日独関係

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日独関係
ドイツと日本の位置を示した地図

ドイツ

日本

日独関係(にちどくかんけい、ドイツ語: Deutsch-Japanische Beziehungen)では、日本国ドイツ連邦共和国の関係について述べる。17世紀以降、紆余曲折を経て現在のような関係が築かれた。

江戸時代まで[編集]

シーボルト事件を参照

江戸時代の日本は、江戸幕府鎖国政策を行ってオランダ以外の欧米諸国とはあらゆる関係の樹立を拒絶した上、同時期のドイツでは中小国家の分立が続き[1]、18世紀以降にドイツ北東部から強国化したプロイセンイギリスフランス・オランダのようなアジア・極東地域での植民地獲得運動を行っていなかったため、日本と現在のドイツに当たる地域[2]との国交は長年開かれなかった。ただし、レムゴー出身のエンゲルベルト・ケンペルヴュルツブルク出身のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(共に長崎出島オランダ商館の医師)のような、個人としてのドイツ人の来日例は存在した(ただし、幕府にはオランダ人とされた)[3]

1858年日米修好通商条約などが締結されて江戸幕府が開国政策へ転換すると、プロイセンも日本との国交樹立へと動き、1860年フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルク伯爵を派遣して、1861年1月24日日普修好通商条約を成立させた[4][5][6][7]。これは他の欧米諸国との間との条約と同様、日本側に不利な不平等条約であった。1862年12月、プロイセン王国の初代駐日領事としてマックス・フォン・ブラントが着任した。1868年戊辰戦争では、プロイセンは英仏蘭米伊と同様局外中立を宣言したが、新政府に抵抗する奥羽越列藩同盟を支援する姿勢を見せたとされる。しかし、戦局を左右する事態にはならず、戦争終結後も日本とプロイセンとの外交関係は維持された。明治維新後の1871年ドイツ帝国が成立するが、日普修好通商条約はそのまま引き継がれた。

戦前[編集]

在ドイツ日本公使館の印(明治時代初期)

戦前の日本は、政治・経済・文化に至るまで、ドイツを模範とした体制を採り入れた。歴史的な経過から蘭語に近く翻訳しやすい素地があったうえ、プロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国成立)と明治維新はほぼ同じ時期に起きており、西欧近代化の範例として受け入れやすく日本の軍事、法体系、政体、あるいは医学、哲学など民生の多くで影響を受けた。

明治維新から第一次世界大戦前まで[編集]

1873年7月、ドイツの商船ロベルトソン号が航海中に台風に遭い、沖縄県宮古島沖合で座礁した。これを発見した住民は一晩中たいまつの灯で乗組員を勇気づけ、荒れ狂う海に小舟を出して乗組員を救助。その後も1ヶ月あまり手厚く看護し、無事本国へ送り返した。このことに感激したドイツ皇帝ヴィルヘルム1世は1876年、村民の博愛精神を讃えるために宮古島に「博愛記念碑」を建立した。

日本政府近代国家を建設する指針を得るため、1871年から1873年にかけて岩倉使節団を欧米に派遣した。この際、使節団はドイツにも立ち寄った。(この時の様子は『米欧回覧実記』に一部挿絵入りで詳しく記されている[8]。)1873年(明治6年)3月15日にはドイツ首相ビスマルクなどに謁見している。この時、使節団はビスマルクから、当時の国際社会の実態は弱肉強食の原理で成り立っていることを改めて知らされた[9]。この頃の3人のドイツ人が蝦夷北海道)を植民地にするという試案を出しており、初代在日公使マックス・フォン・ブラントはビスマルク宛てに『北海道植民地化計画』に関する意見書を送っている[10]。この出来事は軍事力では当面、西欧諸国に太刀打ちできない以上、日本が欧州列強の植民地化を免れるには西欧世界(国際社会)のルールをよく知り、西欧諸国のように振舞わなければ成らない(中国のように植民地化される隙を見せない様にする)という近代日本の基本的な方針を得る転機となった。

