元興寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
元興寺(極楽坊)
Gangoji02st3200.jpg
極楽坊本堂(国宝)
所在地 奈良県奈良市中院町11
位置 北緯34度40分40.09秒
東経135度49分52.88秒
座標: 北緯34度40分40.09秒 東経135度49分52.88秒
宗派 真言律宗
本尊 智光曼荼羅(重要文化財)
創建年 推古天皇元年(593年
開基 蘇我馬子
札所等 西国薬師四十九霊場五番
文化財 本堂、禅室、五重小塔(国宝)
東門、着色智光曼荼羅図ほか(重要文化財)
世界遺産
テンプレートを表示

元興寺(がんごうじ)は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院蘇我馬子飛鳥に建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗る寺院は次の2つに分かれている。

(1) 奈良市中院町所在の元興寺。1977年までは「元興寺極楽坊」と称していた。西大寺の末寺で、宗派は真言律宗に属する。本尊は智光曼荼羅である。

(2) 奈良市芝新屋町所在の元興寺。東大寺の末寺で、宗派は華厳宗に属する。本尊は十一面観音である。

奈良市中院町の元興寺は「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産にも登録されている。上記2つの元興寺は、もともと同じ寺院の一部であるので、本項ではまとめて述べることとする。

また、かつての元興寺を起源とする寺院は他に奈良市西新屋町に所在する真言律宗の小塔院がある。ここは現在は奈良市中院町所在の元興寺内の収蔵庫内に現存する国宝の五重小塔を安置する堂が存在した場所として1965年に国指定の史跡・「元興寺小塔院跡」に指定されている。現在は江戸時代に建立された虚空蔵堂があるだけである。

歴史[編集]

日本最古、飛鳥時代の瓦(極楽坊禅室・本堂)

現在、「史跡元興寺」として指定されている地域は(1)奈良市中院町の「元興寺極楽坊」、(2)同市芝新屋町の「元興寺(塔跡)」(3)同市西新屋町の「元興寺小塔院跡」の3か所である。これらはいずれも、蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛鳥寺)の後身である。

和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であるとの意である。

奈良時代の元興寺は三論宗法相宗の道場として栄え、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた。寺域は南北4町(約440メートル)、東西2町(約220メートル)と南北に細長く、興福寺の南にある猿沢池の南方、今日「奈良町(ならまち)」と通称される地区の大部分が元は元興寺の境内であった。猿沢池南東側にある交番のあたりが旧境内の北東端、奈良市音声館(奈良市鳴川町)のあたりが旧境内の南西端にあたる。

奈良においては東大寺、興福寺が勢力を増す一方で、元興寺は律令制度が崩壊する10~11世紀以降徐々に衰退していった。 長元8年(1035年)の「堂舎損色検録帳」という史料によると、金堂をはじめとする元興寺の伽藍は、この頃には荒れ果てて見る影もなかったという。この頃、元興寺の別当が修理のために、玄象(絃上)と並ぶ名物とされた寺宝の琵琶「元興寺」を後朱雀天皇に売却したという話が「江談抄」(巻三、六十および六十一)「古今著聞集」(巻十二偸盗篇 第十九)に見え、寺の維持のために寺宝の琵琶を手放さなければならなかった元興寺の窮状を伝えている。なお寛元四年(1246年)の記録では、この頃までに五重塔の四、五重目と相輪が失われ、南大門、鐘楼が大破していたという。

元興寺には奈良時代の学僧・智光が描かせた阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)があったが、平安末期の末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛とともにこの曼荼羅が信仰を集めるようになった。曼荼羅を祀る堂は「極楽坊」と呼ばれて、次第に元興寺本体とは別の寺院として発展するようになった。これが現在、奈良市中院町にある元興寺、通称元興寺極楽坊である。現存する元興寺極楽坊の本堂と禅室は、奈良時代に智光をはじめとする僧たちが住んでいた僧房を鎌倉時代に改築したものである。

このほか当時の元興寺では、中門に安置されていた二天像(持国天増長天)とその眷属である夜叉像八体、同じく中門に安置され、中門観音と呼ばれていた十一面観音像が多くの信仰を集めていた。

