名駅(現在より新宿方に200m程の位置)の共同使用まで客扱いをせずにいた。また、神中鉄道の海老名延長に伴い厚木線は貨物輸送のみとなった。

[編集] 相模鉄道による神中鉄道の吸収合併

こうして、前述の厚木で隣接していた両社は同じ東急の傘下に入る。同年4月には経営合理化のため相模鉄道が神中鉄道を吸収合併、それぞれ「相模鉄道相模線」、「相模鉄道神中線」となる。しかし、1944年6月に戦時体制下における東海道本線中央本線間のバイパス路線として相模線が国有化されて鉄道省に編入されたために、神中線部分のみが相模鉄道(以下相鉄)として存続するという憂き目にあう。こうして経営基盤とも言える相模線を失う一方で、厚木飛行場の開設などにより神中線の乗客や貨物輸送は急増した。しかしながら、脆弱な神中線の輸送力はもはや限界であり、これを克服するにはもはや相鉄の手には負えない事態となってしまった。このため、1945年6月から1947年5月までの間に親会社である東急へ鉄道事業一切を委託し、戦時下終戦直後の混乱期を乗り切ることとなった。この当時、現在の本線は「東急厚木線」または「東急神中線」と呼ばれていた。

[編集] 東急からの独立とその後の躍進

1947年6月に東急から派遣されていた川又貞次郎ら役職員は、経営民主化を理由に東急が保有する相鉄株式を取得して、ここに東急から独立し、厚木線(東急委託時代に神中線から改名)を新たな経営基盤として戦後の再スタートを切ることとなった。

その後1952年に、米国のスタンダード・オイル社から横浜駅西口の土地24688m²を買収。これを開発し付加価値をつけて売り出すことで相鉄の経営基盤を安定的にするものとなった。後にこの地に横浜高島屋相鉄ジョイナスといった系列のデパートが立つことになる。不動産事業の他にも高度経済成長の時代であり鉄道事業も順調に進んでいった。しかし、1960年前後に小田急電鉄を通じて東急グループが再買収の動きを起こした。東急は鉄道よりもむしろこの横浜駅西口の土地が目当てであった。相鉄の経営を立て直した矢先に買収を仕掛けてきた東急の行動には川又社長も憤慨し、川又社長以下経営陣は既存株主に対して売却しないように働き掛け、また三井銀行社長の佐藤喜一郎(横浜市出身)が「我が町の鉄道会社を守れ」と積極的に川又側の後ろ盾になり、同行を通じて防戦資金を融資して買収を防いだ。この名残で相鉄のメインバンクは現在も三井住友銀行となっており、筆頭株主が小田急電鉄となっている。後にこの一件が引き金となって東急の多摩田園都市開発に対抗し、いずみ野線沿線開発を行った一方、東急は相鉄沿線で二俣川東急ニュータウンや東急白根ニュータウンといった大規模開発を行うなどの競争が見られた。

戦中から戦後にかけては、厚木飛行場への輸送が行われた関係で路線基盤の増強などが進み、1942年6月から現在の東急東横線からの配電で横浜 - 西谷間が600V電化されたのを皮切りに、1943年8月から現在の小田急小田原線からの配電で海老名 - 相模大塚間が1500V電化され、1944年9月には二俣川駅を境に電圧が異なるものの本線の全線電化が完成している。なお、1946年12月に現在の京急本線からの配電に変更して全線が1500V化され、厚木貨物線の電化も1949年11月に行われた。全線の複線化も飛行場への対策としてすでに敷地を確保してあったため進捗が早く、1951年11月から西横浜 - 上星川間の複線化を皮切りに翌1952年12月までに数度に分けて希望ヶ丘駅までが複線化された。横浜方向も当時の国鉄から西横浜 - 横浜間の貨物線部分の譲渡を受けるなどして1957年1月に複線化されている。その名残りで相鉄下り線の架線柱はJR線と共用になっているところがある。その後も1960年11月までには数度に分けて大和駅までが複線化され、1964年11月には相模大塚駅までが複線化されたが、この部分は1961年1月に墜落した米軍機が線路を横切って不通となる事故を起こされたため(この付近では1959年と1962年にも墜落事故が起きている)、その対策を兼ねて線路を掘り下げ、防護トンネルを通過する形にしている。1966年4月には大塚本町駅(当時、現在のかしわ台駅東口)まで複線化し、1967年4月にはかしわ台工機所(車両基地)の完成とともにここまで複線化され、1973年9月には相模国分(信号場)まで複線化し、本線の全線複線化が完成したのは海老名駅の移転後となる翌1974年3月となった。

