日本とベトナムの関係

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日本とベトナムの関係
日本とベトナムの位置を示した地図

日本

ベトナム

日本とベトナムの関係では、日本ベトナムとの関係、およびその歴史等について概説する。日越関係とも呼ぶ。

両国の比較[編集]

ベトナムの旗 ベトナム 日本の旗 日本
人口 9038万8000人 1億2779万9000人
面積 33万1210 km² 37万7914 km2
人口密度 272人/km² 337人/km2
首都 ハノイ 東京
最大都市 ホーチミン - 739万6446人 東京 – 1321万6221人
政府 単一国家社会主義国一党制 単一国家議会内閣制立憲君主制
公用語 ベトナム語 日本語 (事実上)
主な宗教 民族宗教45.3%、仏教16.4%、キリスト教8.7%、無宗教29.6% 神道83.9%、仏教71.4%、キリスト教2%、その他0.6%
民族 ベトナムの民族一覧を参照。 日本人98.5%、韓国人0.5%、中国人0.4%、その他0.6%
GDP (名目) 1376億8100万ドル (1人当たり1,523米ドル) 5兆9840億ドル (1人当たり46,895米ドル)
軍事費 24億8700万米ドル (2011年度) 545億2900万米ドル (2011年度) [1]

歴史[編集]

遣唐使による接触[編集]

西暦734年遣唐使判官・平群広成が帰国の途上、難破して崑崙国に漂流し抑留された。フエ付近に都があったチャンパ王国と考えられる。広成はその後、中国に脱出し、渤海経由で帰国している。

753年には遣唐使藤原清河阿倍仲麻呂が帰国の途上、同じく漂流し、当時中国領だった安南ヴィン付近に漂着した。東シナ海から南シナ海に南下する海流の関係でこのような漂流ルートが存在したとされる。これが縁で阿倍仲麻呂は761年から767年まで鎮南都護・安南節度使としてハノイの安南都護府に在任した。

陶磁器の伝播[編集]

日本の九州にある古い遺跡で、1330年という年代の刻印があるベトナムの陶磁器の断片が見つかった。中国ジャワの商人が交易を通じて日本に持ち込んだのかもしれないが、その断片がどのようにしてそこにたどりついたのかは分かっていない[2]

16世紀から17世紀にかけて[編集]

朱印船交易[編集]

ベトナムのアナムに向け、長崎を出発する江戸時代の日本の朱印船。
ホイアンの日本橋。鎖国前、交易のあった頃に日本人によって作られたと言われ[3]、今でも現地の人に大切に使われている。提灯にフェホォと書いてあるが、これは当時のこの町の呼称である。世界遺産

16世紀初めには、日本とベトナムの接触は交易という形をとった[4]

シャムタイ)やマレーシアなどとともに、日本の朱印船はベトナムの港を頻繁に出入りした。ベトナムの記録によれば、17世紀初頭、阮潢によってホイアンの港が開かれたとき、既に何百人もの日本の商人がそこを住処としていた。[2]

日本の商人は皆、青銅などをベトナム人が持っていた砂糖香辛料ビャクダンなどと交換して持ち帰り、莫大な利益をあげた。商人の流入を調整するため、日本町と呼ばれる日本人のための居留地がホイアンに設けられた。[2]

両国は良好な友好関係を楽しんだ。[2] 将軍徳川家康は阮氏と交友関係を結び、書簡や贈物の交換をした。彼の息子阮福源は娘の阮福玉姱を日本の商人荒木宗太郎に嫁がせた。[2]日本の商人はしばしば寄付を行い、良い待遇を受けた。[2]多くの移住者が新たな環境に同化していった。

日本人によって建てられたホイアンの来遠橋。

日本が鎖国の時代に入っても、現地の永住者またはオランダの商人を介して交易は続けられた。しかし、1685年、江戸幕府は銀山や銅山の過剰な採掘に気付き、交易の制限が導入された。これらの金属類の重要性の増大により、ほとんどの南アジアと同様、日本とベトナムの交易の勢いは弱まった。[2]

20世紀[編集]

1905年には、ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)が反仏独立の支援を求めて来日した。

日本軍の仏印進駐[編集]

1940年9月22日、日本は北部仏印に進駐し、東南アジアの連合国を攻撃するための軍事基地の建設を始めた。日本軍は連合国に降伏した1945年まで、ベトナムにとどまった。

