草軽電気鉄道

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草軽電気鉄道
大正期の草津軽便鉄道(草軽電気鉄道)
大正期の草津軽便鉄道(草軽電気鉄道)
路線総延長 55.5 km
軌間 762 mm
電圧 600 V直流
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
国鉄信越本線
軽井沢
0.0 新軽井沢
exBHF
1.5 旧道
exBHF
1.7 旧軽井沢
exBHF
3.0 三笠
exBHF
6.1 鶴溜
exBHF
10.0 小瀬温泉
exBHF
12.6 長日向
exBHF
17.3 国境平
exSTR+GRZq
長野県群馬県
exBS2+r
19.9 二度上
exABZlf exABZlg
exBS2l
exBHF
23.8 栗平
exBHF
24.8 (臨)湯沢
exBHF
25.8 北軽井沢
exBHF
28.3 吾妻
exBHF
32.4 小代
exBHF
36.8 嬬恋
exWBRÜCKE
吾妻川橋梁 吾妻川
exSTR POINTERu
-1960
exBHF
37.9 上州三原
exBS2+l
-1962
exBHF exENDEa
東三原
exABZrg exABZrf
exBS2r
exBHF
湯窪
exABZrg exKBHFr
万座温泉口
exBHF
草津前口
exBHF
谷所
exBHF
鳥の窪 -1929?
exKBHFe
草津温泉

駅名・距離は今尾 (2008) による

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草軽電気鉄道
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草軽電気鉄道(くさかるでんきてつどう)とは長野県北佐久郡軽井沢町新軽井沢駅群馬県吾妻郡草津町草津温泉駅を結ぶ鉄道路線軽便鉄道)を運営していた東急グループ鉄道事業者

鉄道事業廃止後も、会社は草軽交通というバス会社として残っている[1]。本項目では主に同社が運営していた鉄道路線について述べる。

概要[編集]

草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても未だ交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイス登山鉄道に着想を得て、草津と浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。大正期の1914年 - 1926年に順次路線を開通させた。開業に際し、以下のような唄も作られている。

  1. 私や草津の鉄道よ 長い苦労の効あって 開通するのも近いうち 前途を祝して踊ろうよ
  2. 私や上州の草津町 浅間を右に高原の 海抜四千五百尺 お湯じゃ日本のオーソリティー
  3. 湯の花かおる草津には 春は緑に秋紅葉 冬はスキーに夏は避暑 浮世離れた理想郷

この間1923年に吾妻川電力が沿線5カ所の発電所建設による資材輸送の必要から鉄道を傘下[2]に収めると、同社の重役である河村隆実を社長に就任させ、社名変更、電化、草津温泉への延長、自動車兼営、電気事業など積極経営に乗り出し、そのための増資社債発行をおこなった。

ちょうどそのころ法政大学学長の松室致は、自分の別荘が蒸気機関車の火の粉により火災にあい会社に抗議をしにおとずれたが、逆に説得され電化の事業に手を貸すようになった。そして松室から7.9万坪もの土地の寄付をうけることになりそれを元手に五百坪付の株式を売り出し130万円の増資に成功した[3]

ところが予期に反して利用者はのびず、政府の補助金を受けても赤字は埋まらない状態が続いた。配当も途中から無配となり、ついには社債も債務不履行となった。結局1932年社債権者集会では利率の大幅引下げを決議することとなる[4]。その他償還日(1934年9月)の延長は何度もおこなわれ最終的には1945年9月まで支払猶予したという。

なお建設費用をできるだけ抑えようとしたため、急曲線やスイッチバックがいくつも存在し、山岳地帯を走るにもかかわらず、トンネルは存在しなかった。勾配がきついところではブレーキをかけるのが大変だったと言われてもいる。それに加え、本来道床に必要な砕石も敷かれない区間もあった。線路規格も極端に低いものであったことから、55.5kmを走破するのに2時間半から3時間を要した。

高原地には、嬬恋・北軽井沢等の途中駅があった。高原列車として親しまれ、1951年には日本初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』にも登場し、当時の様子を知ることができる。しかし、1935年に渋川 - 草津間などに国鉄バスが運行開始され[5]、一般のバスの大型化が進むなど、草軽の輸送力は、他の輸送手段に比べてその差は歴然としており、乗客は次第に減少した。

