浅田信興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
浅田 信興
Nobuoki Asada.jpg
生誕 1851年11月5日
武蔵国
死没 1927年4月27日(満75歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1872 - 1921
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

浅田 信興(あさだ のぶおき、嘉永4年10月12日1851年11月5日) - 1927年(昭和2年)4月27日)は、日本の陸軍軍人華族陸軍大将従二位勲一等功二級男爵

経歴[編集]

武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。江川英龍に師事し砲術を学ぶ。明治3年12月(1871年)、陸軍兵学寮生徒となる。明治5年(1872年)3月、陸軍少尉に任官し歩兵5番大隊付となる。1877年(明治10年)、第4旅団に編入し西南戦争に出征。1878年(明治11年)10月、陸軍士官学校教官となり、熊本鎮台参謀などを経て、1884年(明治17年)3月、陸軍少佐に進級し歩兵第2連隊大隊長に就任。

1885年(明治18年)5月、陸軍教導団歩兵大隊長となり、参謀本部陸軍部第2局第2課長、参謀本部第2局員を経て、1888年(明治21年)6月から9月まで清国に派遣された。1889年(明治22年)5月、歩兵第21連隊第1大隊長となり、1891年(明治24年)6月、陸軍中佐に昇進し第3師団参謀となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長を歴任し、1894年(明治27年)11月、陸軍大佐に進級した。

日清戦争には臨時第7師団参謀長として動員されたが、戦争終結のため現地に赴くことはなく復員した。1896年(明治29年)5月、第7師団が編成され初代参謀長に就任。東部都督部参謀長を経て、1897年(明治30年)9月、陸軍少将に昇進。1898年(明治31年)10月、歩兵第20旅団長に就任し、歩兵第5旅団長を経て、日露戦争近衛歩兵第1旅団長として出征。1904年(明治37年)9月、陸軍中将に進級し近衛師団長に親補され、沙河会戦以降の緒戦に従軍した。

1906年(明治39年)7月6日に久留米第12師団長に転じる。1907年(明治40年)9月、日露戦争の功績により男爵を授けられ華族に列せられる。1910年(明治43年)8月26日に大阪第4師団長となり、1911年(明治44年)9月に教育総監に就任(~1914年)。1912年(大正元年)8月、陸軍大将に親任される。最終官職は軍事参議官東京衛戍総督1921年(大正10年)4月に退役し、1927年(昭和2年)に77歳で死去。

1918年(大正7年)から1923年(大正12年)、大日本武徳会第7代会長。

栄典[編集]

親族[編集]

参考文献[編集]

  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
先代:
大島久直
教育総監
第6代:1911 - 1914
次代:
上原勇作