このうち二天像と夜叉像については9世紀前半頃に元興寺の僧であった義昭がまとめた「日本感霊録」や「今昔物語集」(巻十八第五十話)などの仏教説話集に霊験あらたかな像として喧伝されており、後に運慶神護寺中門の二天像造立の際にこの元興寺中門二天像を摸刻している(『神護寺略記』)。 なお、運慶は教王護国寺の中門再建の際にも元興寺二天像を模刻しているが(『東宝記』)、この像は文明18年(1486年)の土一揆で焼失した。

また中門観音は長谷寺の観音像と同じ木で造ったと伝えられ、長谷寺に参詣する者はまずこの中門観音に詣でるべきことが鎌倉時代初めに成立した「建久御巡礼記」(『當麻寺』の項参照)「護国寺本諸寺縁起集」などに見え、実際に、時期はさかのぼるが天禄二年(971年)、正暦元年(990年)にそれぞれ長谷寺参詣を行った藤原道綱母藤原実資らがその途次、元興寺に参詣して灯明などを献じたことがそれぞれ「蜻蛉日記」(132段)、「小右記」(正暦元年九月七日条)に見える。

二天像は応仁元年(1467年)に落雷のため失われたが、この頃すでに元興寺観音堂に移されていた中門観音は難を逃れ、元興寺観音堂の後身である元興寺(奈良市芝新屋町)の本尊として現在でも祀られている。

室町時代の宝徳3年(1451年)、土一揆のあおりで元興寺は炎上し、五重塔などはかろうじて残ったが、金堂など主要堂宇や智光曼荼羅の原本は焼けてしまった。この頃を境に、寺は智光曼荼羅を祀る「極楽院」、五重塔を中心とする「元興寺観音堂」、それに「小塔院」の3つの寺院に分裂した。極楽院は奈良西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり、中世以降は智光曼荼羅、弘法大師、聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた。

一方、極楽院の南にある「元興寺観音堂」の方は東大寺の末寺となり、五重塔を中心とする寺院であったが、室町時代の火災に焼け残った創建遺構の五重塔と観音堂は、江戸時代末期の安政6年(1859年)に近隣火災の類焼で焼失し、以後は「元興寺」の寺号は継ぐものの衰退している。

極楽院は明治以降は荒れ果て、現在国宝に指定されている本堂も1950年ころまでは床は落ち、屋根は破れて「化け物が出る」と言われたほどの荒れ方であった。第二次世界大戦中の1943年に極楽院の住職となった辻村泰圓は戦災孤児のための社会福祉事業に尽力するかたわら、境内の整備や建物の修理を進めた。1962年には辻村により境内に財団法人元興寺仏教民俗資料研究所が設立され(1978年に元興寺文化財研究所と改称)、1965年には寺宝を収蔵展示する収蔵庫が完成するなど、徐々に整備が進んだ。元興寺仏教民俗資料研究所は、本堂解体修理中に屋根裏から発見された数万点の庶民信仰資料(板塔婆など)を研究することを当初の目的として設立された。極楽院は1955年に「元興寺極楽坊」と改称、さらに1977年に「元興寺」と改称されている。2010年8月禅室の一部に使用されている木材が世界最古の現役木製建築部材であることが確認された。

伽藍[編集]

本堂(国宝)
本堂の北側屋根。蓮華紋の鐙瓦に行基葺の男瓦。
禅室(国宝)
東門(重要文化財)

奈良時代の元興寺伽藍は、南大門、中門、金堂(本尊は弥勒仏)、講堂、鐘堂、食堂(じきどう)が南北に一直線に並び、中門左右から伸びた回廊が金堂を囲み、講堂の左右に達していた。回廊の外側、東には五重塔を中心とする東塔院、西には小塔院があった(小塔院には、小型の塔が屋内に安置されていたものと思われる)。これらの建物はすべて焼失して現存しない。なお、講堂の背後左右には、数棟ずつの僧房(僧の居住する建物)があった。これは、東西に長い長屋のような建物で、このうち東側手前にあった僧房を鎌倉時代に改造したものが、現存する本堂と禅室である。

