漢委奴国王印
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漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)は、日本で出土した純金製の王印(金印)である。読みは印文「漢委奴國王」の解釈に依るため、他の説もある。また漢倭奴国王印とも書く。
天明4年2月23日(1784年4月12日)、筑前国糟屋郡志賀島村(現福岡県福岡市東区志賀島)南端・叶崎の「叶ノ浜」で出土。福岡藩主黒田家所蔵だったが、1978年(昭和53年)に福岡市に寄贈され、福岡市博物館で展示されている。1931年(昭和6年)12月14日に国宝に指定されている。
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[編集] 外形
1931年12月14日、金印が国宝に指定されたため帝室博物館員入田整三が金印を測定し、「総高七分四厘、鈕高四分二厘、印台方七分六厘、重量二八.九八六六匁」の結果を得ている[1]。
1953年5月20日、戦後初めて金印の測定が岡崎長章によって試みられた。「質量108.7グラム、体積6cc[2]、比重約8.1」貴金属合金の割合を銀三分、銅七分を常とする伝統的事実からして22.4K[3]と算定した[4]。
印は印面一辺2.347cm、鈕(ちゅう、「つまみ」)を除く高さ0.8cm、総高2.236cm、重さ108.729gで、鈕は蛇鈕である。
陰刻印章(文字が白く出る逆さ彫り)。
[編集] 印文と解釈
3行に分けて篆書で「漢〈改行〉委奴〈改行〉國王」と刻されている。
「委」は「倭」の減筆、つまり「委国」は「倭国」と解釈され「漢の倭(委)の奴(な)の国王」と訓じるのが通説である。一方、「委」には「まかせる」の意味があり、「倭」の減筆か疑問視する声もあり、
- 「漢の倭(委)の奴(な)の国王」説 - 落合直澄、三宅米吉[5]など[6]
- 委奴を「いと・ゐど(伊都国)」と読み、「漢の委奴(いと・ゐど)の国王」と訓じる説 - 藤貞幹、上田秋成、久米雅雄、柳田康雄など
という論がある。
倭と奴の発音は
であり[7]、漢代の漢字音(上古音)では奴をド、トとは読めないというのが定説である。 上古北方漢音(漢代の方言)が存在したとして、奴を「ど」と読む久米雅雄説[8]もあるが少数説である。
古田武彦は、「漢」の「倭奴国」の「王」と読み、漢の家臣である倭奴国王(倭国王)の印綬とするが、学術論文として提示された説ではなく、研究者による検討、批判の対象とはされていない。
[編集] 中国史との比定
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
– 強調引用者
という記述があり、後漢の光武帝が建武中元2年(57年)に奴国からの朝賀使へ(冊封のしるしとして)賜った印がこれに相当するとされる。
中国漢代の制度では、冊封された周辺諸国のうちで王号を持つ者に対しては、諸侯王が授けられるよりも一段低い金の印が授けられた(詳しくは印綬の項を参照)。
1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」の金印が出土した。それは58年に光武帝の第9子で広陵王であった劉荊に下賜されたものであり、字体が漢委奴国王印と似通っていることなどから、2つの金印は同じ工房で作られた可能性が高い。これが真実だとすれば偽造説は完全に否定される。
[編集] 発見とその後
発見したのは甚兵衛という地元の百姓である。ただし近年の研究では発見者は秀治・喜平という百姓で、甚兵衛はそのことを那珂郡奉行に提出した人物という説も有力である。
田の耕作中に偶然発見したとされる。一巨石の下に三石周囲して匣(はこ)の形をした中に存したという。郡奉行から福岡藩へと渡り、儒学者亀井南冥[9]によって『後漢書』に記された金印であると同定された。
その後は黒田家に伝えられ、1978年に福岡市に寄贈され、現在は福岡市博物館に保管・展示されている。
金印の出土地および発見の状態については、中山平次郎の努力によるところが多い。中山は、現地の踏査、黒田藩の古記録および各種の資料の照会を行い、その出土地点を現在の志賀島東南部とした。推定地点には1923年(大正12年)3月、武谷水城撰による記念碑が建立された。しかし、1958年と1959年の2回にわたり、森貞次郎、乙部重隆、渡辺正気らによって志賀島全土の考古学的調査が行われた。その結果、金印出土地点は、中山の推定地点よりも、北方の叶ノ浜が適しているとの疑問が提出された[10]。
[編集] 偽造説と反論
形式・発見の経緯に不自然な点があるとして、近世に偽造された偽物であるとの説もある。
印綬の形式が漢の礼制に合わないとして、私印説・偽造説もある(西嶋定生、宮崎市定、三浦佑之など)[11]。
それに対し、高倉洋彰は漢代の印制にない蛇鈕の金印を偽造するのは不自然とする。
また、安本美典は偽物に「倭」ではなく「委」を使用するのは不自然とする。また同一工房で同時期に「広陵王璽」と「漢倭奴国王」の金印が、製作されたとして
- 辺長が、後漢時代の一寸に合っている。
- 鈕にある魚子鏨(ななこたがね)の文様は、同一の鏨(たがね)によって打ち出されている。
- 文字は、Ц型とV型の箱彫りに近い形で彫られ、字体もよく似ている。
を指摘している[12]。
[編集] 脚注
- ^ 入田整三「国宝漢委奴国王金印の寸法と量目」『考古学雑誌』1933年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ 200ccメートルグラスに金印を入れ、増水量を三度はかった平均値
- ^ 金と銀だけなら22.5K
- ^ 岡部長章「奴国王金印問題評論」『鈴木俊教授還暦記念東洋史論叢』1964年、岡崎敬『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ 「漢委奴国王印考」『史学雑誌』、1892年
- ^ 三宅米吉は、「奴」は儺津(なのつ)・那珂川の「ナ」で、倭の奴国を現在の那珂川を中心とする福岡地方に比定した。
- ^ 藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社
- ^ 久米雅雄著『日本印章史の研究』、雄山閣、2004年
- ^ 金印が発見された同年に『金印辨』を著している。それによると『後漢書』東夷伝の光武帝中元2年(57年)の記事をあげて、光武帝によって授けられた金印と断定した。
- ^ 岡崎敬「漢委奴国王」金印の測定 『魏志倭人伝の考古学 九州編』所収
- ^ 志賀島「金印」に偽造説再燃 地元の反応は複雑、asahi.com、2007年3月3日
- ^ 第267回活動記録、邪馬台国の会、2008年3月30日
[編集] 参考文献
- 岡崎敬著・春成秀爾編『魏志倭人伝の考古学 九州編』、第一書房、2003年、ISBN 4-8042-0751-1