さらに1945年国鉄長野原線(現・JR吾妻線)の開通(長野原 - 草津温泉間は国鉄バスが旅客輸送を受けた)により利用者が国鉄側へシフト。さらに1947年に政府補助金制度も廃止され、度重なる台風災害は草軽創設以来、鉄道施設に最大の被害をもたらし、第一次廃線として1960年に新軽井沢 - 上州三原間が廃止。採算性もとれないと判断されていた上州三原 - 草津温泉間も1962年には廃止になった。

草軽電気鉄道は、観光に大きな功績を残しただけではなく、沿線町村の活性化にも重要な役割を果たした。物流の面でも、この小さな鉄道が大きな役割を持っていたのである。温泉地である草津町には食料を中心にした物資を運び、長野原町六合村嬬恋村の3町村から産出される農産物や、草津白根山周辺に点在した鉱山からの硫黄鉱石などが草軽電鉄によって輸送されたのである。そのため、定期列車は貨客混合列車が普通であった(貨物列車も設定されていた)。第二次世界大戦が終盤を迎える頃、草軽電鉄の輸送はピークに達した。その頃、硫黄の産出もピークを迎え、当時の硫黄鉱山を経営していた「帝国硫黄工業」と連携して、多量の硫黄鉱石が搬出され、戦争へ出てゆく兵士の出立なども草軽電鉄が使われることが多かった。

前述のように国鉄バスや国鉄長野原線の開業、台風災害による被害などでその役割を終えたが、沿線の町村に近代文明をもたらした存在であった。

路線データ[編集]

  • 路線距離(営業キロ):新軽井沢 - 草津温泉間 55.5km
  • 軌間:762mm
  • 駅数:21駅(起終点駅含む。路線廃止時点)
  • 複線区間:なし(全線単線)
  • 電化区間:全線(直流600V)
    • 吾妻変電所、回転変流器(交流側457V直流側600V)直流側の出力250KW、常用1、製造所富士電機
    • 石津変電所、回転変流器(交流側445V直流側600V)直流側の出力250KW、常用1、製造所富士電機
    • 同上、電動発電機(交流側3000V直流側600V)直流側の出力250KW、予備1、製造所奥村電機
    • 小瀬変電所、回転変流器(交流側457V直流側600V)直流側の出力250KW、常用1、製造所富士電機
    • 同上、電動発電機(交流側3000V直流側600V)直流側の出力250KW、予備1、製造所奥村電機[6]

東急対西武[編集]

箱根山戦争伊豆戦争東京城西地区、渋谷など何かと張り合った東急西武両陣営だが、ここ軽井沢 - 草津間でも両者の競争が繰り広げられていた。元来軽井沢開発は西武が先行していて、1945年東急が草軽電鉄を傘下に納めたとき既に西武は鬼押ハイウェーを系列会社の手で敷設したうえで軽井沢高原バスを運行し、地域交通を手中に収めていたほか、軽井沢の別荘開発を早くから手がけるなど、軽井沢周辺では西武系の勢力が強まっていった。

しかし、草津温泉においては、西武系は路線バスが乗り入れるのみで自系列の宿泊施設等はなかった(西武系は万座温泉方面から志賀高原方面に力を入れて開発することとなる)。後に東急系列が「草津温泉ホテル東急」[7]を開業させたことを考えると、草津温泉では東急にやや軍配が上がったとも言える。草津温泉ホテルリゾート前の駐車場に隣接して小さな公園があり、公園内には草軽電鉄の草津温泉駅跡の小さな記念碑が建てられている。

モータリーゼーションが進みスピード重視へと世の中が傾斜してゆく中、少ない本数で時間をかけてゆっくり走る小さな電車の草軽電鉄よりも、増発が可能でスピーディーに走り、収容能力に勝る西武バスへ客が流れて行くのはむしろ当然であった。しかし、その頃は草軽も沿線を中心に乗合自動車の営業を開始していた。バスの大型化なども進み、奇しくも草軽電鉄を挟む格好で東急系列の草軽と西武は対峙したのである。

競争に敗れた東急側が不採算の高原電車を廃止し、草軽交通バスで挽回を図ったのもやむを得ない選択であった。

運行状況[編集]

  • 1940年7月1日改正当時
    • 旅客列車本数:日7往復(7月1日 - 9月20日は1往復増発、軽井沢 - 北軽井沢間の区間便以外は貨客混合列車が多かった)
    • 所要時間:全線2時間34分 - 3時間2分
  • 1960年度輸送量(一日平均)[8]
    • 旅客287人
    • 貨物0.8トン