元興寺(奈良市中院町)[編集]

  • 本堂(国宝) - 極楽坊本堂または極楽堂とも。寄棟造、瓦葺で、東を正面として建つ(東を正面とするのは阿弥陀堂建築の特色)。この建物は寄棟造の妻側(屋根の形が台形でなく三角形に見える側)を正面とする点、正面柱間を偶数の6間とし、中央に柱が来ている点が珍しい(仏教の堂塔は正面柱間を3間、5間などの奇数とし、正面中央に柱が来ないようにするのが普通)。内部は板敷きの内陣の周囲を畳敷きの外陣がぐるりと囲んでおり、内陣の周囲を念仏を唱えながら歩き回る「行道」に適した構造になっている。鎌倉時代の寛元2年(1244年)、旧僧房の東端部分を改造したもので、内陣周囲の太い角柱や天井板材には奈良時代の部材が再用されている。また、屋根の一部にも飛鳥~奈良時代の古瓦が使用されている。ここに使われている古瓦は上部が細くすぼまり、下部が幅広い独特の形をしており、この瓦を重ねる葺き方を行基葺(ぎょうきぶき)という。
  • 禅室(国宝) - 切妻造、瓦葺。本堂の西に軒を接して建つ。元は現・本堂も含んで東西に長いひと続きの僧房であったものを鎌倉時代に改築したものである。正面の4箇所に板扉があることからわかるように、現存部分は4区画分で、1区画には5-8人の僧が生活していたという。本堂と同様、部材や屋根瓦の一部には奈良時代のものが残っている。なお、2000年の元興寺文化財研究所の発表によれば、禅室の部材を年輪年代測定法で調査したところ、西暦582年伐採の樹木が使用されているとのことで、事実とすれば、本建物の一部には法隆寺西院伽藍よりも古い材木が使用されていることになる。
  • 東門(重要文化財) - 東大寺の門を移築したもの。室町時代。
史跡元興寺五重塔跡

元興寺(奈良市芝新屋町)[編集]

  • 五重塔跡 - 奈良時代から残る創建遺構で、寺伝によると一辺9.65メートル総高は72.7メートルで、東寺五重塔より大きいと伝えられる超大型塔があったが、1859年安政6)に、観音堂などとともに焼失。現在まで再建されていない。なお、総高は実際には50メートル程度であったとされる[要出典]
    • 現在、かたわらに1935年頃再建された小堂が建つのみで、それより古い建物は残っていない。

文化財[編集]

元興寺(奈良市中院町)[編集]

五重小塔

国宝

  • 本堂
  • 禅室
  • 五重小塔 - 収蔵庫に安置。奈良時代。高さ5.5メートルほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築様式を伝える資料として貴重である。かつては「小塔院」の建物内に安置されていたと伝えられる。一貫して屋内にあったため傷みが少ない。

重要文化財

  • 東門
  • 著色智光曼荼羅図(板絵)
  • 木造阿弥陀如来坐像
  • 木造弘法大師坐像
  • 木造聖徳太子立像 善春作 

元興寺(奈良市芝新屋町)[編集]

木造薬師如来立像

国宝

重要文化財

  • 木造十一面観音立像 - 奈良国立博物館に寄託。
  • 元興寺塔址土壇出土品 玉類銅銭等一括 - 奈良国立博物館に寄託。 

参考文献[編集]

  • 井上靖、塚本善隆監修、野口武彦、辻村泰範著『古寺巡礼奈良6 元興寺』、淡交社、1979
  • 『元興寺ほか』 <週刊朝日百科・日本の国宝58号>朝日新聞社、1998
  • 『元興寺・元興寺極楽坊・般若寺十輪院』 <大和の古寺3>岩波書店 新版2009
  • 岩城隆利 『元興寺の歴史』 吉川弘文館 1999
    • 岩城編 『元興寺編年史料 増補』 上中下巻 吉川弘文館 1983
  • 『元興寺文化財研究所創立40周年記念論文集』 クバプロ  2007
  • 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
  • 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
  • 国史大辞典』、吉川弘文館

関連項目[編集]

外部リンク[編集]