[編集] いずみ野線の建設と大手私鉄への加盟

新線の計画として1958年1月に杉田海岸から二俣川駅を経て原町田に通じる免許を申請したが、米軍上瀬谷通信施設の電波障害問題で難航した。その後この免許を取り下げる代わりに運輸政策審議会の答申に沿う形で1967年2月に二俣川駅から平塚市方面への新線の免許を申請し、1970年代に入りいずみ野線として建設することになる。まず1976年4月に二俣川駅 - いずみ野駅間を開通し、その後しばらくの間宅地開発に専念して沿線の住民を増加させた後、1990年4月にいずみ中央駅まで延伸された。この開通により日本民営鉄道協会における大手としての要件を満たしたため、同年5月31日には正式に大手民鉄としての認定を受けている。この開発には前述のように東急への対抗心があったとされ、「東急田園都市線多摩田園都市構想」に対しての「いずみ野線と緑園都市構想」と言われている。また、この時期は車両の冷房化を促進した。

同時期、日本国有鉄道(国鉄)末期に民営化議論がまだ強く推進される前に、電化されて長編成の冷房通勤電車が走る相鉄本線に対して、非電化ローカル線として取り残されていた国鉄相模線を国有化前の経営母体である相鉄に返還譲渡するという検討がされたが、現職の国鉄職員を含めての引き取り条件が妥結せず、実現しなかった。その後の對馬好次郎社長就任時には相模線買取を検討したものの果たせなかった。当時の相模線が、営業係数400を越える赤字路線であったことが実現しなかった理由として挙げられる。なお、同線はそのまま1987年4月1日にJR東日本へ継承され、1991年3月16日に電化されている。

[編集] バブル崩壊以後

バブル崩壊以後の近年は大きくなったグループ再編が目立つ。不採算事業からの撤退・売却はもちろん、主力業種についても相次いで分社化がすすめられ、相鉄バス相鉄不動産となった。そして、2009年には前述のようにグループ統括事業を相鉄ホールディングスに任せ、鉄道事業を分社している。2004年には連絡線の建設による他社路線を介した都内への直通構想を発表しており、2010年に着工した(神奈川東部方面線計画を参照)。この連絡線は既存のターミナルとしてきた横浜駅を経由せず、同駅を基盤に発展してきた相鉄としては苦渋の選択だったといわれるが、開通すれば沿線と都心が乗り換えなしで結ばれることになる。

[編集] 安全対策への姿勢

1968年(昭和43年)に瀬谷駅構内で車両同士の衝突事故を起こしており、それ以来全線にATS(自動列車停止装置)を設置している。2005年の福知山線脱線事故を機にATSの追加設置などが行われた。また、近年では運転士が意識を失っても車両の暴走を止めるEB装置の設置が進んでいる。

車両以外の対策としても近年進んでおり、特に鉄道人身障害事故などのホームからの転落事故を防ぐ目的で横浜駅のホームに柵を設置したり、万が一転落した時避難するスペースを確保したりする工事が進んでいる。また、視覚や聴覚に障害を持つ人のためにすべての駅に文字と音で列車の接近を知らせる接近案内表示器を設置している[5]

[編集] 路線

以下の3路線を有するが、一般の旅客が利用できるのは本線といずみ野線の2路線のみとなる。

[編集] 過去の路線

過去には以下のような路線を所有していた。

相模線と西寒川支線は1944年(昭和19年)6月から国有化、また同時に西寒川駅 - 四之宮駅 0.5kmが廃止された。相模線貨物支線は1931年(昭和6年)に廃止。保土ヶ谷駅までの貨物線は、1979年(昭和54年)の東海道線・横須賀線の分離による東海道貨物線の移転と同時に廃止された。

[編集] 鉄道車両

[編集] 特徴

電車に関しては、主に1950年代半ばまでの中古車時代、以後2000年代初頭までの自社開発車時代、2000年代初頭以後の他社の亜流車時代に分けられる。以下では主に「自社開発時代」の「電車」について記す。