歴史[編集]

  • 1909年(明治42年)2月23日 前身となる「草津興業[9]」の発起人をはじめとして設立委員会が発足し、軽便軌条敷設特許を内閣総理大臣へ申請。
  • 1910年(明治43年)4月30日 軽便軌条敷設特許。
  • 1912年(大正元年)
    • 8月6日 軌道より軽便鉄道に指定変更[10]
    • 9月17日 草津軽便鉄道(本社東京芝区)[11]に社名変更。
  • 1913年(大正2年)11月25日 起点の新軽井沢において着工。着工式が執行。
  • 1915年(大正4年)7月22日 新軽井沢 - 小瀬(のちの小瀬温泉)間開業[12]
  • 1917年(大正6年)7月19日 小瀬 - 吾妻間開業[13]
  • 1918年(大正7年)
    • 6月1日 精進場川駅を三笠駅に、浅間駅を二度上駅に改称[14]
    • 6月15日 地蔵川駅開業。夏期のみ営業の臨時駅[15]。のちの北軽井沢駅。
  • 1919年(大正8年)
  • 1920年(大正9年)8月11日 国境平駅開業。
  • 1921年(大正10年)10月15日 小代駅開業。
  • 1923年(大正12年)
    • 吾妻川電力の傘下となる。
    • 7月10日 吾妻駅の読みを「あづま」から「あがつま」に変更[18]
    • 11月9日 長日向駅開業。
  • 1924年(大正13年)
    • 2月15日 草津電気鉄道に社名変更。
    • 11月1日 新軽井沢 - 嬬恋間電化。
  • 1926年(大正15年)
    • 8月15日 嬬恋 - 草津前口間開業[19]。これ以降は開業当初から電化。
    • 9月19日 草津前口 - 草津温泉間開業[20]。全線開通。
  • 1927年(昭和2年) 地蔵川駅を北軽井沢に改称[21]
  • 1928年(昭和3年)5月9日 北軽井沢-鬼押出し間、北軽井沢-地蔵川温泉間の乗合自動車運輸営業開始(4月12日自動車業兼営認可)[22][23]
  • 1932年(昭和7年)6月3日 旧道駅開業。
  • 1933年(昭和8年)6月1日 吾妻川電力が合併され東信電気株式会社の傘下となる。
  • 1934年(昭和9年)以前 小瀬駅を小瀬温泉駅に、新嬬恋駅を新鹿沢温泉口駅に、石津平駅を万座温泉口駅に改称[21]
  • 1936年(昭和11年)7月10日 湯沢駅開業。夏期のみ営業の臨時駅[21]
  • 1937年(昭和12年)以前 新鹿沢温泉口駅を上州三原駅に改称[21]
  • 1939年(昭和14年)
    • 日本窒素硫黄株式会社の傘下となる。
    • 4月28日 草軽電気鉄道に社名変更。
  • 1945年(昭和20年)4月1日 東京急行電鉄の傘下入り。
  • 1949年(昭和24年)9月1日 台風のため、沿線各所に多大な被害を受ける。これが引き金となり、経営不振のために、新軽井沢 - 上州三原間の廃止が同年11月の株主総会にて決議。
  • 1950年(昭和25年)
    • 8月4日 台風のため吾妻川橋梁が流失、他の施設も被災し、会社創立以来の被害。
    • 11月13日 運輸審議会公聽会「草軽電鉄株式会社新軽井沢駅、上州三原間鉄道運輸営業廃止について」が運輸省8階講堂にて開かれる[24]
  • 1959年(昭和34年)
    • 8月14日 台風のため、再び吾妻川橋梁が流失。嬬恋 - 上州三原間が不通となり、同区間を代行バス輸送とする。その後、橋梁は復旧されることなく、部分廃止。
    • 10月27日 新軽井沢 - 上州三原間(37.9 km)の鉄道の運輸営業廃止は、許可することが適当である旨、運輸審議会が答申する[25]
  • 1960年(昭和35年)4月25日 新軽井沢 - 上州三原間廃止。
  • 1961年(昭和36年)
    • 8月5日 上州三原 - 草津温泉間の地方鉄道運輸営業廃止の許可につき運輸審議会件名表へ登載される[26]
    • 12月19日 上州三原 - 草津温泉間(17.6 km)の地方鉄道の運輸営業廃止は、許可することが適当である旨、運輸審議会が答申する[8]
  • 1962年(昭和37年)2月1日 上州三原 - 草津温泉間が廃止され全線廃止。