また当時のドイツは、1871年に近代国家が誕生したばかりで日本と状況がよく似ていたこともあり、その軍事法制医学などを始めとする多くの分野において手本とした。伊藤博文大日本帝国憲法の作成にあたってベルリン大学憲法学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学シュタインに師事し、歴史法学を研究している。当時の東京帝國大学ヨーロッパから招聘した教員にはドイツ人が多く、1876年(明治9年)にエルヴィン・フォン・ベルツが来日したのをはじめ、哲学では夏目漱石もその教えを受けて「ケーベル博士」と親しまれたラファエル・フォン・ケーベル化学ではゴットフリート・ヴァグナーなどがいる。また、ドイツの学術を取り入れることを目的とした獨逸学協会学校獨協大学の源流となる)が設立され、ゲオルク・ミヒャエリスが招聘されて法学を教えている。日本陸軍は特に普仏戦争以後はドイツ陸軍をモデルに装備、戦略などの整備を進めた。日本を代表する文豪である森鴎外軍医として陸軍に採用された直後に衛生学やドイツ軍医療体制の研究のためドイツに派遣され、その留学体験をもとに舞姫を執筆した。近代日本医学におけるドイツの影響力は圧倒的で、20世紀後半まで「医師は診療カルテをドイツ語で書く」のが不文律という状況だった。その他でも、日本国内では学術・技術言語としてドイツ語教育が重視され、多くの知識が日本へ流入した。また帝国大学旧制高等学校の学生の間ではドイツの哲学・文学が強く愛好された。旧制高校の寮歌では、多くの学校で歌い出しの合図に「アイン、ツヴァイ、ドライ」(ドイツ語で一、二、三)が用いられたほか、「アルバイト」を初めとして学生生活の用語にもドイツ語が多く流入した。

一方、交流の拡大に伴い、ドイツ側にも日本研究への関心が高まった。1873年には在日ドイツ人の交流組織も兼ねた研究団体としてOAGドイツ東洋文化研究協会(OAG, Deutsche Gesellschaft für Natur- und Völkerkunde Ostasiens)が東京に設立され、1904年には社団法人となった。

ビスマルク時代は比較的落ち着いていた日独関係だったが、1890年にドイツ皇帝へヴィルヘルム2世が即位すると、ドイツは日本への姿勢を硬化させた。日清戦争直後の1895年にはロシアフランスとともに三国干渉を行って遼東半島の日本租借(から)を撤回させ、臥薪嘗胆を唱える日本側の対独感情も悪化した。日露戦争前の時期にはロシアの目を極東に逸らす意図などから皇帝ヴィルヘルム2世黄禍論を唱えている。同戦争に先立つ1902年、ロシアがインドへの南下姿勢を強めるなかで危機感をもったイギリスは日本と日英同盟を結んだ。この際、ヴィルヘルム2世は「白人種への裏切り」として人種問題の観点からイギリスを非難している。

第一次世界大戦[編集]

第一次世界大戦では、日英同盟に基づき、イギリスがドイツ東洋艦隊を撃滅する必要から日本へ連合国側に立っての参戦を要請。当初、日本の軍部は艦隊の外地派遣によって本土の防備が手薄になることを恐れ、参戦には消極的だったが、1914年8月15日、ドイツに対し最後通牒と云うべき勧告を行った。日本軍はドイツの植民地青島ミクロネシアをめぐる日独戦争を展開する。青島陥落後、ドイツ兵は捕虜として日本に連行され、十数か所の収容所に1919年まで捕虜生活をおくった。映画『バルトの楽園』の題材となった板東俘虜収容所(徳島県)をはじめ、習志野俘虜収容所(千葉県)、似島俘虜収容所(広島県)の例は著名。このときドイツ捕虜からドイツ料理、菓子などが日本に紹介された。身近な食べ物としては、ソーセージ習志野で、バウムクーヘン似島で日本ではじめてつくられた。また、ベートーヴェン交響曲第9番の日本での初演は、板東俘虜収容所の捕虜によるものだった。
地中海にも駆逐艦を中心とする第二特務艦隊を派遣し船団護衛などの活動を実施し同盟国から評価された。戦勝後、日本は占領した山東省の旧ドイツ権益を得たほか、南洋諸島地域の委任統治領として譲り受けることとなった。

一方、第一次大戦において日本が東アジア太平洋地域におけるドイツの権益を奪取したという事実とプロイセンドイツ皇帝ヴィルヘルム2世)時代の黄禍論主義思想はその後の対日政策に影響を及ぼし、1937年に勃発した支那事変日中戦争)の際には日本と防共協定を結んでいたにも関わらず、ヒトラー承認済のもと[11]、日本と交戦関係にあった中華民国に対し、秘密裏に在華ドイツ軍事顧問団を派遣し軍事訓練を施したり、武器援助をするなどしていた(中独合作)。日本は日独関係の悪化を憂慮し、鹵獲したドイツ製の武器を「ソ連製または某国製」と偽って公表した。

