橘澄清

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橘澄清
時代 平安時代前期
生誕 貞観元年(859年
死没 延長3年5月6日925年5月30日
官位 従三位中納言
主君 宇多天皇醍醐天皇
氏族 橘氏
父母 父:橘良基
兄弟 澄清、在公、藤原保蔭室、源唱
忠正、巌子
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橘 澄清(たちばな の すみきよ)は、平安時代前期の公卿信濃守橘良基の五男。橘氏是定官位従三位中納言

経歴[編集]

寛平2年(890年文章生に補せられる。寛平6年(894年渤海使・裴頲が伯耆国に到来すると伯耆権掾に任ぜられ、存問渤海客使・三統理平とともに使節の対応に当たっている。蔵人兵部少丞を経て、宇多朝末の寛平9年(897年従五位下伊予介に叙任された。

醍醐朝前半は、讃岐権介播磨介・伊予守・太宰大弐と専ら地方官を歴任する一方で、延喜2年(902年)従五位上、延喜6年(906年正五位下、延喜9年(909年従四位下と順調に昇進した。

延喜11年(911年)左中弁として京官に復すと、翌延喜12年(912年)右大弁に昇任し、延喜13年(913年参議兼左大弁に任ぜられ公卿に列した。議政官として左右大弁を兼ね、延喜14年(914年)に従四位上に昇進している。延喜21年(921年)正月には正四位下、次いで従三位中納言と続けて昇進した。この間、『延喜式』『延喜交替式』の編纂にも参画している。

延長3年(925年)5月6日薨去享年67。最終官位は中納言従三位。

京都市伏見区にある道澄寺は、清澄が甥の藤原道明(良基の外孫)と共に創建したと伝えられている。

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

娘・巌子が藤原中正と結婚し、その所生である時姫藤原兼家(後の摂政)と結婚してその子孫が摂関家を継いだことから、10世紀後期に橘氏の公卿が途絶えると、摂関家が是定の地位を占める口実とされた(藤原道隆道長ら兄弟は澄清の曾孫にあたるため)。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本紀略』『公卿補任』による。『尊卑分脈』は同年9月3日とする。
  2. ^ 『公卿補任』
  3. ^ 『系図纂要』
  4. ^ 大日本史 卷之一百十五』:攝津守藤原中正妻,澄清女也,生女,侍攝政兼家,生大納言道隆。以故,詔道隆為是定。【公事根源。】自後橘氏叙爵,皆屬藤原氏。【職原抄、公事根源。】
  5. ^ 前田本『日本帝皇系図』(赤坂[2017: 18])

参考文献[編集]

  • 関口力「橘澄清」(『平安時代史事典』(角川書店、1994年) ISBN 978-4-04-031700-7
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 赤坂恒明「前田本『日本帝皇系図』について」『埼玉学園大学紀要人間学部篇 第17号』埼玉学園大学、2017年