相模線

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JR logo (white).svg 相模線
相模線用の205系電車(海老名駅 - 厚木駅間)
相模線用の205系電車(海老名駅 - 厚木駅間)
相模線の路線図
路線総延長 33.3 km
軌間 1067 mm
電圧 1500 V 架空電車線方式直流
上の路線図では赤線が相模線、
青線が横浜線乗り入れ区間

相模線(さがみせん)は、神奈川県茅ヶ崎市茅ヶ崎駅相模原市緑区橋本駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線幹線)である。

概要[編集]

東海道本線の茅ヶ崎駅から相模川に沿って北へ向かう路線である。元は相模鉄道(法人としては現在の相鉄ホールディングス)の路線であったが、東海道本線と中央本線とを結ぶバイパス路線として後に国有化された。以前は寒川駅から西寒川方面への支線(通称:西寒川支線、寒川支線)や川寒川駅への支線(通称:川寒川支線)が分岐していたが、前者は1984年に、後者は1931年に廃止されている。

全線が旅客営業規則の定める「東京近郊区間」、およびIC乗車カードSuica」の首都圏エリアに含まれている。旅客案内や車体に使用されるラインカラーは相模川をイメージした濃い水色()である。

終点である橋本駅リニア中央新幹線停車駅の候補の一つと言われている。地元自治体から相模線複線化の要望があるが、莫大な費用がかかることが予想されることを理由にJR東日本からの具体的な動きはない。また途中駅に列車の行き違い施設を作る要望に関しても同様の理由で動きはない。

路線データ[編集]

全線を横浜支社が管轄している。

運行形態[編集]

全列車が相模線用に投入された205系500番台電車4両編成で運転されており、すべての列車が各駅停車である。

基本的には茅ヶ崎駅 - 橋本駅間の線内折り返し運用だが、朝夕の列車は橋本駅から横浜線に乗り入れて八王子駅まで運転されている。また、茅ヶ崎駅 - 海老名駅間の区間運転も行われている。日中は全線通しの列車が約20分間隔で運転されている。

南側は相模川の東岸沿いを通り、北側は相模原台地の西側を築堤や切通しの連続で登り詰める。

相模線沿線の茅ヶ崎市・高座郡寒川町・海老名市は東海地震に対する地震防災対策強化地域に含まれており、東海地震の警戒宣言が発令された場合、相模線では茅ヶ崎駅 - 橋本駅間の全区間で列車の運転が中止されることになっている[2]

2008年6月現在、厚木駅経由の相模鉄道への甲種輸送などは、昼間に貨物列車のダイヤ設定がなくなったため、深夜帯に臨時貨物列車として運転されている。

使用車両[編集]

現在の使用車両[編集]

全列車とも205系500番台国府津車両センター配置)の4両編成が使用される。車体の帯は水色濃淡2色()である。

相模線では電化以前(少なくとも1976年以降)よりドアの開閉を12月から3月まで半自動扉で行っていたが、電化以後のこの車両では、当時としては最新型のボタン式半自動扉を採用し、通年で使用している。ただし直通先の横浜線内では車掌の一括操作によりすべてのドアが開閉する。橋本駅では八王子行も含めて相模線ホームに発着のため半自動扱いとなる。ほかにも、運転台には行路表示や運行制御を行うモニタ装置を備え、前述のドアは鴨居収納式の機構となっており、座席の色も線区色のライトブルーになるなど(現在は他の205系同様緑色)、ほかの205系と異なる新たな試みが多数実施されている。205系の新造最終形であり、うち1編成は大船工場で製造された最後の車両となった。

パンタグラフは2号車の4号車側に設置されている。2009年3月31日までに、線内を走る13編成すべての車両のパンタグラフが菱形パンタグラフからシングルアームパンタグラフに換装されている。また、ドアチャイムもすべての編成に取り付けられている(なお、R1編成については他編成に先行して取り付けられていた)。

電化開業前の試運転では、南武線用の205系6両編成を4両に短縮した編成が使用されたことがある。

過去の主な使用車両[編集]