駅一覧[編集]

新軽井沢駅 - 旧道駅 - 旧軽井沢駅 - 三笠駅 - 鶴溜駅 - 小瀬温泉駅小瀬駅[27])- 長日向駅 - 国境平駅/こっきょうだいら[28] - 二度上駅 - 栗平駅 - (臨)湯沢駅 - 北軽井沢駅地蔵川駅[29])- 吾妻駅 - 小代駅 - 嬬恋駅 - 上州三原駅 - 東三原駅 - 万座温泉口駅 - 草津前口駅 - 谷所駅 - 草津温泉駅

接続路線[編集]

※上州三原駅付近で、現在の吾妻線万座・鹿沢口駅付近を通っていたが、吾妻線が万座・鹿沢口駅を経て大前駅まで延伸されたのは、草軽電気鉄道が廃止された後の1971年であり、営業当時は吾妻線との交点はなかった。

輸送・収支実績[編集]

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1915 13,958 4,528 1,352 6,036 ▲ 4,684
1916 27,527 50 2,084 10,516 ▲ 8,432
1917 43,500 2,024 35,547 27,016 8,531 10,317 11,479 6,445 16,439
1918 41,336 4,051 27,048 44,269 ▲ 17,221 23,348 雑損54建設費償却金836 18,205 26,347
1919 53,556 6,264 46,883 54,289 ▲ 7,406 遊園設備土地賃貸28,237 16,459 28,502
1920 49,608 6,033 72,067 107,486 ▲ 35,419 遊園設備土地賃貸43,235 8,117 17,255 43,642
1921 56,663 10,610 94,830 100,915 ▲ 6,085 34,229
1922 98,879 12,456 106,311 106,413 ▲ 102 45,393
1923 68,774 14,789 122,068 141,391 ▲ 19,323 16,947 3,757 18,825 50,523
1924 80,809 25,655 207,758 244,689 ▲ 36,931 13,426 400 25,004 85,690
1925 86,589 34,801 281,639 206,441 75,198 23,676 雑損3,605 43,359 22,057
1926 83,458 30,232 242,206 194,242 47,964 雑損2,911電燈20,549 84,086 72,601
1927 89,162 22,577 227,754 215,307 12,447 雑損1,602電燈土地15,196 137,434 132,238
1928 94,424 26,154 232,880 211,335 21,545 土地家屋電燈36,765 雑損30,447 117,849 91,128
1929 94,125 21,976 228,361 190,157 38,204 雑損7,965電燈自動車12,257 102,913 87,061
1930 87,291 23,765 217,574 164,031 53,543 雑損19,106電燈12,235 88,854 63,976
1931 86,008 20,725 176,242 150,481 25,761 電燈土地建物自動車3,687 雑損580 105,550 64,417
1932 83,063 19,620 198,416 150,076 48,340 土地電燈自動車11,307 雑損56,365 86,438 54,020
1933 125,175 23,706 202,709 156,961 45,748 土地電燈自動車4,706 雑損68,922 45,578 64,901
1934 145,334 19,962 168,528 166,940 1,588 雑損償却金23,577電燈1,051 40,955 65,275
1935 153,616 28,532 203,550 173,811 29,739 雑損償却金48,879電燈9,626 37,235 65,741
1936 177,641 29,519 189,956 176,961 12,995 社債買入差益金26,517
電燈自動車10,510
雑損償却金56,952 24,522 43,294
1937 193,363 28,403 174,084 161,166 12,918 社債償還差益金13,266
電燈電力差益金307,865
土地自動車1,927
雑損償却金289,459
土地自動車1,433
30,012
1939 282,548 45,647 256,321 238,055 18,266 土地自動車11,084 償却金94,759 23,002 96,947
1945 428,488 49,070
1952 414,382 56,839 19,686,433 20,267,213 ▲ 580,780
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計、国有鉄道陸運統計、地方鉄道統計年報各年度版

車両[編集]

1960年の部分廃止時点での在籍車両

電気機関車[編集]

デキ12形 (12, 13, 15-24)
1920年米国ジェフリー社製の電気機関車。東京電燈が発電所建設工事用として使用したものを電化の際に譲り受けた。譲受後、運転室および従輪を設置してL字形に改造し、集電装置をトロリーポールから高く張り上げた独特の形状のパンタグラフに交換した。そのパンタグラフの形状から、「カブトムシ」の愛称で親しまれた。1959年に老朽化により廃車となった14を除き廃線時まで使用された。

