木越安綱

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木越 安綱
きごし やすつな
生年月日 1854年4月22日
嘉永7年3月25日
出生地 日本の旗 日本加賀国金沢
(現:石川県金沢市
没年月日 (1932-03-26) 1932年3月26日(77歳没)
出身校 陸軍士官学校卒業
前職 第1師団団長
所属政党 公正会
称号 陸軍中将
従二位
勲一等旭日大綬章
功二級金鵄勲章
男爵
配偶者 木越美津(先妻)
木越てい(後妻)
子女 木越専八(長男)
木越二郎(次男)
高木正順(七男)
親族 坊城俊政(義父)
柳田直平(義父)
村上啓作(娘婿)
柳田國男(義弟)

日本の旗 第10代 陸軍大臣
内閣 第3次桂内閣
第1次山本内閣
在任期間 1912年12月21日 - 1913年6月24日
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木越 安綱(きごし やすつな、1854年4月22日嘉永7年3月25日) - 1932年昭和7年)3月26日)は、日本武士加賀藩士)、陸軍軍人政治家幼名三次郎

陸士旧1期。最終階級は陸軍中将栄典従二位勲一等功二級男爵

帝国陸軍におけるドイツ化の功労者。西南戦争日清戦争日露戦争に従軍し、軍功により男爵に叙爵される。

軍閥の系列的には長州閥とされ、序列的には山縣有朋桂太郎寺内正毅に次ぐ4番目に位置づけられるまでに至る。

山本権兵衛第1次山本内閣陸軍大臣として、軍部大臣現役武官制改正に陸軍の反対を押し切り同意する。これにより予備役でも陸・海軍大臣に就任できるようになった。

生涯[編集]

嘉永7年(1854年)4月22日、加賀藩士砲術師範、加藤忠直の二男として生まれる。同藩奉行職・木越安敷の養子となる。

陸軍教導団を経て、1875年陸軍士官学校(旧1期)に入る。士官学校在学中の明治10年(1877年)に任官し、西南戦争に出征する。1883年ドイツに留学し、晩年のモルトケのもと最盛期を迎えていたドイツ参謀本部を目の当たりにする。帰国後はフランス式であった日本の陸軍をドイツ式にあらためる。

日清戦争では第3師団参謀として第3師団長・桂太郎のもとで活躍、朝鮮半島から鴨緑江を渡河し清国領内へと進撃していった。このとき、直属上官であった桂太郎から絶大な信頼を受け、それをきっかけにして長州閥の寵児として出世していく。 

明治27年末に大佐に昇進し、明治30年に軍務局軍事課長に就した。翌31年に陸軍少将に昇進するとともに、台湾補給廠長に任命され、さらに台湾総督府陸軍幕僚参謀長となる。明治33年には、軍務局長となり、内地に戻る。翌34年には歩兵第23旅団長に就任する。

日露戦争では韓国臨時派遣隊司令官として真っ先に出征した。歩兵第23旅団を率いて佐世保を出航、仁川港に上陸して鉄道で京城に向かい、韓国駐箚隊を指揮下に入れる。朝鮮半島確保後、黒木為楨大将の第1軍の尖兵として鴨緑江渡河作戦に従事、第1軍最右翼から渡河してロシア軍の退路を攻撃、多大な損害を与えた。その後、自身の旅団に、騎兵砲兵工兵の各1個中隊を加えて木越支隊を編成、師団前衛として遼陽に進撃、ケルレル中将の東部支隊を撃退する。8月30日に始まった遼陽会戦では五頂山を攻め、後続の岡崎生三少将の饅頭山攻めに独断で1個連隊を派遣し支援、その占領をなさしめる。そして、10月13日に陸軍中将に昇進、第5師団長として黒溝台会戦に参加し、第8師団立見尚文中将)を全滅から救った。さらに、グリッペンベルク大将の大軍を破り、これによりロシア軍の冬季総攻撃の出鼻を挫き、奉天会戦の勝利に貢献した。

1907年9月21日、西南・日清・日露の各役の軍功により男爵を授爵。

1913年1月、第1次山本内閣の陸軍大臣に就任。第一次護憲運動をうけた軍部大臣現役武官制改正案に陸軍は猛反対したものの、最終的に木越が陸軍の意向に逆らう形で、閣僚として改正に同意する。6月13日、予備役でも軍部大臣に就任できるように改正され、6月24日に至って辞任。

この改正以後、陸軍の意向に逆らった木越は冷遇された。陸軍大将に昇進することなく、定年前に予備役に編入される。

大正9年(1920年)5月15日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し[1]、没するまで貴族院議員を務めた[2]

昭和7年(1932年)に死去。享年79。墓所は青山霊園(1ロ3-5)。

年譜[編集]

第3師団参謀時代

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、29頁。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、39頁。
  3. ^ 『官報』第1093号、大正元年12月29日。
  4. ^ 『官報』第126号、大正3年6月25日。
  5. ^ 『官報』第1093号、大正5年3月27日。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 陸軍中将男爵木越安綱特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11112515400 
  7. ^ 『官報』第35号「叙任」1883年8月10日。
  8. ^ 『官報』第2104号「叙任及辞令」1890年7月5日。
  9. ^ 『官報』第2932号「叙任及辞令」1893年4月12日。
  10. ^ 『官報』第3485号「叙任及辞令」1895年2月14日。
  11. ^ 『官報』第4448号「叙任及辞令」1898年5月2日。
  12. ^ 『官報』第6007号「叙任及辞令」1903年7月11日。
  13. ^ 『官報』第6618号「叙任及辞令」1905年7月22日。
  14. ^ 『官報』第7547号「叙任及辞令」1908年8月21日。
  15. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  16. ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1916年4月11日。
  17. ^ 『官報』第1938号「叙任及辞令」1889年12月12日。
  18. ^ 『官報』第3273号「叙任及辞令」1894年5月30日。
  19. ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
  20. ^ 『官報』第4470号「叙任及辞令」1898年5月27日。
  21. ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日。
  22. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  23. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  24. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  25. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  26. ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、484頁。

参考文献[編集]

関連項目[編集]


軍職
先代
立見尚文
台湾総督府陸軍幕僚参謀長
第2代:1898年10月1日 - 1900年4月25日
次代
中村覚
先代
中村雄次郎
軍務局長
第5代:1900年4月25日 - 1901年2月18日
次代
中村雄次郎
先代
上田有沢
第5師団
第5代:1904年11月2日 - 1909年9月3日
次代
大谷喜久蔵
先代
西島助義
第6師団長
第9代:1909年9月3日 - 1911年9月6日
次代
梅沢道治
先代
閑院宮載仁親王
第1師団長
第9代:1911年9月6日 - 1912年12月21日
次代
一戸兵衛
公職
先代
上原勇作
陸軍大臣
第10代:1912年12月21日 - 1913年6月24日
次代
楠瀬幸彦
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
木越(安綱)家初代
1907年 - 1932年
次代
木越専八