電化前に使用されていたキハ35系(1988年頃、橋本駅)

相模線は国鉄分割民営化当時、JR東日本の東京近郊区間内では、八高線とともに気動車が運転される数少ない線区であった。1991年に相模線が電化されたことにより、神奈川県は当時鉄道路線がなかった沖縄県を除けば、日本で初めて気動車列車の存在しない(貨物専用線を除いた県内すべての鉄道旅客路線が電化されており、なおかつ他線区から乗り入れる気動車列車がまったくない)県となった。これは八高線の電化による東京都より5年早い[3]

過去には以下の車両を使用していた。以下に示すのはすべて気動車である。

  • キサハ04形200番台
  • キハ10形・キハ16形
    • 気動車の首都圏色(朱色5号一色)は、1976年に当線で運用されていたキハ10 61に施されたのが初めてである[4]。首都圏色はその後日本全国に波及した。
  • キハ20形
  • キハ30形・キハ35形
    • 気動車において地域別のカラーリングを採用したのは、1986年に当線で運用されていたキハ30 25に対して、クリーム1号地に青20号の帯というデザインが施されたものが初めてである[5](このカラーリングは、茅ヶ崎駅の乗り換え専用跨線橋の内装デザインにも使われている)。1991年の電化完成で運用を終了した。寒冷地仕様の500番台車が1990年まで[6]、ステンレス車のキハ35 904が1991年まで運用されていた。

相模鉄道時代の車両[編集]

相模鉄道時代の車両は以下の項目を参照。

車両数の変遷
年度 蒸気機関車 内燃動車 客車 貨車
有蓋 無蓋
1921 2 2 11
1922 2 2 14
1923 2 2 20
1924-1925 4 2 20
1926 6 6 2 154
1927 9 6 2 166
1928-1930 9 6 2 166
1931 9 6 2 156
1932 7 4 6 2 156
1933-1934 5 4 6 2 154
1935-1937 5 8 6 2 154
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

歴史[編集]

相模線は相模川砂利輸送を目的として建設された路線である。1921年(大正10年)に相模鉄道による私鉄線として開業後、太平洋戦争を経て国有鉄道化された。相模線を国有化した理由は、戦時体制のもと、都心が攻撃された場合にそなえ八高・横浜・相模線の迂回ルートを確保するためであったとされる[7]。国鉄分割民営化の前には、元の運営者である相模鉄道が当路線の譲受を検討したことがあった。詳細は「相模鉄道#歴史」を参照。

相模線は、高度経済成長後の1980年代になって沿線がベッドタウン化し、現在のような運行形態が取られるようになったが、それまでは沿線人口は少なく、1960年代の沿線都市人口は相模原市の約20万人が最大で、沿線第3の都市であった厚木市でさえ8.9万人に過ぎなかった。さらに相模川の砂利採掘が禁止された1960年頃には貨物輸送も激減し、1971年度の収支係数は374と、関東地方国鉄線の中では鹿島線の634、木原線の459に次ぐ第3位の赤字路線であり、これは現在第三セクター化されている足尾線の361や真岡線の345よりも悪く、1968年(昭和43年)に「赤字83線」に選定され廃止対象とされた烏山線の265を遥かに下回っていた。このような経営状況にも関わらず、相模線は1970年昭和45年)12月21日日本国有鉄道諮問委員会報告書において一地方ローカル線としては破格の幹線系線区に区分され、これが翌年明るみに出ると、専門家の間ではこれを疑問視する声も聞かれた。相模線はこのように関東有数の赤字路線であったにもかかわらず厚木市の日産自動車工場の製品である自動車を輸送する路線として、またベッドタウンの足として位置付けられ、国の資本が投下され続けた。このため、この事情を知る専門家からは「一部独占資本に奉仕する国鉄」と囁かれていた[7][8]