戦間期[編集]

1936年日独伊防共協定以降、日本ドイツは同盟関係にあったと言うことができる。しかし、その実情は常にすれ違いの様相を呈し、ついに実効的なものとはなり得ず、強いて言えば「反ソ連」の一言であった。両国の同盟関係がはっきりと形を表すのは1936年1937年の防共協定と、1940年日独伊三国同盟締結である。だが、ヴェルサイユ体制でドイツ国内での再軍備が困難だったドイツは、秘密裏に「仮想敵国」であったはずのソ連と結び、水面下で軍事技術の支援や共同での兵器開発をしていた。その後、日本への通知もなく1939年に突如、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を締結する。このことは英米のみならず、防共協定を結んでいた日本に大きな衝撃を与え、日独提携の動きは一時停止した。

しかし1940年になってフランスが敗北するなどドイツ有利の情勢が続くと、再び日独同盟派が勢いを盛り返した。枢密顧問官石井菊次郎は日独同盟に際し「ドイツとの同盟で得をするのはドイツだけである。かつてビスマルクは国際間の同盟関係には騎手ロバが必要であり、ドイツは常に騎手でなければならないと語ったではないか」と言い反対するなど、日本政界にも反対の動きはあったが、外務大臣松岡洋右と陸軍はこれを押さえ込み、同盟締結にこぎつけた。

日独伊三国同盟締結後、日本は独伊と英米との国際対立の場に巻き込まれつつあった。松岡は英米を押さえるため、ソ連を加えた日独ソによる連携を提唱。ドイツに軍事同盟締結の際、ソ連との仲介を取り付けることに成功した。松岡は1941年3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪した際、アドルフ・ヒトラーに約束の実行を要請したが、水面下でバルバロッサ作戦が計画中だったこともあり、拒否される。松岡は帰途中に単独でモスクワに乗り込み、同年4月13日日ソ不可侵条約を結ぶことに成功する。しかし、同年6月22日、突如ドイツ軍がソ連領内に侵攻を開始したことにより、四国同盟は実現しなかった。松岡は同盟に基づくソ連攻撃を主張したが、南進論が高まっていた日本政界では理解が得られず、事実上更迭された。

1941年から始まった日米交渉においては同盟の空文化がアメリカから提案されたが、結局交渉がまとまらなかったため、同盟は継続されることとなった。

同盟関係は共通の利害に基づく強固なものという訳ではなく、むしろ利害が衝突しないことのみを旨とする消極的なものであった。だが、両国とも同盟国共通の利益を尊重するという大局的な視座に立つこともなければ、相手国の利害を顧慮することもなかった。その結果、同盟の趣旨は技術供与や外交協力などにとどまり、実際に第二次世界大戦に突入してからも、両国の共同作戦はごく限られたものであった。

以上のように両国の同盟関係が実効的なものとならなかった理由は、両国の地理的な隔たりのほかに、両国の連合が常にバックボーンを欠いていたことにもある。第一次世界大戦の結果、ドイツは極東を含む海外領土を失っており、アジアでの軍事上の足がかりや重大な利害関係は無く、また日本の欧州におけるそれも同様であった。第二次世界大戦までを通して、日独両国のイデオロギー上の共通性、経済的な運命共同体といったキャッチフレーズがしばしば打ち出されたが、このような空文句をならべてみたところで、バックボーンの不在からくる日独両国の不調和を覆い隠すことはできなかった。

第二次世界大戦[編集]

遣独潜水艦作戦も参照

第二次大戦開始直後は、シベリア鉄道による陸路での日独の人的・物的交流が可能であったが、独ソ戦が開始されると陸路は使えなくなった。その後は潜水艦による小規模な交流が行われたのみである。

日本がドイツとの関係を重視した狙いの一つとして、ドイツが持つ先端的な軍事技術の導入があった。1940-41年に訪独した軍事視察団がウルツブルグレーダーなどの最新兵器に関する情報を求めたが、ナチ政権のドイツは機密として、これを断った(イタリアなど他の同盟国への技術提供も行っていない)[12]。この点は英米の技術連携とは対照的だった。

日本が太平洋戦争に突入した後、最新兵器の資料が提供されるようになったが、その時には交通手段が潜水艦に限られていた。潜水艦では10ヶ月以上という長い時間がかかる上、大戦末期にはイギリス海軍が開発したソナーの登場によって航海上困難を極めた。

