上代特殊仮名遣

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上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)とは、上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた表音的仮名遣である。

名称は国語学者橋本進吉論文「上代の文献に存する特殊の仮名遣と当時の語法」に由来する。単に「上代仮名」とも呼ばれる。特に古代日本語8母音説は広く受け入れられ半ば定説となっていたが、昭和50年代に入りこれに異を唱える学説が相次いで登場し、結論は出ていない。詳細は#8母音説への反論を参照。長期に亘り定説とされた8母音説の各方面への影響は大きく、8母音説のみを根拠として否定された学説も多い。

概要[編集]

現代日本語の50音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロの13音について奈良時代以前の上代には甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られ、両者は厳格に区別されていたことがわかっている。ただし、の区別は『古事記』のみに見られる。またエにも2種類の書き分けが見られるが、ア行とヤ行の区別と見られ、上代特殊仮名遣には含めないのが一般的になっている[1]。なお、甲乙の区別は濁音のギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ドにもある。

甲乙の差異については、例えば「き」を表す万葉仮名は支・吉・峡・来・棄などの漢字が甲類の「き」とされ、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」を表す。そして己・紀・記・忌・氣などが乙類の「き」とされ、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」を表す。上代の文献では一部の例外を除いてこのように整然たる仮名の使い分けが見られる。

こうした甲乙の区別は、一々の単語ごとに習慣的に記憶されて使い分けられたものではなく、上代においては何らかの音韻の区別によるという説が立てられた。例えば母音がアウの2音の他にイエオのみ甲乙の2種類に分かれ、8母音であり、上代日本語は50音でなく87音(あるいは88音)あったとする。そして、平安時代以降になってそのような区別が薄れたため、それぞれ統合されていったと考えるのである。ただし、実際の音価については不明な点も多く、また音素として別だったかについても異論がある[2]

上代特殊仮名遣が廃れてから「かな」が発達したため、これを表現する仮名文字は存在しない。そのため、文字上で甲乙の区別をする必要がある時は「甲」「乙」と明記するか、右左の傍線、ローマ字ウムラウトカタカナ化などで対応している。

特殊仮名遣の発見[編集]

本居宣長・石塚龍麿[編集]

上代特殊仮名遣はまず本居宣長によって研究の端緒が開かれた。宣長の著した『古事記』の注釈書、『古事記伝』には、第一巻の「仮字の事」ですでに「同じ音の中でも、言葉に応じてそれぞれに当てる仮字が使い分けられている」ことが指摘されている。ただしその指摘はまだ一部に限られており、この宣長の着想をさらに発展させたのが彼の門弟・石塚龍麿による『仮名遣奥山路』(1798年頃発表)である。これは万葉仮名の使われた『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』について、その用字を調査したものである。この中で石塚は万葉仮名においてはエ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ヌ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・チ・モの15種について用字に使い分けがあると結論づけた。しかし、当時は本文の信憑性に関する批評が盛んでなく、調査に使われたテキストに誤記が含まれていたことや仮名の使い分けが音韻の違いに結びつくという結論付けがなされていなかったこともあり、注目を集めることはなかった。

8母音説[編集]

橋本進吉[編集]

宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが橋本進吉によって再発見され、1917年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学界に評価されるようになった。なお橋本以後の研究では石塚龍麿が指摘したチの使い分けを認めておらず、エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種(および濁音がある場合はその濁音)を古代特有の使い分けと見なしている。この使い分けに橋本は「上代特殊仮名遣」と命名した。なお、「モ」の使い分けは古事記にのみ見られ、これは日本書紀などの後世の史料よりもさらに古い時代の使い分けを残存しているものと考えられている。

「野」は万葉集などでかつては「ぬ」と読まれていたが、これは「奴」「怒」などの万葉仮名が用いられているからである。橋本はこれを「ノ」甲類と位置づけ、「ヌ」に2種あるのではなく「ノ」に2種あるものとした。