相模線は1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化でJR東日本の路線となり、1991年(平成3年)には全線が電化され、当線のために新製された当時では最新型の車両が投入された。電化によるスピードアップ、およびダイヤ改正による運行本数の増加(約1.5倍)、海老名駅の開業(1日乗車人数9千人前後)、横浜線への直通運転の復活などで利便性向上が図られ、また京王相模原線の橋本駅乗り入れや沿線のベッドタウン化など周辺環境の変化もあって通勤通学での利用客が増加し、現在は通勤・通学路線として定着しているものの、それでも都心へ向かう旅客流動とは無関係な線形ゆえ、周辺他線と比較すれば圧倒的に乗客が少ない。

相模鉄道(開業前)[編集]

  • 1915年大正4年):会社設立が計画され、10月21日に最初の定款が作成される。当初の計画では、茅ヶ崎 - 寒川 - 厚木 - 原当麻 - 久保沢(城山町)付近 - 相原の路線であった。
  • 1916年(大正5年)6月26日:相模鉄道の発起人鳥越金之助(元帝国鉄道庁技師)ほか21名に対して茅ヶ崎 - 相原間の軽便鉄道敷設免許が交付される[9]
  • 1917年(大正6年)12月18日:相模鉄道の創立総会が高座郡茅ヶ崎町茅ヶ崎の伊藤里之助(当時の茅ヶ崎町長)宅にて開催。資本金は60万円、本社所在地は茅ヶ崎町茅ヶ崎5573-2に置かれた。
  • 1918年(大正7年)1月4日:相模鉄道株式会社の設立登記がされる。
  • 1919年(大正8年)
    • 7月10日:相模鉄道が日本鋼管との間に軌条約8km分の購入契約を結ぶ。
    • 7月11日:国鉄茅ヶ崎駅付近(茅ヶ崎駅を出て左カーブの左側)に本社事務所と機関庫が完成。
    • 7月19日:寒川 - 川寒川間の砂利採取支線の敷設許可がおりる。
    • 7月22日:砂利採取、販売兼営認可がおりる。
    • 当時は、手掘りにて砂利を採取し、鉄道開通以前であったため、狭い専用線を茅ヶ崎から敷設して、トロッコに積んで馬力で茅ヶ崎停車場に運搬し、ここから東海道線の貨車に積み替えて目的地まで運ぶというものであった[11]。敷設された専用線は、鉄道用地ではなく県道を借用していたとの記述もある。
    • 11月10日:一期工事の土木工事の入札が行われる。
    • 11月21日:香川駅停車場予定地付近にて軌道敷設起工式を開催。線路予定地から反対運動も起き、さらに鋼材が高騰し資金不足で会社設立から起工式まで2年もかかった。
  • 1920年(大正9年)
    • 1月10日:茅ヶ崎駅への乗り入れ連絡が承認される。乗り入れ工事は鉄道院によって施工。
    • 5月末:乗り入れ工事完成。工事期間中に茅ヶ崎停車場共同使用願及び連帯輸送開始願を鉄道院に提出。
    • 7月:砂利の採取地を寒川村一之宮、宮山及び神田村田村(現在の平塚市田村)と決める。
  • 1921年(大正10年)
    • 5月29日:茅ヶ崎駅 - 寒川駅間5.0kmにて試運転。貨車3両を連結して寒川駅 - 川寒川駅間試運転。開業に向け、鉄道省からテンダー式蒸気機関車4両、4輪客車2両、4輪無蓋車11両、4輪緩急車3両の計18両の払い下げを受けた(以上のように書かれた資料もあるが、当時の話では2両しか機関車がなかった〈1924年参照〉とされ、払い下げが記述通りに行われたのか、記憶違いかは不明)。
    • 9月12日:鉄道係員服務規則、鉄道係員懲罰規定、旅客及び貨物運輸規則、貨物運賃及び料金規則、貨物営業マイル程、運賃割引準則、増運賃規則、列車運転時刻などの諸規則が認可される。
    • 9月20日:開通を目前に岡崎久次郎をはじめ役員のほとんどが退任。草津軽便鉄道の別府藤馬[12]が代表取締役となる[13][14]

相模鉄道(開業後)[編集]