なお、2010年8月現在、鉄道友の会から賞を受けた車両は1系列も存在しない(大手私鉄では阪神電気鉄道も同様)。

[編集] 製造メーカー

蒸気機関車については初期は国外製、のちに国産に切り替えられた。続く気動車の時代は日本車両製造汽車製造(現:川崎重工業)といった蒸気機関車時代の取引先との関係を続けた。

電車の自社開発が始まった1950年代以降は、新造車の発注は日立製作所へ、大規模な改造は地元の神奈川県に工場を持つ東急車輛製造へ統一するようになり、これが長く続いていた。しかし、1990年代以降は東急車輛製造へ新造車を発注するようになり、2000年代にはJRの製造工場である新津車両製作所へも、JR東日本の亜流車両を発注するようになった。近年は東急車輛と新津車両のみで新造しており、日立への新造車発注は、現在の所2000年が最後である。

主制御機器(モーターの制御装置)、電動機(モーター)、電動発電機(MG)や空気圧縮機(CP)などの艤装品は日立のほかにも東洋電機製造三菱電機や日本エヤーブレーキ(現:ナブテスコ)などのメーカーも参加している。

  • 相鉄グループ全体でエレベーターエスカレーターはもちろん、蛍光灯などの小物類まですべてが日立製であった時期があった。これには初の自社開発車両を日立に発注したからという逸話がある[7]

[編集] 車体外観

戦中戦後のころは経営基盤も弱く車両は他社の中古車両が主体であり、その外観も直線基調の無骨なものばかりであった。

最初の転機は1955年に初の自社開発電車、初代5000系電車の登場である。この車両は当時流行の丸みを帯びた「湘南顔」と言われる前面を持つなど、スタイリングに工夫があった。しかし、当時の日本は高度経済成長に突入し、漸次増える輸送量に対して車両には柔軟な運用が求められており、構造上連結面に貫通扉を設置が困難な5000系は編成組み換えの自由度が低く、次に登場する6000系電車ではこの点を改善し、直線基調で分割・併合のしやすい、機能を重視したデザインに変更された。これが以後20年の相鉄の標準デザインとなってゆくが、編成を組みかえる事がほぼ無くなり、1980年代からは再びスタイルを重視し、新7000系電車では流行のデザインを取り入れ、1990年代には左右非対称で丸みを帯びたスタイルを8000系電車や9000系電車で採用した。

車両の配色については一貫性がないのが特徴であった。5000系以前の電車は青とベージュのツートーンだったが、以後の60年代の車両は紺色を基調に灰色や赤でアクセントをつけた複雑なデザインに変わった。さらに1970年代以降に導入された軽量性に優れるアルミニウム合金を素材とした車両は、アルミ地の銀色にアクセントとしてオレンジ色を配し、今までの車両とは全く印象の異なるカラーリングで登場。普通鋼製の車両も、1970年代に淡い緑を基調とした明るい配色に塗り替えられており、ここ30年は緑色系統とオレンジ色系統の2種が混在している状態が続いていたが、JRと東急への直通運転が決まったことで2006年7月にCIを導入し、2007年3月には車体の配色をCIで制定されたグループカラーへ統一することが発表された[8]。新しい配色は青色と黄色みの強いオレンジ色を用いており、今後はこの配色が標準カラーとなる予定である。また、車体には新グループマークも付加されている。

車両の幅(車両限界)はJRの在来線とほぼ同等で、他の大手私鉄の路線よりも大きめである。これは第2次世界大戦後の混乱期に運輸省から割り当てられた63形電車を導入したことによるもので、このとき鉄道施設を63形の走行に基準を合わせている。このため、1970年代から幅広の車両が度々導入されている。一部の古い車両では側面の「行き先の駅名」の表示ができず、「急行」や「各停」といった列車種別の表示のみとなっている。路線が短く、ダイヤパターンが「急行」は本線直通、「各停」は支線(いずみ野線)直通と非常に単純だったころの名残である。

ヒートポンプ式冷暖房機搭載車の車内(6021号)