また、金田一京助は、甲類を i, e, o と、乙類を ï, ë, ö と表記する音標記号上の書き分けを始めて行い、その後の各種の論考において、ウムラウト(トレマ)は乙種母音を示すラテン文字または音標記号として広く用いられることになる。[3]

有坂秀世と「有坂・池上法則」[編集]

有坂秀世1934年の論文「古代日本語における音節結合の法則」で、上代特殊仮名遣いに関する次のような法則を発表した。

  1. オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない。
  2. ウ列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。特に2音節の結合単位については例外がない。
  3. ア列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。

実際にこの法則が発表されたのは1932年の論文「古事記におけるモの仮名の用法について」であるが、彼がこれに強い確信を持って発表したのは前述の論文である。ほぼ同趣旨の内容をほぼ同時期に池上禎造も発表したため、これは有坂・池上法則と呼ばれる。母音同士が共存しやすいグループを作り、互いに同グループの母音と共存しやすく他グループの母音とは共存しにくいという傾向はトルコ語などアルタイ語族に見られる「母音調和」現象の名残とされ、有坂の法則は日本語がアルタイ語族であることの一つの証左であるとされた。

橋本・有坂らによるこれらの研究により上代特殊仮名遣は国語学における定説となった。当時の学界では古事記が後世に編纂された偽書であると言う説をとる者が少なからずいたが、古事記が他の古史古伝とは違って「上代特殊仮名遣」を有していること、しかも日本書紀編纂の時点では消滅していた古い使い分けであると思われる「モ」の使い分けを残していることが判明し、古事記が偽書ではなく実際に日本書紀より古い書物であることがほぼ確定した。また、いわゆる古史古伝竹内文書などに使用されている神代文字も、「上代には8母音あったはずなのに、なぜか5母音のままで上代の仮名遣いに配慮していない」ということから、そうした仮名遣いの区別がなくなった後世の偽書として否定された[4]。これに関連し橋本は1942年第二次天津教弾圧事件裁判の際検察側の証人として出廷した。

大野晋[編集]

橋本以来進められてきた上代特殊仮名遣に関する古典的通説を完成させたのが、大野晋である[5]。大野は、橋本、有坂等の研究をうけ、上代特殊仮名遣は、そのまま8世紀の上代語の母音音素を示していると解するのが自然である、と理解した。その上で、その万葉仮名の音読みに用いられる漢字の中国語における当時の推定音(中古音)等から、イ乙・エ乙・オ乙の3つの乙種母音の具体的発音は、中舌母音であると推定した。現代の共通語発音を元に分かりやすく例えれば、イ乙は、現代語のイとウの中間的な発音であり、エ乙およびオ乙は、現代語のエとオの中間的な発音である(エ乙はエ寄り、オ乙はオ寄り)と言うのである[6]。エとオの間に、わずかな発音の差しか持たない母音が2つも挟まり、半狭母音の列に4つもの母音が集中するこの体系は、明らかに不安定であり、このことが、平安中期以降、京都方言など日本語の主要方言が、a, e, i, o, uの安定した5母音となる契機であったと大野は説明する。

大野は、さらに考察を進め、日本語の内在変化としての音韻史理論を構築するに至った。8母音のうち、イ乙・エ甲・エ乙・オ甲の4つは、そもそも発現頻度が相対的に少ない、専ら語中に出現する、という特徴がある。更に、複合語などで母音が連続する際に生じていることが多いことから、連続する母音の融合により生じた二次的な母音ではないか、と考えられた。このことから、大野は8母音内部で、次のような母音体系の内的構成を考えた。

  • 上代語以前の日本語の本来的な基本母音は、ア・イ甲・ウ・オ乙(a, i, u, ö)の4つである。
  • 残りのイ乙・エ甲・エ乙・オ甲は、上述4母音の融合によって生まれた二次的母音である。具体的には、「ウ+イ甲」および「オ乙+イ甲」がイ乙(ui,öi→ï)、「イ甲+ア」がエ甲(ia→e)、「ア+イ甲」がエ乙(ai→ë)、「ウ+ア」がオ甲(ua→o)に、それぞれ融合変化して新しい二次母音が生まれた。