1944年には、凶作による飢饉に加え、米軍の空襲による南北間輸送途絶や、フランス・インドシナ植民地政府及び日本軍による食糧徴発などが重なり北部(トンキン)を中心に200万人以上(諸説あり)が餓死したとされる。

1945年3月11日保大(バオ・ダイ)帝が日本の援助下でベトナム帝国の独立を宣言した。

第二次世界大戦後[編集]

第一次インドシナ戦 争[編集]

戦後、フランスが再び進駐してくると、仏軍とベトナム民主共和国軍の間で戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、仏越両軍に日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵が留まっており、1954年ジュネーヴ協定成立までに47人が戦病死した。中には、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。ジュネーヴ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。

南ベトナムとの国交樹立と戦争賠償[編集]

1951年に日本政府はベトナム国南ベトナム)と平和条約を締結し、1959年5月13日には岸信介政権(第2次岸内閣)がベトナム共和国政府と140億4000万円の戦争賠償支払いで合意した。

ベトナム戦争から北ベトナムとの国交樹立[編集]

ベトナム戦争が勃発した1960年代から1970年代にかけて、日本は一貫して出来るだけ早い戦争の終結を促した。戦争が終息すると間もなく、ベトナム民主共和国(北ベトナム)政府との間で契約が交わされ、1973年9月、国交を樹立することで合意に至った。 しかしながら、北ベトナムが日本に要求し、「経済協力」という形がとられることになった2年間で4500万ドル相当の賠償金の支払いの履行は遅れた。ベトナムの要求に応え、日本は賠償金を支払い、南北ベトナムの統一によるベトナム社会主義共和国の誕生後の1975年10月11日、ハノイに大使館を設置した。1975年、ベトナムはカンボジアの共産主義者によるクメール・ルージュ政権を承認し、両国は1976年8月に国交を樹立した。

1980年代[編集]

一方、83社の日本企業からなる日越貿易会の主導による日本とベトナムの貿易額は、1986年に2億8500万ドルに達した。日本政府の関係者は貿易を支援するためハノイを訪れたが、ベトナムは貿易のさらなる成長を抑制していた膨大な公的及び民間の債務を返還することができなかった。日本からベトナムへの輸出は、化学、機械、輸送機器が中心だった。一方、ベトナムから日本への輸出は水産物や石炭が主だった。

1980年代の終わり、ベトナムは国際的に孤立していた。東側諸国からの援助が漸減し、カンボジアとの戦争を続けていたが、国内では大規模な経済問題を抱え、1989年、ハノイはカンボジアからすべてではないが、ほとんどの軍を撤退させた。それは先進国に対して経済協力や貿易、援助における門戸を開放することをアピールするためだった。日本の企業はベトナムやカンボジアに対する投資や貿易に興味を抱いていたが、日本政府はカンボジアの問題が解決するまでこれらの国々との経済協力には依然として反対していた。この立場は当時のアメリカの方針と基本的に一致していた。日本はカンボジア問題が包括的に解決されれば、カンボジアに対して財政支援する用意ができており、要求があれば、国連の基金への援助やその他国際平和維持活動などの求めに応じることを非公式ながら保証した。日本はそれらの約束を実行に移した。

1990年代[編集]

カンボジア問題国際パリ会議が大詰めを迎えた1991年10月23日、カンボジアとインドネシアフランスとともに議長国を務めた)、国連安保理常任理事国と日本は国交を樹立し、カンボジアとベトナムに対する経済制裁は解除された。

1992年11月、東京はベトナムに3億700万ドルの援助を打診した。日本はまた、カンボジアにおける平和維持活動で主導的役割を果たした。国際連合カンボジア暫定統治機構の特別代表に就任した日本の明石康国連事務次長は、日本が300万ドルを拠出することを約束し、平和維持活動に直接従事する自衛隊の隊員を含め、およそ2000人の職員を派遣した。平和維持活動では犠牲者も出したが、自衛隊はカンボジアの人々が選挙を行い、政府を組織することができるまでとどまり続けた。

1995年、ベトナムはASEANに加盟し、1997年には中国と日本、韓国を加えたASEAN+3が組織された。これらの国々は東南アジアにおける経済と安全保障の枠組みを共有した。

現代[編集]