屋根上には冷房装置や集電用のパンタグラフが設置されている。相鉄の冷房装置は基本的に大きな集中式が一つ搭載されているだけであるが、9000系のみ集約分散式が採用された。なお、相鉄は冷房化の開始時期や進捗が早く、1987年(昭和62年)には、戦後の新規開業路線を除いた関東地方の私鉄で初めて、冷房化率100%を達成している。一部の車両についてはヒートポンプを用いたものを試行し、のちにこれを採用した車両もある。パンタグラフについて、1975年までの新車は旧型国電車両等に使われていたPS-13形を搭載していた。通常ではパイプ製であるが、この旧式のPS-13形パンタグラフは鉄板製だった。また、相鉄ではパンタグラフを車両形式ごとに固定されておらず、全形式で使い回されていたため、最新鋭車両に旧式のPS-13形が搭載されたり、1編成の中に3種類のパンタグラフが混在していることもあった。しかし、新しいタイプのシングルアーム式パンタグラフの導入も比較的早く、1994年には実車試験も始められており、2000年代には採用車両が増えてきている。

[編集] 車内設備

他社に比べて特異な車内設備が多い。以下はそれらの中の代表的な例である。

このうち、パワーウィンドウは関西の私鉄などに、セミクロスシートは東京近郊の路線の4ドア化を進めていたJR東日本などに影響を与えた。

[編集] 走行設備

気動車時代はディーゼルエンジンが生み出す回転力を発電機に入力し、出力された電気を用いてモーターを回す、いわゆる電気式気動車を日本で初めて導入するなど画期的な面もあったが自社開発電車の技術は他社に比べて新技術の採用に乏しく、非常に保守的であった。

初の自社開発電車である5000系は「直角カルダン駆動」や「電磁直通ブレーキ」など当時の最新技術を盛り込んだ意欲作であった。しかし、技術が進歩するなか、他社では廃れた後もこれらの技術に固執し、近年まで採用を続けていた。以下はそれらの中の代表的な例。

  • 直角カルダン駆動 (他社では平行カルダン駆動に移行)
  • 車輪外側に設置したディスクブレーキ (一般的なディスクブレーキは車輪内側に設置されるが、直角カルダン駆動の構造上外側に設置せざるを得なく、バネ下加重が増している。)
  • 日立式電磁直通ブレーキ (これは指令伝達方式が非常に珍しく、日立が開発した独自規格。正式名称は「電磁直通弁式電磁直通空気ブレーキ」)
  • モーターの制御方式は抵抗制御

このうち後者2つは1990年代前半までに解消されたものの、前者2つは最後まで固執し続けていた。なお、モーターの制御方式は国鉄やほかの大手私鉄では一般的であったチョッパ制御を経ずに、可変電圧可変周波数制御(VVVFインバーター制御)に移行が進んだ。そのため相模鉄道では、黎明期のVVVFインバーター方式の車両が多くみられる。

[編集] 車両の標準化

このように特殊な設備が多かった相鉄の車両であるが、2002年(平成14年)の10000系電車は、思想を180度方針転換したものとなった。この車両は大手私鉄では一般的な「車両はオーダーメイド」という慣習には沿わず、他社がすでに運行している車両を基に設計したもの、つまりレディ・メイドのものを細かい部分のみ、自社向けにアレンジして導入したものである。これは最新技術を低コストで導入する方法としては一般的な方法だが、自社開発を当然とする当時の大手私鉄では例のないことであった。相鉄の動きをきっかけに「通勤・近郊電車の標準仕様ガイドライン」が制定され、他の大手私鉄にも影響を与えた。

[編集] 地方私鉄への譲渡

自社で車両を新造するようになってからは、上記の技術的特徴や、大手私鉄で最も大きい車両限界等を理由に、地方の私鉄や日本国外への車両払い下げ自体が敬遠されている。1970年代伊豆箱根鉄道へ旧型車2000系の車体を転出(150形、事業用として1両が残存→「伊豆箱根鉄道モハ151形電車」参照)した以降は、転出や譲渡の例がない。

過去には、地方私鉄で使いやすい車両が揃っていて、比較的コンスタントに譲渡車があった。旧相模鉄道・神中鉄道時代の車両も含めると、電車から気動車、客車、果てはSLや貨車に至るまで100両ほどあり、譲渡先からの再転出分も含めるとほぼ日本全国で足跡を残している。

[編集] 車両番号の付け方

10000系までの電車では車両番号には車両の役割に応じたものを付けるようにしており、百の位の数字で区別できるようになっている。例外もあり詳しくは各系列の記事に譲るものの、以下に主な例を示す。

  • 000番台…横浜側に組成される制御電動車(例:6000系の6021、5000系の5053)
  • 100・200・300番台…中間電動車(例:8000系の8119、8000系の8219、10000系の10301)
  • 500番台…海老名・湘南台側に組成される制御車(例:9000系の9502)
  • 600番台…中間付随車(例:5000系の5657)
  • 700番台…横浜側に組成される制御車(例:7000系の7703)

