第二丁卯
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| 艦歴 | |
|---|---|
| 建造所 | (イギリス・ロンドン) |
| 起工 | |
| 進水 | 慶応2年(1866年) |
| 竣工 | 慶応3年(1867年) |
| 就役 | 慶応4年5月(1868年6月から7月)長州藩が購入 明治3年4月9日(1870年5月9日)献納 |
| 喪失 | 1885年4月3日 |
| 除籍 | |
| 要目[1] | |
| 排水量 | 236トン |
| 全長 | 長さ:36.58m |
| 全幅 | 幅:6.40m |
| 吃水 | 2.29m |
| 機関 | 横置直道式レシプロ1基 60馬力(IHP) |
| 速力 | 5ノット |
| 航続距離 | |
| 燃料 | |
| 乗員 | |
| 兵装 | 5.9インチ砲1門 5.5インチ後装砲1門[2] |
第二丁卯(だいにていぼう)は日本海軍の軍艦。元は長州藩の発注した三檣スクーナー型木造汽船。
「丁卯」は十干十二支のひとつで、幕末では慶応3年(1867年)に当たる。この年にイギリスで建造された長州藩の軍艦が後の「第一丁卯」と「第二丁卯」となる。同一年の建造のため第一と第二を付加して区別した。
目次 |
[編集] 艦歴
建造時の仮称は「アソンタ(Assunta)」と称し、イギリス・ロンドンで建造、慶応4年5月(1868年6月から7月)長州藩が購入、「第二丁卯丸」と命名された。
明治3年4月9日(1870年5月9日)に政府に献納、同年5月8日(1870年6月6日)に品川沖で受領した。これにより兵部省所管となり「第二丁卯艦」と改名された。また翌明治4年11月15日(1871年12月26日)に六等艦と定められた。明治5年2月(1872年3月前後)から翌年1月まで測量任務に従事している。
1875年(明治8年)の江華島事件発生の際には、「雲揚」や「春日」などと共に釜山沖に派遣されていた。江華島での直接の交戦には参加していない。
1877年(明治10年)に勃発した西南戦争では下関の警備に従事、また日奈久攻略に参加した。
明治天皇の福岡行幸の護衛艦として神戸港に回航中、1885年(明治18年)4月3日に三重県安乗崎で座礁、破壊された。
[編集] 参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史 第7巻』(第一法規出版、1995年)
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
- 元綱数道『幕末の蒸気船物語』(成山堂書店、2004年) ISBN 4-425-30251-6
[編集] 脚注
- ^ 要目は『幕末の蒸気船物語』による。排水量125トンとする資料もあるが、船体寸法に対して明らかに小さいとしている。『日本海軍史』によると排水量125トン、長さ39.4m、幅6.6m、吃水2.4m、60馬力、速力8.0ノット。
- ^ 『幕末の蒸気船物語』による。『日本海軍史 第7巻』『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると8門。