  • 1921年(大正10年)9月28日:相模鉄道線 茅ヶ崎駅 - 川寒川駅間(4.0mi.≒6.44km)が開業[15]。香川駅・寒川駅・川寒川駅が開業。当時は28kgレールを使用していた。
  • 1922年(大正11年)5月10日:砂利支線(貨物線・後の西寒川支線)寒川駅 - 四之宮駅間(1.2M≒1.93km)が開業。四之宮駅が開業[16]
  • 1923年(大正12年)2月5日:東河原駅(のちの西寒川駅)が開業(貨物営業)[17]
  • 1924年(大正13年)
  • 「大正12・13年頃の機関区には機関士3人、機関助手3人、技工1人、炭水夫1人、主任1人しかいなかった。機関車も101号と102号の2両しかなく、その2両で寒川まで運行していた」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
  • 1925年(大正14年)
    • 2月8日:投資家の南俊二が社長に就任。
    • 7月8日:茅ヶ崎駅 - 寒川駅 - 四之宮駅間に対する政府補助金の申請が許可される。この前後に茅ヶ崎駅構内に機関庫1棟、川寒川駅・四之宮駅に貨物扱所、寒川駅 - 川寒川駅間の四之宮分岐点に信号所などが新設される。
    • 7月:自社施設として汐留駅に砂利荷揚場が新設。震災復興資材として砂利供給の拠点となった。
  • 1926年(大正15年)
    • 1月25日:寒川駅 - 厚木駅間の起工式開催。工区は2区に分けられ倉見駅までを先行工区とし、併せて厚木駅までの線路用地及び停車場用地の買収も進めた。
    • 4月1日:寒川駅 - 倉見駅間(2.3mi.≒3.70km)が延伸開業。倉見駅が開業(旅客営業のみ貨物営業開始は7月15日)[18]
    • 7月15日:倉見駅 - 厚木駅間(3.7mi.≒5.95km)が延伸開業。社家駅・厚木駅が開業[19]
    • 7月30日:厚木駅 - 橋本駅間の工事起工式開催。
    • 11月:工事区間の用地買収・全補償問題完了。
  • 1927年(昭和2年)4月1日:資本金を増資。目的には、茅ヶ崎駅 - 寒川駅間の複線化、28kgレールを30kg以上へのレール交換などが含まれていた[20]
  • 1930年(昭和5年)
    • 4月:厚木起点5.6kmまでの区間で軌条敷設・砂利散布、つき固め工事完了。
    • 4月1日 マイル表示からメートル表示に変更(茅ヶ崎駅 - 厚木駅間 9.1mi.→14.6km、寒川駅 - 川寒川駅間 0.9mi.→0.9km、寒川駅 - 四之宮駅間 1.2mi.→2.0km)。
  • 1931年(昭和6年)
    • 1月30日:厚木駅 - 橋本駅間の工事が完成するも工事代金未払いのため引き渡しを受けれられず、日本興業銀行から借入支払いを行う。
    • 4月29日:厚木駅 - 橋本駅間 (18.7km) 延伸開業し全通。上今泉停留場(現在の井戸坂踏切橋本側にあたる)・座間新戸駅(現在の相武台下駅)・下溝駅・原当麻駅・上溝駅(現在の番田駅)・相模横山駅(現在の上溝駅)・作ノ口停留場が開業[21]
    • 6月19日:南俊二が投資に失敗し相模鉄道株を売却したため社長を退任[22]。次に就任した登坂小三郎は元鉄道院理事で横荘鉄道取締役であり同年に山梨電気鉄道社長に就任している[23]
    • 7月1日:宮山停留場・門沢橋停留場・本座間停留場が開業。
    • 11月1日:貨物支線 寒川駅 - 川寒川駅間 (0.9km) が廃止。川寒川駅が廃止[24]
  • 1932年(昭和7年)
    • 5月:原当麻駅 - 橋本駅間に対して鉄道省から補助金の交付を受ける。昭和6年度上期から欠損があり、日本興業銀行に対する未払い利息が25万9300円に達するほど経営状況が悪化していた。
    • 6月:ガソリン自動客車を導入。導入当時の話として「ボディーが高く、すぐに脱線してしまう。寒川駅の分岐点から少しでも入ると脱線してしまう。これではとても本線を走ることができない、何度やっても脱線する。そこで、機関区でボディーの高さを2センチほど低くしたら脱線しなくなった。」と相模鉄道社内報(1977年10月)に当時の話として載っている。
    • 6月1日:円蔵停留場・上磯部停留場が開業。
    • 11月1日:中新田停留場・大河原停留場(現在の南橋本駅)が開業。
  • 1935年(昭和10年)
    • 6月23日:貨物停車場として入谷駅が開業。
    • 8月20日:座間新戸駅構内側線が1.0km延長。
    • 10月16日:重油動力併用認可を受ける。
    • 11月2日:汽車製造会社と共同開発の日本初の電気式気動車キハ1000形流線型ディーゼル電動客車を購入、軽油を燃料に茅ヶ崎駅 - 橋本駅間で運転を開始。
    • 11月7日届出:相模横山駅が本上溝駅に改称。