ただし、2008年秋から導入した11000系電車は第一編成が横浜側から11001,11101…11901、第二編成が同11002,11102…11902と順番に番号を振られている。すなわち末尾の数字が編成を表し、百位の数字が編成中の号車を表す(1号車は0、2号車は1、…、10号車は9)ものに変更されており、この番号の付け方の法則は成り立たない。

[編集] 現有車両

事業用の車両を含め、現在在籍するすべての系列は電車である。各系列の在籍期間、車両数、運用などについては、それぞれの記事を参照されたい。前述のように、現在車両の塗装変更が進んでいる。

乗客の増加とともに、1編成当たりの車両数を徐々に増やし、1980年代前半からは10両編成を中心に製造してきたが、近年は利用者の減少などで2002年の10000系20両以来中断されたていた。しかし、JR直通を意識して2009年に登場した11000系では、再び10両編成車の製造が行われている。かつては相模川の砂利やセメント輸送、米軍基地の貨物輸送を行っていた関係で、貨車や電気機関車も在籍していた。ただし、多くの貨車は私有貨車であったために、相模鉄道として所有するものは少ない。また、前述のように近年の車両は走行設備が特殊な車両が多く、地方私鉄への譲渡車両は30年以上全く出ていない状況が続いている。

[編集] 一般型車両

[編集] 事業用車両

  • 700系 - 7000系から改造された計測・救援用電車

このほかに車籍は有しないものの、各種保線用のモーターカーがある。

[編集] 廃系列

[編集] 一般型車両(電車)

[編集] 事業用車・貨車

  • 2000系モニ2000形 - 事業用電車(元は旅客車両で荷物電車を得て事業用に改造)。1両がかしわ台車両センターに保存されている。
  • ED10形 - 電気機関車。1両がかしわ台車両センターに保存されている。
  • トフ400形 - 貨車。1両がかしわ台車両センターに保存されている。
  • トム260形 - 貨車。
  • トム600形 - 同上。
  • ホキ800形 - 同上。

[編集] 車両基地・工場

車両工場を1つ持ち、いくつかの駅に隣接して車両基地(留置線)がある。

このほかにいくつかの駅では車両の夜間滞泊が行われる。

[編集] 乗務員区

  • かしわ台車掌区

旅客専務車掌」(JRでいう乗客専務車掌、車内での乗客サービスのみを行う)による車内巡回が行われており(主に本線)、乗り越し精算他社線連絡乗車券の発売などを行っており、大手私鉄、特に料金不要の列車しか運行していない会社では、珍しい存在になりつつある。以前は6000系の柄のものなど車掌区オリジナルのパスネットも発売していた。人員削減や合理化により車掌の車内巡回そのものを取りやめる会社が増える中、乗客サービス専門の車掌が車内を巡回する姿は貴重となっている。

[編集] 乗車券

[編集] 運賃

大人普通旅客運賃(小児半額・10円未満切り上げ)。2004年12月1日現在。

キロ程 運賃(円)
初乗り3km 140
4 - 7 170
8 - 11 190
12 - 15 220
16 - 19 250
20 - 23 270
24 - 25 300

いずみ野線に跨って乗車する場合は、同線内の乗車区間・キロ数に応じた加算運賃が必要となる。

いずみ野線運賃加算額
乗車キロ数 6kmまで 7 - 9km
二俣川 - いずみ中央 20円 40円
いずみ中央 - 湘南台 30円

各区間を跨って乗車する場合はそれぞれの額の合計が加算額となる(例:いずみ野 - 湘南台間の場合はいずみ野 - いずみ中央間が2.2kmなので「二俣川 - いずみ中央6kmまでの加算額20円」 + 「いずみ中央 - 湘南台の加算額30円」 = 50円)。

[編集] 1日乗車券

2005年から毎年、夏から11月にかけて相鉄全線(バスを除く)が乗り降り自由な「相鉄・鉄道全線1日乗車券」を大人600円・小児300円で発売している。発売期間は2005年と2006年が8月1日 - 11月30日であったが、2007年以降は期間が7月下旬からに拡大されている。

