穴穂部間人皇女
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穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ、生年不詳 - 推古天皇29年12月21日(622年2月6日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇女。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母兄に穴穂部皇子。異母兄・用明天皇の皇后となり厩戸皇子(聖徳太子)、来目皇子、殖栗皇子、茨田皇子を生む。用明天皇崩御後、用明天皇の第一皇子・田目皇子(多米王 聖徳太子の異母兄)に嫁し佐富女王を生む。(『聖徳太子平氏伝雑勘文』 上ノ三 上宮太子御子孫竝后等事条 所引にある『上宮記』逸文に「多米王 父ハ用明 母ハ蘇我女也 父天皇崩後 娶庶母間人孔部王生兒 佐富女王 一也」とある)穴太部間人王、孔部間人公王、間人穴太部王、鬼前太后とも。なお、間人(はしひと)の名を持つ皇女は他に舒明天皇皇女(孝徳天皇皇后)としてもう一人おり、こちらは単に間人皇女(はしひとのひめみこ)と呼ばれている。
用明天皇の皇后であった時に、厩の戸口で厩戸皇子(聖徳太子)を出産したという『日本書紀』の逸話は有名だが、これは中国に伝来したキリスト教の異端派である「景教」(ネストリウス派)がもたらした新約聖書の福音書にあるキリストの降誕を元にしたとの説があるなど、史実かどうか疑われている。実際厩戸は地名に由来するとの説もある。
京都府京丹後市(旧丹後町)にある「間人(たいざ)」という地名は、穴穂部間人皇女に因むものと伝えられている。穴穂部間人皇女は蘇我氏と物部氏との争乱を避けて 丹後に身を寄せ、都に戻る際に自分の名を贈ったが、人々は「皇后の御名をそのままお呼びするのは恐れ多い」として、皇后が(その地を)退座した事に因み「たいざ」と読むことにしたという。ただし、記紀などに穴穂部間人皇女が丹後に避難したとの記述はない。
[編集] 系譜
- 伯母:蘇我堅塩媛
- 伯父:蘇我馬子
- 夫:用明天皇・田目皇子
- 子女:聖徳太子(厩戸皇子)・来目皇子・殖栗皇子・茨田皇子・佐富女王
- 孫:山背大兄王・財王・日置王・片岡女王・白髪部王・手島女王・長谷王・三枝王・伊止志古王・麻呂古王・春米女王・久波太女王・波止利女王・馬屋古女王