    • 12月24日:国鉄横浜線に乗り入れ、八王子駅までの直通運転の承認を受ける。
  • 1936年(昭和11年)1月15日:国鉄八王子駅へ直通運転開始。同時に運転本数を増やし、スピードアップを行う。
  • 1937年(昭和12年):厚木駅構内に小田急連絡線(小田急独身寮 - 坂本祭典間にあたる)が設置される。
  • 1938年(昭和13年)9月29日届出:座間新戸駅が陸士前駅に改称。
  • 1939年(昭和14年)10月1日届出:東河原駅が昭和産業駅に改称。
  • 1940年(昭和15年)
    • 月日不明:陸士前駅が相武台下駅に、大河原停留場が相模町停留場に改称。
    • 2月1日:日東駅(現在の北茅ヶ崎駅)が開業。
    • 4月20日:寒川駅 - 昭和産業駅間の旅客営業を開始[25]
    • 11月25日:円蔵停留場が移転。
  • 1941年(昭和16年)
    • 3月3日:香川台停留場が開業。
    • 4月1日届出:相模町停留場が駅に変更。
  • 1942年(昭和16年)4月:海軍昭和産業の工場を買収。当線での軍需輸送が始まる。
    • 10月30日届出:昭和産業駅が四之宮口駅に改称。
  • 1943年(昭和18年)
    • 4月1日:神中鉄道と相模鉄道の合併により、相模鉄道相模線となる。
    • 4月:相模海軍工廠が発足し、さらに軍事輸送が本格化する。
    • 10月1日:香川台停留場、中新田停留場、上今泉停留場、上磯部停留場、作ノ口停留場休止。
    • 1月21日:陸運統制令により運輸通信省との間に買収協定を締結する。買収は茅ヶ崎駅 - 橋本駅間および寒川駅 - 四之宮駅間の35.3kmで、その価格は390万円であった。
相模鉄道の輸送・収支実績
年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1921 40,714 38,097 21,743 30,110 ▲ 8,367
1922 81,044 104,019 63,897 49,504 14,393
1923 68,755 191,164 109,529 66,384 43,145 砂利業11,176 3,789 24,931
1924 86,487 339,383 195,960 108,518 87,442 兼業雑損111,092
償却金77,794
18,905
1925 86,487 339,383 195,960 108,518 87,442 兼業雑損111,092
償却金77,794
18,905
1926 251,872 932,841 529,625 218,737 310,888 砂利採取6,013 雑損2,644
償却金13,000
31,797
1927 294,569 1,040,889 605,195 306,641 298,554 額面超過益その他
87,244
雑損その他18,742
償却金20,000
73,834
1928 277,861 1,190,779 661,518 338,691 322,827 砂利採取業10,252 償却金40,000 71,049
1929 254,539 1,195,097 682,029 346,860 335,169 砂利採取業435 雑損2,810 31,980
1930 180,825 667,282 403,858 248,109 155,749 砂利採取業143 18,424
1931 192,529 316,755 229,121 174,417 54,704 砂利採取98,810
雑損4,118
95,739
1932 279,852 340,687 252,470 165,089 87,381 雑損158,165
砂利業113,792
145,407
1933 332,983 331,843 393,402 143,742 249,660 雑損12,918
砂利業57,117
131,875 68,513
1934 366,029 363,907 258,924 151,824 107,100 砂利業3,356 雑損7,921 73,878 80,303
1935 381,206 366,445 247,232 165,963 81,269 砂利業8,676
雑損償却金17,598
72,270 128,488
1936 445,822 459,965 297,352 199,443 97,909 砂利自動車業41,054 雑損償却金45,748 85,951
1937 514,684 491,526 322,231 228,816 93,415 自動車砂利業67,806 雑損償却金22,793 83,225
1939 841,665 706,746
1941 1,473,227 645,662
  • 鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