この理解をベースに、大野は、日本語における動詞の活用の起源を説明した。四段動詞および変格動詞は語幹末が子音であり、上一段動詞・上二段動詞・下二段動詞は語幹末が基本母音であり、それぞれに語尾が接続する際に、母音が接触して母音融合が起きた[7]結果、上古語にみられるような動詞の活用が発生したと理解すると、動詞活用のかなりの部分が説明可能となるのである。

大野は後に、この「本来的な4母音」が、オーストロネシア祖語において推定される母音体系と類似していることから、日本語の基層にはオーストロネシア語が存在するのではないか、という議論も行っている[8]

8母音説への反論[編集]

松本克己[編集]

古代日本語8母音説は広く受け入れられ半ば定説となっていたが、昭和50年代に入りこれに異を唱える学説が相次いで登場する。その端緒が松本克己の「古代日本語母音組織考 -内的再建の試み-」である。内的再建とは、一つの言語の言語史を他言語との比較からのみ考えるのではなく、その言語内の共時態の研究を通じて求めていこうとするアプローチである。

松本は有坂の音節結合の法則について、「同一結合単位」という概念の曖昧さを指摘した上で甲乙2種の使い分けがある母音だけではなく全ての母音について結合の法則性を追求すべきだとして、1965年の福田良輔の研究をもとに母音を3グループに分けて検証を行なった。その結果、従来甲乙2種の使い分けがあるとされてきたオ段の母音は相補的な分布を示すなどしており、母音の使い分けを行なっていたわけではなく音韻的には同一であったとした[9]。松本はギリシア語での /k/ の表記を引き合いに出し、/k/ について ΚϘ の二種類の文字が使われていたからと言ってそれがギリシア語で2種の子音が意図的に使い分けられていたという事実を示すわけではないことを挙げ、同様に上代特殊仮名遣いについても使い分けがそのまま当時の母音体系を正確に表したものではないことを指摘した。また、イ段やエ段の母音については、甲類と乙類の使い分けは子音の口蓋性/非口蓋性の対立に原因があるとし、上代において母音の使い分けは行われていないとした。その上で松本は日本語の母音の変遷について、

  1. i, a, u の3母音
  2. i, a ~ o, u の4母音 (aとoの母音交替によりoが生じる)
  3. i, e, ï, a, o, u の6母音 (u+iやo+iによりïが、a+iやi+aによりeが生じる)
  4. 現在の5母音

のような変遷を辿ったとし、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったと結論づけた。

森重敏[編集]

松本克己の論文の発表は1975年3月であるが、それと時を同じくして同年9月、森重敏は「上代特殊仮名遣とは何か」を発表し、松本とは別の観点から上代特殊仮名遣の8母音説に異議を唱えた。発表は9月であるがこれが執筆されたのは同年2月であり、「定説」であった8母音説に対する反論がほぼ同じ時期に執筆されたことになる。

まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になった[10]というのが森重説の要旨である。

森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえ、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかった[11]ことなどを傍証として挙げている。

新説を巡る論争[編集]

この時期を同じくした新しい論に対しては多数の反論が展開され、1970年(1975年?)12月から翌年1月にかけては毎日新聞紙上においてこの説を巡って4回にわたって議論が繰り広げられた。中でも激しい論争が繰り広げられたのは『言語』誌上である。1976年の6号の特集「母音調和を探る」には六母音説を主張する服部四郎の「上代日本語の母音体系と母音調和」と松本の「日本語の母音組織」が並んで掲載され、互いの説を批判し合うという体裁が採られた。さらに8月号では大野晋が「上代日本語の母音体系」で両論を紹介し、持論を展開した他、11月号では松本が「万葉仮名のオ列甲乙について」で、12月には服部が「上代日本語の母音音素は六つであって八つではない」で互いに再反論した。

1981年には森博達が「唐代北方音と上代日本語の母音評価」で8母音のうちエ乙を二重母音とする7母音説を発表するとともに、唐代北方音と切韻を利用した具体的音価の推定を試みた。これに対しては『国語学』誌上で平山久雄との間で「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証す」「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」という論争が行われている。