さらに、2007年7月1日からは横浜都心部の横浜市営地下鉄ブルーライン横浜市営バスが乗り降り自由な「相鉄発 みなとぶらりチケット」を横浜駅と湘南台駅を除く各駅で発売している。

[編集] フリーパス

相鉄は、上記の経緯により小田急電鉄との関係が深く、小田急線で発売している各種フリーパスも発売している。特典には相鉄線乗車駅から小田急線乗り換え駅(大和駅または海老名駅)までの往復割引乗車券が追加されている(湘南台駅乗り換えは発売していないため、いずみ中央駅などいずみ野線内で江の島・鎌倉フリーパスを購入しても大和駅経由になる)。そのため、パンフレットも小田急と同じものが使われている。

[編集] 特別乗車券

[編集] ゆめきぼ切符

  • 自社路線に存在する希望ヶ丘駅ゆめが丘駅の間の乗車券で、駅名にかけて「夢と希望を結ぶ」として縁起物として売り出しているものである。以前は往復乗車券の様式で発売していたが、現在は「希望ヶ丘駅→ゆめが丘駅」と「ゆめが丘駅→希望ヶ丘駅」の2種類で発売されている。年中販売しているのだが、特に受験シーズンは人気で、この時期になると、購入者に特製の絵馬がプレゼントされる。これに合わせて両駅には絵馬掛けが設置され、掛けられた絵馬はシーズンオフになると寒川神社に奉納した上で「お焚き上げ」される。

[編集] 特製入場券

  • 特に告知していないが、相鉄線各駅では硬券入場券を販売している。昔の駅舎写真を印刷したポストカードがもらえることがある。なお、創立90周年を記念して入場券セットを発売したことがある。

[編集] 今後の予定・計画

[編集] 立体交差事業

和田町駅東方から天王町駅保土ケ谷区東部地域)まで約1.8kmの連続立体交差事業が着工されており、2012年度に竣工する予定である。完成後は星川駅が2面4線(現在と同じ)、天王町駅が島式ホーム1面2線の高架駅にそれぞれ改築される。これに関連して星川駅構内にあった留置線と車掌区は西横浜駅へ移転した。なお、天王町駅は1968年から、2面2線の高架式ホームとなっている。

[編集] 東京都心方面への乗り入れ計画

かつて運輸政策審議会の答申による「神奈川東部方面線」として、相鉄側がいずみ野線を二俣川駅から延伸して新横浜駅までを建設し、東京急行電鉄東横線大倉山駅から新横浜駅まで新線を建設。これら2路線を接続させて相互直通運転を行う計画が持ち上がったが、計画は長らく進まなかった上バブル崩壊のあおりも受け、この計画は事実上頓挫していた。

その後、相鉄はJR東日本に対して相互直通運転の計画を持ちかけ、2004年9月にJRとの相互直通運転計画を相鉄側が発表した。さらに2006年には東急との相互直通運転も実施すると発表され、JRとの相互直通運転を「相鉄・JR直通線」、東急との相互直通運転を「相鉄・東急直通線」とし、当初の神奈川東部方面線とは多少経路が変更されているものの、これら2路線を合わせて「神奈川東部方面線」(いずれも仮称)を形成することとした。なお、東急との接続路線は当初予定されていた東横線から目黒線に計画が変更されている。

[編集] 特急の導入計画

前述した神奈川東部方面線計画と関連し、本線全区間において通過運転を行う新たな種別として「特急」、「快速急行」など現行の急行より上位の種別導入が検討されている。そのため、瀬谷駅を上り線のみ待避可能な2面3線から上下線待避可能な2面4線に整備する工事を行っている。これは、横浜駅を経由しない神奈川東部方面線が実現すると、同駅が空洞化されるのではないかとの声があることから、相鉄グループ全体を挙げてのプロジェクトの一環である[11]

[編集] 海老名駅の改築

近年のバリアフリー化に伴い、エスカレータとエレベーターの設置を順次進めている。中でも、海老名駅については小田急と相鉄の駅舎がともに老朽化し、かつ手狭にもなっていることから、新しい駅舎を建設することになった(小田急は新築、相鉄は一部改良)。その際に当時の厚木市長の呼び掛けで両者関係者出席の下で相鉄の駅から小田急小田原線本厚木駅への乗り入れに関するシンポジウムが開催されたが、海老名駅の新築計画が白紙になることや、相鉄の筆頭株主である小田急側が難色を示していることもあり、今後の動向が注目されている。これは、相鉄側の主張によると、小田急線のみならず、他社線との相互直通については利便性向上や沿線価値の向上、新たな輸送需要喚起になるため、今後の研究課題としている。しかしながら、