国有化後[編集]

  • 1944年(昭和19年)6月1日戦時買収私鉄に指定され国有化、運輸通信省鉄道総局の管轄の相模線となる[26]
    • 停留場が駅に変更。日東駅が北茅ヶ崎駅に、上溝駅が番田駅に、本上溝駅が上溝駅に、相模町駅が南橋本駅に、四之宮口駅が西寒川駅に改称。円蔵停留場・本座間停留場・香川台停留場・中新田停留場・上今泉停留場・上磯部停留場・作ノ口停留場が廃止。四之宮駅 - 西寒川駅間が廃止 (-0.5km)。厚木駅が茅ヶ崎方に0.4km、原当麻駅が茅ヶ崎方に0.3km移転など一部で改キロ。
  • 1946年(昭和21年)4月25日:社家駅 - 厚木駅間に山王原信号場が開設。
  • 1949年(昭和24年)
    • 3月2日:山王原信号場が廃止。
    • 6月1日:日本国有鉄道が発足。国鉄相模線となる。
  • 1954年(昭和29年)10月1日:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業が廃止。1946年頃から旅客列車の運転はなかった。
  • 1957年(昭和32年):茅ヶ崎機関区煤煙問題で神奈川県が国鉄に抗議を行う(問題そのものは戦後からあった)
  • 1958年(昭和33年):相模線がディーゼル化される(茅ヶ崎市文化資料館による)
  • 1960年(昭和35年)11月15日:寒川駅 - 西寒川駅間の旅客営業再開。
  • 1961年(昭和36年)4月1日:相模線管理所が発足。
  • 1964年(昭和39年):相模川での砂利採取が禁止になる。
  • 1965年(昭和40年):キハ30形5両が茅ヶ崎機関区に配置
    • 同年夏、国鉄茅ヶ崎機関区でこれまで相模線や東海道線で貨車・客車などの牽引、入換作業に従事してきた蒸気機関車の引退式が盛大に行われた。
    • 同年前後に、相模線の担当機関区が茅ヶ崎→八王子に移管された。1979年当時も気動車は八王子機関区所属
  • 1966年(昭和41年)3月25日:蒸気機関車運転廃止。この時点では貨物列車や入換作業のみに使用されていた。国鉄から蒸気機関車の営業列車がなくなる9年前のことである。
  • 1981年(昭和56年)4月29日:相模線全線開通から50年目をむかえ、記念のヘッドマークを掲出。
  • 1984年(昭和59年)
    • 3月31日:寒川駅 - 西寒川駅間支線廃止に伴うさよなら列車が寒川駅 - 西寒川駅間で運転。
    • 4月1日:支線 寒川駅 - 西寒川駅間 (1.5km) が廃止。西寒川駅が廃止。
  • 1986年(昭和61年)3月3日:ダイヤ改正で試行列車として運転されていた22本が定期列車になる。
    • キハ30 25・49を皮切りに朱色一色からクリームと青の相模線カラーに塗装変更された。
  • 1987年(昭和62年)3月21日:海老名駅が開業。

民営化後[編集]