日越両国の関係は「緩やかな同盟関係」と評されている。ファン・ヴァン・カイ前首相は親日・知日家で知られており、また、日本政府や経団連も積極的に経済援助を行っている。グエン・タン・ズン首相は親中派で日本に対する関心が低いと一部報道で伝えられており、今後の両国の関係を懸念する向きもあるが、2007年(平成19年)11月にはグエン・ミン・チェット国家主席国賓として初めて日本に招かれ、今上天皇皇后との懇談[5]や、日本経団連との会合をおこなった。

皇太子徳仁親王2008年(平成20年)9月20日に日越国交35周年の記念イベントである「ベトナムフェスティバル2008」の開会式に臨席し[6]、翌2009年(平成21年)2月には、ハノイダナンホイアンホーチミンとベトナム各地を縦断して訪問し、今上天皇が皇太子時代の1976年(昭和51年)に南部のカントー川支流で新種のハゼが見つかったことを明らかにした学術論文をハノイ自然科学大学に寄贈した[7]。また、「日メコン交流年2009」ではベトナムの宮廷舞踊や民俗舞踊を観覧している[8]

ODAは日本が最大の支援国であり、日本のODAによってタンソンニャット国際空港カントー橋、ハイヴァントンネルなどベトナムの基幹インフラを建設・支援をしている。

2002年にJICAプロジェクトとしてベトナム日本人材協力センター(VJCC)が開設され、2008年には国際交流基金のベトナム日本文化交流センターが開設された。

2007年には前年の2006年は8億3560万ドルだったのと比較して6.5%増の8億9000万ドルの援助が新たに約束された。ベトナムと日本は中国によるレアアースの供給独占に対抗するため、研究のための拠点を開設した。これらの素材はコンピューターやテレビ、タービンなど数多くの現在の科学技術にとって欠かせないものである。2010年、日本とベトナムは鉱山の開発で協力することで合意し、文書に署名した。ベトナムはレアアースの埋蔵量で世界で10位以内にあると推測されている。現在、両国は共同でレアアースの採掘から分離、日本への輸送に至るまでの過程に関する研究拠点を開設している。2011年の日本からのODAは17億6000万ドルに達し、第2位の韓国の4億1200万ドルの4倍以上であった。[9]さらに、2012年の日本によるベトナムへの援助は19億ドルに増額された。[10]

日本の法整備支援[編集]

また、ソフト面でのインフラストラクチャーともいうべき法律分野でも、日本の法整備支援が大きな役割を果たしている。ベトナムは、1986年のドイモイ以後、市場経済システムへの移行のため、市場経済に適合した法制度の整備が重要な課題の1つとなったが、ここに1994年以来日本の法整備支援が関与している。その結果ベトナムは、改正民法民事訴訟法、民事判決執行法といった法律を次々と成立させるなど、法制度の整備に大きな前進を見せてきた[11][12]。この分野でのベトナムの日本に対する評価は高く、2007年3月28日には、ベトナムに約3年常駐したJICA長期専門家が、ベトナム司法大臣から、「司法事業記念賞」を授与されている[13]

南北高速鉄道計画[編集]

2007年(平成19年)2月27日にはベトナムを南北に縦貫する高速鉄道の建設に向けて両国間で共同委員会が設けられた。委員会には日本から国際協力機構 (JICA)、国際協力銀行 (JBIC)、日本貿易振興機構 (JETRO) が、ベトナムからは計画投資省、運輸省、ベトナム国鉄が参加した。

2010年(平成22年)5月には、前原誠司国土交通大臣がベトナム政府へ「日本の新幹線方式」の売り込みをした。ベトナム政府は承認したものの、ベトナムの国会では総投資額540億ドルという「巨額」がネックとなり、6月19日のベトナム国会にてこれらの政府案は否決された。ベトナム政府は議会の説得の為、もう一度国会に諮る方針である。

原子力発電所計画[編集]

2000年代に入り原子力発電所の建設計画が具体化。各国が売り込みを行う中、ニントゥアン第一原子力発電所がロシアにより、ニントゥアン第二原子力発電所が日本により建設される見通しとなった。

2010年10月31日に菅首相(当時)とグエン・タン・ズン ベトナム首相との首脳会談がハノイで行われ日本をパートナーとすることを表明、[14]2011年10月31日には野田首相がズン首相と官邸で会談し、計画通り実施することを再確認した。[15] 同日にベトナムでは日本原子力発電により原子力発電導入可能性調査(FS)が開始されたと報道された。[16]

ベトナムと「ホンダ」[編集]