戦後[編集]

第二次世界大戦後の日本も、現在に至るまでドイツと親密な関係が続いている。特に西ドイツドイツ連邦共和国)とは冷戦時代にアメリカの主導下で同じ西側諸国に与し、1955年に西ドイツの主権が回復されると同年に日本との国交も回復した。その後も、時には自動車産業(後述)などで両国企業がライバル関係になりながらも、1950年代後半から「高度経済成長」(日本)と「奇跡の復興」(西ドイツ)を共に遂げた日本と西ドイツは政治・経済・文化などの他分野での協力を拡大し、1975年に始まった主要国首脳会議(サミット)[13]ではアジアと西ヨーロッパでそれぞれ最大の経済力を背景に発言力を強めた。戦前、西ベルリン地区に建設された日本大使館は、戦後は西ベルリンが連合国3国の共同管理となっていたこと、西ドイツの首都がボンとなり大使館もボンに置かれたことから使用されないまま放置されていたが、1987年に壁面保存の形で修復の上、ベルリン日独センターとして再利用された(ドイツ統一後、2001年より大使館に復帰)。

一方、ソ連の強い影響下にあり、冷戦では東側諸国となった東ドイツ(ドイツ民主共和国)は西ドイツ政府がその存在を長年否定していたため、日本との外交関係樹立は遅れたが、ようやく1972年東西ドイツ基本条約締結に先立ち日本・東ドイツ間の国交が成立した。東ドイツの首都とされた東ベルリンでは日本の鹿島建設によって1978年に国際貿易センタービルが竣工し[14]、その後も西ドイツよりもずっと小規模ながらも日本企業の進出による貿易関係が維持されて、比較的安定した外交関係が1990年ドイツ再統一による東ドイツ国家の消滅まで続いた[15]

再統一後のドイツも、日独両国は互いに重要なパートナーである。特に技術、経済、医療面での交流は依然として活発で、日本にとってドイツはヨーロッパ地域最大の貿易相手国、ドイツにとっての日本はアジア地域で中華人民共和国に次ぐ貿易相手国となっている。国際連合国際連合安全保障理事会改革では日独両国が常任理事国になる案も有力で、この点でも両国は協力関係にある。

日本における輸入車の販売数上位3つはフォルクスワーゲンメルセデス・ベンツBMWと全てドイツ車が占めている。ドイツでは、トヨタホンダを始めとする日本車(乗用車)の市場シェアは11.6%(2006年)である。

日本では、完成車に対する輸入関税1978年に撤廃されているのに対して、日本車がドイツに輸入される際には10.0%の乗用車輸入関税を課せられるという不公正な状態が続いており[16]、ドイツで販売される日本車の多くはEU域内での現地生産車に限られる。

この他、スポーツ面での交流も続けられ、特にサッカーにおいては西ドイツから日本へ非常に強い影響が与えられた。1964年東京オリンピックに向けた日本代表(男子)の強化策としてコーチに招かれたデットマール・クラマーは日本を同大会でのベスト8へと導き、その指導を受けた釜本邦茂などの主力選手は続く1968年メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した。さらに日本サッカーリーグの創設や育成年代の強化など、クラマーの提言はその後の日本サッカー界の礎となり、「日本サッカーの父」と称えられたクラマーは「日本サッカー殿堂」の第1回表彰者となった。

また、西ドイツ政府により1960年に策定されたスポーツ施設の総合整備計画「ゴールデンプラン」は日本のスポーツ指導者などから羨望され、「地域社会に根ざした総合スポーツクラブの創設」の理念は1991年設立の日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)へ取り込まれた。このJリーグ草創期のスター選手としてジェフ市原に入団し、西ドイツ代表としてのW杯イタリア大会優勝メンバーだったピエール・リトバルスキーは、その後も日本で選手や指導者のキャリアを積んだ。また、リトバルスキーと共にW杯イタリア大会で優勝したギド・ブッフバルトは後に浦和レッドダイヤモンズの選手・監督となった。一方、1977年1.FCケルンへ入団した奥寺康彦以後、ドイツのプロサッカーリーグであるブンデスリーガでプレーする日本人選手も存在し、近年多くの選手が同リーグに渡っている。奥寺と長谷部誠香川真司は同リーグ1部の優勝も経験している。

脚注[編集]