  1. 車両や運転保安設備などに互換性がない。
  2. 小田急とのダイヤ調整が必要である。
  3. 海老名駅の構造など大規模な設備投資が必要。

などの課題があり、実現性が乏しいとしている。

そのような中で、横浜駅に次ぐターミナル駅でもある海老名駅のホームを改修し、幅をおよそ4割拡張する。2007年秋から仮設乗り場の建設を行っており、当初は2008年9月までに完成させることが発表されたが、工事が遅れ翌2009年6月に竣工した。

[編集] その他の予定・計画

  • 神奈川東部方面線に関連して、いずみ野線湘南台 - JR東海道本線平塚間の延伸計画もあるが、こちらは上記の都心直通計画が実現した後に取り掛かるとされている。2009年には、相鉄による本延伸計画の免特許期限が切れたが、10年延長されている。また、採算性の問題などから同区間内を大型の鉄道ではなくコストが比較的安価なLRTにより結ぶべきという声もある。
  • 本線の二俣川駅から横浜駅まで地下新線を建設し、複々線化する構想もあったが、乗客数の増加が止まり構想が流れているため、神奈川東部方面線の建設に移行している。
  • 駅の案内サインを2007年12月中旬に変更したさがみ野駅を皮切りに、バリアフリーを取り入れ、LED照明を利用した省エネタイプのものに順次交換予定である(平沼橋駅の横浜寄り1か所の駅名標もこの仕様)。このサイン計画はかつての営団地下鉄みなとみらい線等、多くの公共空間のサイン計画を主導した黎デザイン社が手がけている。新サイン計画では、一部に中国語韓国語の表記も用いられている上、改札付近には近隣鉄道のネットワーク図も新たに設けられている。将来に備えてか、さがみ野駅の横浜方面の案内板には「横浜 新宿 渋谷方面」と表記された案内が見られた事もあったが、その後「大和 二俣川 横浜方面」に変更された。
  • 各駅に冷暖房完備の待合室を設置する予定である。

[編集] 提携など

[編集] 関連する作品

[編集] 脚注

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  1. ^ 横浜地下街ザ・ダイヤモンドで同名のきしめん店を経営していたが、2006年に事業をグループ外企業に譲渡し、それ以来休眠状態になっていた。
  2. ^ 相鉄が大手に入る前は、1975年以降は阪神電気鉄道が最短であり、それ以前は京王電鉄(当時の京王帝都電鉄)が最短だった。
  3. ^ 2008年3月15日小田急ロマンスカー東京メトロ乗り入れを開始して以降。
  4. ^ 大東急時代の名残で、東急資本でありながら「相鉄運輸」と称する企業が近年まであったが、2002年に東急運輸を合併して東急ロジスティックとなり、2006年にはティーエルロジコムへと社名変更している
  5. ^ 主要駅に設置されている発車標新陽社製を、中間駅の接近案内表示器は京三製作所製をそれぞれ採用している。横浜駅では乗車ホームに発車標が、降車ホームに接近案内表示器がそれぞれ設置されている。また、かつて海老名・大和・いずみ中央の各駅では日本信号製の発車標を使用していた。
  6. ^ 厚木線は基本的に旅客利用ができないため、地図には「貨物線」と記載されることが多い。
  7. ^ 同社のデモンストレーションとしての意味合いが大きい。類似例では全線開通に際して資金面などの協力を受けた新京成電鉄と三菱電機、阪急電鉄東芝京阪電気鉄道と東洋電機製造との関係や、車両メーカー主導による交通システム実用化路線である東京モノレール(日立製作所)・湘南モノレール三菱重工業・三菱電機)などの例がある
  8. ^ 全鉄道車両に相鉄グループカラーを導入し、デザインを統一 (PDF) - 相模鉄道。
  9. ^ 4つドアの車両でボックスシートだけの設置なら近鉄2600系電車などに先例がある。
  10. ^ 他社では、国鉄の気動車には多く見られたが、それ以外の旅客車両では乗務員室に設置されており、車掌が一括で操作することが多い。
  11. ^ 2009年11月1日付東京新聞より http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20091101/CK2009110102000060.html

[編集] 参考文献

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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