かつてベトナム国内では本田技研工業スーパーカブやドリームをよく見かけた。これは1970年代以降のベトナムにおいて、この種のビジネスバイクを普及させる端緒ともなった存在で、扱いやすさや燃費、修理のしやすさや経済性のみならず、本田技研工業の想定範囲や先進国の安全常識では到底考えられない異常な酷使、過積載[17]にも耐える高い信頼性によって、オートバイを生活の道具として重要視するベトナムのユーザーから強い支持を得たからである。現在でもホンダの二輪車は多くの消費者の支持を得ている。

ベトナムでのホンダの知名度・ブランド力は90年代中頃まで圧倒的であり、オートバイが(一般名詞として)「ホンダ」と呼ばれていたこともあった[18]。その後はヤマハやスズキなどもベトナム国内に類似デザイン・類似設計の後発競合車種(ヤマハ発動機メイトスズキバーディーなど)を投入したが、90年代末以降は中国製の廉価なバイクが一時期市場でシェアを大きく伸ばした。

日本語教育[編集]

1943年にサイゴンで日本語が教えられていたとの記録がある。

2003年に国際交流基金の「ベトナム中等学校における日本語教育試行プロジェクト」が始まる。2006年の国際交流基金日本語教育機関調査ではベトナム全土の日本語学習者数は29,982人となった。(2003年比1.7倍)

2007年 ハノイ日本語教師会が発足。発起人は中野英之。

2009年5月現在、ベトナムから日本への留学生数は3,199人で、前年比11.3%増、国別では第4位。2009年12月の日本語能力試験受験者数は15,455人で前年比12%増。

脚注[編集]

  1. ^ The SIPRI Military Expenditure Database
  2. ^ a b c d e f g Japan early trade coin and the commercial trade between Vietnam and Japan in the 17th century. Luc, Thuan. Retrieved on May 08, 2009.
  3. ^ [1]
  4. ^ Owen, Norman G., Chandler, David The emergence of modern Southeast Asia (p. 107). University of Hawaii Press, 2005. ISBN 0824828410,
  5. ^ “ベトナム大統領夫妻を歓迎 宮中晩餐会”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2007年11月26日). http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/071126/imp0711262139002-n1.htm 2010年4月12日閲覧。 
  6. ^ “【皇室ウイークリー】(47)雅子さま、絵画展をご鑑賞 承子さまは早大ご入学”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2008年9月27日). http://sankei.jp.msn.com/photos/culture/imperial/080927/imp0809270809000-p9.htm 2010年4月22日閲覧。 
  7. ^ “天皇陛下の新種ハゼ論文、ベトナムに寄贈”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009年3月26日). http://sankei.jp.msn.com/world/asia/090306/asi0903061942001-n1.htm 2010年4月12日閲覧。 
  8. ^ “皇太子さまが「メコン舞踊」をご覧に”. MSN産経ニュース (産経新聞社). (2009年12月10日). http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/091210/imp0912101955001-n1.htm 2010年4月12日閲覧。 
  9. ^ http://english.vietnamnet.vn/en/politics/2502/int-l-donors-pledge--7-9-billion-for-vietnam-next-year.html
  10. ^ http://www.gbs.com.vn/index.php/en/faq/business-registration/741-japan-commits-jpy1485bln-oda-for-vietnam-in-2012
  11. ^ ベトナム法整備支援(法務省法務総合研究所国際協力部)
  12. ^ 「特集 法整備支援の課題」法律時報時報2010年1月号(日本評論社)
  13. ^ http://www.moj.go.jp/housouken/houso_advertisement1.html
  14. ^ 2010年11月1日「ベトナムの原子力発電所建設協力で合意」 サイエンスポータル編集ニュース 科学技術 全て伝えます サイエンスポータル / SciencePortal
  15. ^ 経団連東南アジア視察団 ベトナム原発計画推進 輸出再開の「試金石」(MSN 産経ニュース 2012.3.5 21:02)
  16. ^ 日本原子力発電、ニントゥアン原発第2サイトのFSを開始 - [VIETJO ベトナムニュース]
  17. ^ 「100kg 単位」での重貨物搭載や、子供まで含めての3人乗り、4人乗りといった曲乗り状態も珍しくない
  18. ^ 例えばヤマハのオートバイを「ヤマハのホンダ……」といった使われ方がされたこともある。

 この記事にはアメリカ合衆国政府の著作物である米国議会図書館各国研究ウェブサイトもしくは文書本文を含む。.

外部リンク[編集]