このほか、デキ21(初代)を凸形に改造したデキ50形 (50) があったが、1947年に栃尾電鉄(のちの越後交通栃尾線)に譲渡された。

電車[編集]

モハ100形 (101, 102)
1941年日本鉄道自動車製の電車。当初は101-105の5両が製造されたが、105は1947年に、103, 104は1950年にそれぞれ栃尾電鉄に譲渡された。残った101, 102も部分廃止の際に栃尾電鉄に譲渡された。

客車[編集]

ホハ10形 (10-12)
東武鉄道から譲り受けた木造車。1956年に2軸車からボギー車に改造された。部分廃止により廃車となった。
ホハ15形 (15)
1913年日本車輌製の木造ボギー車。鉄道省から譲り受けたもので、湧別軽便線で使用されていた。譲受当初は15-18の4両を譲り受けたが、16は1946年に事故廃車となり、17, 18は1947年に栃尾電鉄に譲渡された。
ホハ21形 (21, 22)
1922年日本車輌製の木造ボギー車。西尾鉄道のホハ12, 13を譲り受けた。部分廃止により廃車となった。
ホハ23形 (23)
1932年日本車輌製の半鋼製ボギー車で、自社発注車である。車内は通路を挟んで一方がボックスシート、他方がロングシートとなっていた。
ホハ30形 (30-33)
1933年から1937年にかけて日本車輌で製造された半鋼製ボギー車で、自社発注車。車内の座席配置はホハ23と同形であった。

このほか、廃止以前には車体上部を全面色ガラス張りとし、車体自体にも派手な塗装を施した「しらかば1号」「あさま2号」などが夏季に運用される展望客車として存在していた[30][31]

貨車[編集]

有蓋車
  • 以下すべて7t積みボギー緩急車
    コワフ30形 (31)
    1923年日本車輌製。当初は30-42まで製造された。
    コワフ100形 (101-104, 106, 107, 110, 113, 114)
    1942年日本鉄道自動車製。当初は100-114が製造されたが6両は1957年に無蓋車ホト110形に改造
無蓋車
  • 4t積み2軸車
    ト1形 (2)
    1915年天野工場製。客車を改造したもので、当初は1-3の3両が存在
    ト20形 (20, 21)
    1915年天野工場製
    ト22形 (22-27)
    1925年日本車輌製。27は有蓋車ワフ7の改造車
    ト28形 (28-30)
    1924年日本車輌製。有蓋車ワフ6, 9, 10の改造車
  • 7t積みボギー車
    チト58形 (58-60)
    1922年雨宮製作所
  • 7t積みボギー緩急車
    ホト100形 (100-109)
    1942年日本鉄道自動車製
    ホト110形 (110-115)
    1942年日本鉄道自動車製。コワフ100形の改造車

車両数の推移[編集]

年度 機関車 電車 客車 貨車
蒸気 電気 有蓋 無蓋
1915-1916 2 4 2 2
1917-1919 4 7 2 12
1920-1921 5 11 2 12
1922 6 11 2 20
1923 9 11 20 20
1924 9 9 11 20 20
1925 9 9 11 28 27
1926 8 9 13 28 25
1927 8 9 4 10 27 25
1928 7 9 14 27 25
1929 6 9 14 27 25
1930-1931 6 9 17 27 25
1932 6 9 18 27 25
1933 2 9 14 26 25
1934 1 9 15 26 25
1935 10 11 22 30
1936 10 11 22 29
1937 11 11 21 30
1946 14 5 11 36 13
1950 13 4 8 34 38
1955 13 2 10 26 32
1959 12 2 10 10 28
1960 3 2 4 2 8
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版、高井薫平『軽便追想』ネコパブリッシング、1997年、212頁

廃線後の状況[編集]

草軽交通・西武高原バスの「旧軽井沢」バス停から北に伸びる「三笠通り」(草軽交通の「一本松」バス停から「三笠パーク入口」までの区間)は、上下線で不自然に段差が有るが、これは草軽電気鉄道の線路が通っていた名残である。また廃線跡には、鉄橋の橋脚、北軽井沢駅舎などが遺構として残っている。

北軽井沢駅舎は2006年9月15日に国の登録有形文化財に登録するよう答申され、2006年11月29日に「旧草軽電鉄北軽井沢駅駅舎」として文化庁より登録有形文化財として登録された[32](認定番号第10-0210号)。

