蟠竜丸

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蟠竜丸
BanryuuMaru.jpg
蟠竜丸(1868年)
艦歴
艦種 木造スクーナー型コルベット
起工 グリーン造船所
(イギリス ブラックウォール)
就役 1856年
主な所属 江戸幕府
最後の軍役 箱館湾海戦
除籍 1888年
その後 1897年に解体
性能諸元
排水量 370t
全長 42.2m
全幅 6.4m
機関 スクーナー型3本マスト帆走
60馬力蒸気内車
最大速度 7.7ノット
乗員 定員58名
士官2名・見習士官12名・水夫44名
兵装 備砲6門
12斤滑腔砲4門・6斤施条砲2門
明治初期に大幅に改修
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朝陽丸を撃沈する蟠竜丸
(箱館湾海戦)

蟠竜丸(ばんりゅうまる)は、幕末期、江戸幕府が所有していた軍艦のひとつ。また、日本海軍初期の軍艦。もとはイギリスの王室ヨットでビクトリア女王から江戸幕府に贈呈された。木造スクーナー型蒸気船。長さ23間(約41.8m)、幅3間(約5.45m)、深さ1丈7尺(約3.23m)、排水量370トン。蟠龍蟠竜艦。後、雷電

概要[編集]

安政5年(1858年)7月4日、日英修好通商条約に調印するために来日した英国使節エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースにより、ヴィクトリア女王の名において将軍に寄贈された。バランスのとれた美しい姿で、進水当時アメリカの新聞にイラスト入りで紹介されている。小型でスマートな快速遊覧船ながら構造が頑丈で、幕府はこの船を砲艦として使うべく幕府海軍に組み入れた。
ロイヤル・ヨット(王室の遊船)であるため内装は目を見張るほど絢爛豪華で、階段・手すりには彫刻が施され、壁一面を埋める鏡も設置されていた。鏡と気づかずぶつかった幕府役人もいたことが記録されているが、この鏡は箱館戦争の松前攻略の際、砲台からの砲撃で壊された。じゅうぶんな手入れができなかったために箱館戦争の頃には、内装外装ともに美観が損なわれていたという記録があるが、他の艦船がまだ稚拙な操艦によってしばしば座礁や接触などのトラブルを記録している中、蟠竜丸にはそういう記録がない。

慶応4年(1868年)4月11日の江戸城無血開城にあたって新政府軍への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁・榎本武揚が天候不良などを理由にこれを延期し、最終的には拒否。
徳川慶喜駿府に移送する乗艦として使用したのち、8月19日深夜(20日)には松岡磐吉を艦長として開陽丸回天丸神速丸咸臨丸などとともに品川沖を脱出した。その際台風に巻き込まれて沈没寸前になったが、1ヶ月をかけて榎本海軍と合流を果たし、蝦夷地に渡り、箱館戦争においては榎本(箱館政府)海軍の主力艦となった。
寄贈した英国がEmperor(寄贈当時、日本のトップは帝ではなく将軍であると認識されていたので、将軍を指す)と命名していることからわかるように、将軍用遊覧ヨットとしての寄贈だったと思われるが、世情がそれを許さず軍艦に組み入れられ、実際に将軍(大政奉還後ではあるが)が座乗したのが駿府へ移送される時だったというのは皮肉である。

明治2年(1869年)3月25日の宮古湾海戦では、暴風雨に遭い、僚艦とはぐれた時に落ち合う約束だった鮫港(八戸)で待機したため参戦には至らなかった。この暴風雨の際も「艦長松岡磐吉は操船の名手で、ロープ1本損なわれなかった」と、乗っていた林董が書き残している。
この帰路、新政府軍の甲鉄艦の追撃を受け、速力差(機関力の差)で逃げ切れないと観念し、一艦で接舷攻撃を挑もうと戦闘準備をするが、甲鉄艦の射程に入ったあたりで絶好の順風が吹き始め、帆走で追撃を振り切って箱館に戻った。

同年5月11日の箱館総攻撃(箱館湾海戦)では弁天台場や、機関故障のため走れず浮き砲台となった回天丸に援護されながら、一艦で新政府軍艦隊に応戦。新政府軍艦朝陽丸の火薬庫に炸裂弾を命中させ、朝陽丸は大爆発を起こして2分で轟沈。旧幕府軍の士気を一気に向上させた。
その後蟠竜丸は新政府軍の集中砲火を浴びた。これに応戦し続けたが、午後になり弾薬が完全に尽きたためやむなく退艦を決め、弁天台場下まで退いて浅瀬に乗り上げさせた。乗組員は機関を破壊後(艦長松岡磐吉が「のちに用いることもあろう」と放火を禁じたため、自焼はしていない)、弁天台場付近へ上陸、敵中を横断して台場に入った。同日、新政府軍の手で蟠竜丸は放火されたが、火災は帆柱を炎上させるのみで船体には殆ど引火せずそのうち帆柱が折れ、バランスを崩して横転し、鎮火した。

その後、イギリス人により船体が引き揚げられ、上海で修理される。この際、帆柱の数が3本から2本に変わり、甲板上に大きな船室が作られるなど船体上部がほぼ新造される大規模な改修を受け、姿は大きく変わって往年の優美さは失われた。明治6年(1873年)に開拓使が購入し、「雷電丸」と名を改める。
明治10年(1877年)、日本海軍の軍艦となって「雷電(艦)」と改名し、横須賀に配備された。澤太郎左衛門の息子澤鑑之丞も練習艦として乗り組み、一度石垣に衝突したが、石垣が壊れて艦は無事だったと、その堅牢さを語っている。
明治27年(1894年)発行の大日本帝国軍艦帖によると、この時の要目は、排水量370トン、垂線間長41.472m、幅6.960m、吃水2.896mであったという。
明治21年(1888年)1月28日に廃艦となり[1]高知県に無償で払い下げされて捕鯨船となる。その後さらに愛知の汽船会社に買い取られて商船となり、明治30年(1897年)、大阪の木津川造船所で解体された。解体時、木村芥舟がその木片を貰い受け、「蟠龍」と書いて飾った。

艦長[編集]

幕府海軍/箱館政府海軍
日本海軍

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 佐藤鎮雄 少佐:1883年3月2日 - 1884年1月21日
  • 原田元信 少佐:1884年2月8日 - 2月21日
  • 五藤国幹 少佐:1884年2月21日 -

脚注[編集]

  1. ^ 明治21年海軍省告示第1号(『官報』第1372号、明治21年1月28日)

参考文献[編集]

  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 官報
  • 林董『後は昔の記』
  • 『同方會誌』
  • 『舊幕府』
  • 澤鑑之丞『海軍七十年史』
  • 足立栗園『日本海上發展史并ニ日本海軍之發展』
  • 竹内運平『箱館海戦史話』

関連項目[編集]