電化記念ヘッドマークをつけて走る205系500番台(1991年3月17日 上溝駅)
  • 1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が茅ヶ崎駅 - 厚木駅間、南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業者となる。厚木駅 - 南橋本駅間の貨物営業が廃止。
  • 1989年平成元年)3月6日:電化工事着工。
  • 1990年(平成2年):南武線用205系で電化に伴う訓練列車運転。
  • 1991年(平成3年)3月16日:全線電化。205系500番台電車運転開始。
    • 相模線電化により、茅ヶ崎運転区が茅ヶ崎運輸区となる。
    • キハ30・35形気動車使用終了。
  • 1996年(平成8年)10月1日:横浜支社の発足に伴い、全線の管轄が東京地域本社(現在の東京支社)から横浜支社に変更される。
  • 1997年(平成9年)7月1日:日本貨物鉄道の南橋本駅 - 橋本駅間の第二種鉄道事業 (2.0km) が廃止。
  • 1998年(平成10年)9月28日:茅ヶ崎駅 - 厚木駅間の貨物列車がこの日で運転終了。
  • 2011年(平成23年)
    • 2月27日:電化開業から20周年を記念し、115系豊田車両センター配置)3両編成を使用した団体臨時列車を海老名駅 - 茅ヶ崎駅 - 熱海駅 - 横浜駅間にて運行[27]
    • 3月14日:11日に発生した東日本大震災に伴う輪番停電の影響を受けて、この日から終日全線で運転が見合せとなる。その後、3月20日[28]から寒川駅 - 茅ヶ崎駅間で、3月28日から橋本駅 - 寒川駅間で運転が再開されたものの、全線の運転が再開されるまでに約2週間を要した。これは、相模線が他の路線のようなJR自前の変電所を持たず、東京電力からの電力供給に依存していたことが原因であった[28]

駅一覧[編集]

  • 全列車各駅停車(全駅に停車)
  • 線路(全線単線) … ◇・∨・∧:列車交換可、|:列車交換不可
  • 全駅神奈川県内に所在
駅名 駅間営業キロ 累計営業キロ 接続路線 線路 所在地
茅ヶ崎駅 - 0.0 東日本旅客鉄道東海道線湘南新宿ライン 茅ヶ崎市
北茅ヶ崎駅 1.3 1.3  
香川駅 2.1 3.4  
寒川駅 1.7 5.1   高座郡
寒川町
宮山駅 2.1 7.2  
倉見駅 1.4 8.6  
門沢橋駅 1.4 10.0   海老名市
社家駅 1.6 11.6  
厚木駅 2.6 14.2 小田急電鉄小田原線
相模鉄道厚木線(貨物線)
海老名駅 1.7 15.9 小田急電鉄:小田原線
相模鉄道:本線
入谷駅 3.0 18.9   座間市
相武台下駅 1.7 20.6   相模原市 南区
下溝駅 2.9 23.5  
原当麻駅 1.3 24.8  
番田駅 2.1 26.9   中央区
上溝駅 1.5 28.4  
南橋本駅 2.9 31.3  
橋本駅 2.0 33.3 東日本旅客鉄道:横浜線
京王電鉄相模原線
緑区

発車メロディ[編集]

相模線内各駅の発車メロディは、他線区にはない「近郊地域20番」「近郊地域20-1番」という曲のみとなっている(ただし、茅ヶ崎駅は発車ベル、上溝駅は「せせらぎ」のフェードアウト版)。近郊地域20番は学校のチャイムのような曲で、使用しているのは、橋本駅・原当麻駅・入谷駅・海老名駅・門沢橋駅・寒川駅の各駅。もう1曲の近郊地域20-1番はかつて存在した石丸電気の旧CFソングに近い感じの曲で(以前総武本線佐倉駅で使用されていた曲のバージョン違い)、南橋本駅・番田駅・下溝駅・相武台下駅・厚木駅・社家駅・倉見駅・宮山駅・香川駅・北茅ヶ崎駅の各駅で使用されている。電化され駅自動放送が導入された際には全駅が近郊地域20番に統一されていた。また、駅自動放送は上溝がユニペックス型放送、茅ヶ崎駅がATOS、海老名駅・原当麻駅・橋本駅が東海道型放送(詳細型)、寒川駅が巌根型放送、それ以外の駅は仙石型放送である。なお、以前は全駅とも東海道型放送(簡易型)が使われていたが、放送装置更新や、駅舎リニューアルなどに伴い、現在の形になっている。