  1. ^ 徳川家光の治世で5度にわたり発令された鎖国令の時期(1633年-1639年)はドイツ(神聖ローマ帝国)で三十年戦争が行われており、ドイツ国家として統一した外交権の行使は不可能だった。
  2. ^ 当時はドイツ人が多く居住し、第二次大戦後にポーランドやソ連などに編入された地域を含む。
  3. ^ オランダ東インド会社の従業員には外国人も多数いた。来日した最初のドイツ人はミヒャエル・ホーエンライターで1614~20年に平戸商館に勤務、カール・ハルツイングは1633年~37年と1641年に勤務、日本人女性との間に子をなし、鎖国により子供は本国に帰っている。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンは、1639年幕府の依頼を受けて臼砲を作成した。
  4. ^ オイレンブルクはプロイセンが主導するドイツ関税同盟の他、ハンザ同盟加盟都市・メクレンブルク=シュヴェリーン大公国・メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国の各全権も委任されていたが、江戸幕府はその領邦数の多さに困惑し、結局は日本とプロイセンの二国間条約となった。なお、日本側全権で外国奉行堀利煕が交渉中に自刃し、後任の村垣範正が条約に調印した。
  5. ^ 日独交流150年サイト内「歴史」 文・スヴェン・サーラ [1]
  6. ^ プロイセン海軍は設立されたばかりであり、日本への遠征自体が冒険であった。実際、4隻の艦隊の内、1隻は伊豆沖で沈没している
  7. ^ 交渉の通訳はハリスの通訳であったヘンリー・ヒュースケンが務めたが、調印の直前に暗殺されている。
  8. ^ 久米邦武 編『米欧回覧実記・3』田中 彰 校注、岩波書店(岩波文庫)1996年
  9. ^ 「現在世界の各国は皆、礼儀をもって相交わっているようにみえるが、それはまったくの建前のこと。裏では強弱あい凌ぎ大小相侮るというのが実情だ。大国は自分に利益があれば国際的な取り決めを守るものの、自国に不利と見れば軍事力にものをいわせるのだ」という日本に対する脅しとも忠告とも取れる発言をした-「特命全権大使・米欧回覧実記」(提供:国際日本文化研究センター)
  10. ^ プラントは兼ねてより「北海道は十数隻の艦隊と5千人の上陸兵で占領出きる」と主張していた-A .H.バウマン「19世紀における北海道植民地化計画-3人のドイツ人の試案に関する比較研究-」日本独学史学会論集「日独文化交流史研究(2004)」
  11. ^ 「日本との協調関係は維持する。しかし武器などの中国への輸出も偽装できる限り続ける」NHKスペシャル 日中戦争~なぜ戦争は拡大したのか~(2006年8月13日放送より
  12. ^ NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー「軍事同盟 国家の戦略」(2009年6月28日放送より)]
  13. ^ 会議開催地は各参加国の輪番制で、(西)ドイツ開催の翌年が日本開催になっている。
  14. ^ 月報KAJIMAダイジェスト 2000 March(2000年3月号)「シリーズ100年をつくる会社(12)」 [2]
  15. ^ 1989年に起きた一連の東ドイツの民主化政策が始まる前、同年2月に東京で行われた昭和天皇の葬儀である大喪の礼に際しては、東ドイツは名目的な国家のナンバー2であるマンフレート・ゲルラッハ国家評議会副議長を派遣した(西ドイツはリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領が参列)。
  16. ^ JAMA -JAMAGAZINE-

参考文献[編集]

  • Peter Pantzer und Sven Saaler: Japanische Impressionen eines Kaiserlichen Gesandten. Karl von Eisendecher im Japan der Meiji-Zeit / 明治初期の日本 - ドイツ外交官アイゼンデッヒャー公使の写真帖より (独語・日本語). München: Iudicium, 2007 (450 S., mit zahlreichen Photographien und anderen Bildquellen).
  • 堀内健介監修『日本外交史 21 日独伊同盟・日ソ中立条約』鹿島研究所出版会、1971年。
  • 三宅正樹「日独関係の歴史的展開とソ連」『日本の社会文化史<7>』講談社、1974年。
  • Sommer, Theo:Deutschland und Japan zwischen den Mächten 1935-1940. Tübingen 1962 (JCB Mohr).
  • Christian W. Spang, Rolf-Harald Wippich (eds.): Japanese-German Relations, 1895-1945. War, Diplomacy and Public Opinion. London/New York 2006 (Routledge).

関連項目[編集]

外部リンク[編集]