ハンス=ヨアヒム・デア

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ハンス=ヨアヒム・デア
Hans-Joachim Daerr
生誕 1943年12月22日
ナチス・ドイツの旗 ドイツ国プロイセン州ニーダーシュレージエン県フランケンシュタイン
(現:ポーランドの旗 ポーランド
ドルヌィ・シロンスク県ゾンプコヴィツェ・シロンスキェ)
国籍 ドイツの旗 ドイツ
出身校 テュービンゲン大学ボン大学ベルリン大学
職業 官僚外交官
活動期間 1970年外務省に入省
肩書き 駐日ドイツ大使
任期 2006年 - 2010年
前任者 ヘンリク・シュミーゲロー
後任者 フォルカー・シュタンツェル
配偶者 アン=アレクサ・デア(妻)[1][2]
子供 二人
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ハンス=ヨアヒム・デア(Hans-Joachim Daerr, 1943年12月22日 - )は、ドイツ出身の官僚外交官

来歴[編集]

ハンス=ヨアヒム・デアは、1943年12月22日に旧ドイツ領シレジア地域のフランケンシュタイン(現、ポーランド共和国南西部に位置するドルヌィ・シロンスク県ゾンプコヴィツェ・シロンスキェ英語版)にて生まれる。1962年から1964年までドイツ連邦海軍での服務経験を経たのちに[3]テュービンゲン大学ボン大学ベルリン大学の各大学で法学を専攻し、テュービンゲン大学では日本学も専攻した[4]

1970年外務省に入省し、翌年の1971年まで欧州諸共同体(EC)西ドイツ政府代表部にて、1995年に政務局長代理を兼務する形で部長として第20部[注 1]にて勤務する。また、2001年から翌2002年まで連邦政府軍縮軍備管理問題特命担当とアフガニスタン問題担当大使として軍縮軍備管理担当局にて、さらに、2002年から2006年までの四年間を局長として地球規模問題・国連・人権・人道支援担当局にて職務を果たしてきた[4]

在外ドイツ大使館勤務はナイジェリア[注 2]パキスタン[注 3]日本など3カ国にわたる。特に日本においては、1973年から1976年までの三年を在大阪・神戸総領事館にて、1979年から1983年と2006年から2010年までの8年を在東京ドイツ大使館で、三度の赴任と11年にわたる駐日在外ドイツ公館勤務を務果たした[4]2006年7月1日ヘンリク・シュミーゲローに代わり駐日本ドイツ連邦共和国特命全権大使に任命され、同年7月26日皇居にて信任状を捧呈した[5]。2010年8月、フォルカー・シュタンツェルに大使の役職を引き継ぎ、離任。

家族[編集]

  • 既婚者。妻、アン=アレクサ・デアとのあいだに、二人の男の子をもうけた。子どもらはともに神戸市生まれ。長男はパリ大学の物理学研究者、次男は外交官[6]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 北大西洋条約機構(NATO)西欧同盟(WEU)欧州安全保障協力機構(OSCE)共通外交・安全保障政策(CFSP)、北米担当
  2. ^ 1988年から1991年まで。在アブジャドイツ大使館公使として駐箚。
  3. ^ 1988年から1991年まで。在イスラマバードドイツ大使館全権大使として駐箚。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • ハンス=ヨアヒム・デア (2008年4月). “INTERVIEW ハンス=ヨアヒム・デア駐日ドイツ連邦共和国大使 35年間の外交から見た日本再考”. IDEE excellent Germany もっと知りたいドイツ (株式会社 シルバーストーンJP) 第1号: 3-5頁. ISBN 978-4-87738-333-6. 
  • ハンス=ヨアヒム・デア (2009年4月22日). “ハンス=ヨアヒム・デア駐日ドイツ連邦共和国大使 再生可能エネルギーの技術は、先進国と発展途上国との共有が必要”. IDEE excellent Germany もっと知りたいドイツ (株式会社 シルバーストーンJP) 第2号: 3-5頁. ISBN 978-4-87738-364-0. 
  • ハンス=ヨアヒム・デア (2008年3月5日). “前サミット議長国から日本へのメッセージ ハンス=ヨアヒム・デア(駐日ドイツ連邦共和国大使)”. 環境会議 (事業構想大学院大学) 2008年 (春(第29号)): 116-221. 

外部リンク[編集]

外交職
先代
ヘンリク・シュミーゲロー
ドイツの旗 駐日ドイツ大使
2006年7月1日 - 2010年
次代
フォルカー・シュタンツェル