廃止区間[編集]

( )内は起点からの営業キロ。

寒川支線
寒川駅 (0.0km) - 西寒川駅 (1.5km) - 四之宮駅 (2.0km)
寒川駅 (0.0km) - 川寒川駅 (0.9km) (貨物線)

廃駅・廃止信号場[編集]

#廃止区間にある駅をのぞく。括弧内は茅ヶ崎駅起点の営業キロ

  • 円蔵停留場:1944年廃止、北茅ヶ崎駅 - 香川駅間(1940年の移転前は2.0km、移転後は不明)
  • 香川台停留場:1943年休止、北茅ヶ崎駅 - 香川駅間
  • 山王原信号場:1949年廃止、社家駅 - 厚木駅 (12.9km)
  • 中新田停留場:1943年休止、社家駅 - 厚木駅間 (13.9km)
  • 上今泉停留場:1943年休止、海老名駅 - 入谷駅間 (17.3km)
    • 井戸坂踏切の橋本寄りの東側にあった。現在でも不自然な空間があり駅のホームがあった場所が見てとれる。
    • 郷土出版社「目で見る大和・座間・海老名・綾瀬の100年」に上今泉駅の写真が1枚掲載されており、40m程のホームがあったことが画像から分かる。
  • 本座間停留場:1944年廃止、入谷駅 - 相武台下駅間 (19.7km)
  • 上磯部停留場:1943年休止、相武台下駅 - 下溝駅間 (22.6km)
  • 作ノ口停留場:1943年休止、上溝駅 - 南橋本駅間 (30.2km)

東海地震への対応[編集]

東海地震の警戒宣言が発令された場合、全線で運転を見合わせることになっている[2]

脚注[編集]

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  1. ^ 『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』JTB 1998年
  2. ^ a b 東海地震の情報と対策 神奈川県
  3. ^ 現在では神奈川県・東京都のほか奈良県もこの条件を満たしている。
  4. ^ 鉄道ピクトリアル』通巻637号 電気車研究会 p.22
  5. ^ 鉄道ファン』通巻302号 交友社 p.128
  6. ^ 『JR気動車客車編成表90年版』(ジェー・アール・アール 1990年8月1日初版)p44では、1990年4月1日時点でキハ30 505・506、キハ35 519・531の4両が茅ヶ崎運転区に配置となっている。
  7. ^ a b 福田行高、山田俊明「ローカル線を探る 相模線」『鉄道ピクトリアル』1974年2月号 通巻289号 電気車研究会 p.64 - p.65, p.67
  8. ^ 『1971(昭和46)年度 国鉄線区別収支係数』、 鉄道ピクトリアル 1972年11月号、 通巻271号(鉄道図書刊行会刊)
  9. ^ 「鉄道免許状下付」『官報』1916年6月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 『人事興信録. 6版』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  11. ^ 『相鉄70年史』p.17
  12. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』
  13. ^ 『相鉄線物語』230クラブ新聞社、1997年、39頁
  14. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第29囘』『日本全国諸会社役員録. 第30囘』
  15. ^ 『鉄道省鉄道統計資料. 大正10年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  16. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1922年5月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「地方鉄道停車場設置」『官報』1923年2月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年4月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年7月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 『相鉄70年史』
  21. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1931年5月5日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  22. ^ 『相鉄線物語』51頁
  23. ^ 『帝国銀行会社要録. 第19版(昭和6年)』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  24. ^ 「地方鉄道運輸営業廃止」『官報』1931年11月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1940年5月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  26. ^ 「運輸通信省告示第250号」『官報』1944年5月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  27. ^ 「相模線電化20周年記念 115系電車の旅」運転 - 『鉄道ファン交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年3月1日
  28. ^ a b JR相模線、10日連続運休…自前変電所なし - 読売新聞、2011年3月24日

関連項目[編集]

外部リンク[編集]