また、多くの区間は道路などとなっているが、廃線後長い時間を経て、自然に還ってしまった区間も少なくない。

保存車両[編集]

デキ13
(旧)軽井沢駅舎記念館
コワフ104
旧草軽電鉄車庫跡(草軽交通本社整備工場敷地内)

このほかに、新潟県長岡市にモハ105が置かれていたが、2002年に解体された。

映画[編集]

草軽電気鉄道が登場する映画はいくつかあるが、カラー映画としては1951年(昭和26年)に公開された『カルメン故郷に帰る』(松竹大船)がある。この映画には列車などの登場場面が多い[27]。主人公のカルメン(高峰秀子)が列車から降り立つ駅は北軽井沢駅である。

その他の作品

脚注[編集]

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  1. ^ なお、草軽交通は2009年9月30日をもって東急グループから離脱した。
  2. ^ 1932年度総株数4万株うち約14千株『株式社債年鑑. 昭和7年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  3. ^ 『時事新報』掲載の1924年3月24日付記事「草津電気鉄道株式会社新株式募集」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  4. ^ (備考)利率7.5分→3分『株式社債年鑑. 昭和11年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  5. ^ 1935年12月11日開通吾妻本線(渋川-真田間)(79Km)、上州草津線(上州大津-上州草津間)(15km)(『鉄道統計資料. 昭和10年度』地図『鉄道停車場一覧. 昭和12年10月1日現在』)昭和15年10月号の時間表によれば渋川-上州草津間58km、所要時間3時間、運賃1円13銭に対して草軽電鉄は55.5km、2時間半から3時間で1円50銭であるが往復割引2円50銭
  6. ^ 『管内電気事業要覧. 第11回』1934年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  7. ^ 草軽直営だったが現在は営業から手を引いて「草津温泉ホテルリゾート」となった
  8. ^ a b 1962年(昭和37年)2月22日運輸省告示第46号「運輸審議会の答申(帝都高速度交通営団の地方鉄道敷設免許申請について等)があつた件」運審第182号「草軽電気鉄道株式会社の上州三原・草津温泉間地方鉄道運輸営業廃止許可申請について」
  9. ^ 事業目的は「製紙及び製紙原料の製造。軽便軌条の敷設、旅客貨物の運輸」群馬県史 資料編24、908頁
  10. ^ 『時事新報』掲載の1912年8月10日付記事「軽鉄の指定と免許 - 草津興業と上越軽鉄」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
  11. ^ 『日本全国諸会社役員録. 第21回』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  12. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年8月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1917年7月28日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「軽便鉄道停車場名改称」『官報』1918年6月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「軽便鉄道停留場設置」『官報』1918年6月22日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「地方鉄道臨時停留場ヲ常設停留場ニ変更」『官報』1919年10月03日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1919年11月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 「地方鉄道停車場名称変更」『官報』1923年7月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  19. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年8月20日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ^ 「地方鉄道運輸開始」『官報』1926年9月27日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  21. ^ a b c d 今尾恵介『日本鉄道旅行地図帳 6号 北信越』新潮社、2008年、p.40
  22. ^ 『草軽電鉄の詩』178頁
  23. ^ 1934年時点北軽井沢草津温泉駅『全国乗合自動車総覧』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  24. ^ 「運輸省審議会公聴会開催公告」『官報』1950年11月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  25. ^ 同年11月26日運輸省告示第527号「運輸審議会の答申(筑豊電気鉄道株式会社延長線開通に伴う旅客運賃制度の認可申請について等)があつた件」運審第120号「草軽電気鉄道株式会社新軽井沢、上州三原間鉄道運輸営業廃止許可申請について」
  26. ^ 同日運輸省告示第259号「運輸審議会件名表に登載された事案の件」
  27. ^ a b 青木、三宅『軽便鉄道』p.101
  28. ^ 青木、三宅『軽便鉄道』p. 103
  29. ^ 青木、三宅『軽便鉄道』p. 100
  30. ^ 高松吉太郎「高原の夏 上田・軽井沢紀行」『レイル』1979年9月号 pp. 7-13
  31. ^ 宮松「くさかるでんてつ」『鉄道ファン』〈特集:軽便礼讃〉1962年4月号(通巻10号)pp. 10-16
  32. ^ 同年12月19日文部科学省告示第147号「文化財を登録有形文化財に登録する件」

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]