最近は従来の説を根本から覆すような論は発表されていないが、だからといって上代母音についての結論が出たわけではない。上代にはいくつの母音が実際に存在したのか、その具体的な音価は何か、なぜイ段・エ段・オ段の一部のみに使い分けが見られるのかなどについて、今後も様々な分野からのアプローチが待たれている。

[編集]

  1. ^ 安田2007。
  2. ^ 甲乙の書き分けを音韻の違いの反映と見るのは、「オッカムの剃刀」に従っている。その他の説明はより多くの前提を必要とする。
  3. ^ 安田2007。トレマ自体は、当初は特定の傾向の音声(発音)を示す趣旨とは限らなかったようである。
  4. ^ 日本語には清音濁音の区別があるが、仮名はかつてそれらを書き分けなかった。また、現代日本語には /oR//o/長音) と /ou/ の区別がある(「王」と「追う・負う」)が、現代仮名遣いはそれらを書き分けない(ともに「おう」)。音韻的対立が必ず表記に反映されるわけではない。
  5. ^ 以下の記述は、「日本語の成立 日本語の世界1」 中央公論社 1980 および「日本語の起源」 岩波書店 1957による。
  6. ^ 大野説は、エ乙は中舌寄りのエ、オ乙は中舌母音で円唇性を持つ音を推定していたと理解する論考が多い。
  7. ^ 正確にいうと、大野は、母音が接触する際に「融合母音が生じる」「片方が脱落する」「介在子音を挟む」という3つの処理を行って立論している。
  8. ^ 大野自身は「ポリネシア語」と述べている
  9. ^ 甲乙の母音が、音環境のどのような違いに従って排他的に現れるのかは、十分明らかにされていない。
  10. ^ 「ハナィ」「ハィナ」「ハィナィ」が「ハネ」「ヘ(乙)ナ」「ヘ(乙)ネ」として定着しなかった原因は不明。
  11. ^ ヘボン式ローマ字 sh,ch,ts,f が表す [ɕ][tɕ][ts][ɸ] は、/s/,/t/,/t/,/h/ の条件異音で、現れる音環境は明確である(/s/: [s]~[ɕ],/t/: [t]~[tɕ]~[ts],/h/: [h]~[ç]~[ɸ] はそれぞれ相補分布)。他方、「コ」の甲類と乙類が現れる音環境の違いは明らかでない。

参考文献[編集]

  • 大野晋「上代日本語の母音体系について」『言語』5-8, 1975年8月
  • 橋本進吉『国語音韻の変遷』岩波書店
  • 橋本進吉『古代国語の音韻に就いて』岩波書店
  • 服部四郎「上代日本語の母音体系と母音調和」『言語』5-6, 1975年6月
  • 服部四郎「上代日本語の母音音素は六つであって八つではない」『言語』5-12, 1975年12月
  • 平山久雄「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」『国語学』128, 1982年3月
  • 平山久雄「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」『国語学』134, 1983年9月
  • 松本克己「古代日本語母音組織考 -内的再建の試み-」『金沢大学法文学部論集文学編』22, 1975年3月
  • 松本克己「日本語の母音組織」『言語』5-6, 1975年6月
  • 松本克己「万葉仮名のオ列甲乙について」『言語』5-11, 1975年11月
  • 松本克己『古代日本語母音論―上代特殊仮名遣の再解釈』ひつじ研究叢書(言語編 第4巻) ISBN 4938669315
  • 森博達「唐代北方音と上代日本語の母音音価」『同志社外国文学研究』28, 1981年2月
  • 森博達「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証す」『国語学』131, 1982年12月
  • 森重敏「上代特殊仮名遣とは何か」『萬葉』89, 1975年9月
  • Miyake, Marc Hideo (2003). Old Japanese : a phonetic reconstruction. London; New York: RoutledgeCurzon. ISBN 0-415-30575-6. 
  • 安田尚道「上代特殊仮名遣い」『日本語学研究事典』明治書院、2007年

関連項目[編集]