桂久武

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桂 久武
時代 江戸時代後期(幕末) - 明治時代初期
生誕 天保元年5月28日1830年7月4日
死没 明治10年(1877年9月24日
改名 島津歳貞→歳充→桂久武
別名 初名:小吉郎、通称:右衛門、四郎
墓所 鹿児島県鹿児島市上竜尾町の南洲墓地
官位従五位
主君 島津斉興斉彬忠義
薩摩藩
氏族 日置島津家桂家
父母 父:島津久風、母:末川久泰の娘
養父:桂久徴
兄弟 島津久徴赤山靭負、男子、田尻務久武
久蒿小吉
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桂 久武(かつら ひさたけ)は、幕末薩摩藩士、政治家島津氏分家・日置島津家当主の島津久風の五男。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老島津久徴(下総、左衛門)、次兄は、お由羅騒動で犠牲となった赤山靭負

人物[編集]

安政2年(1855年)に同じ島津氏分家である一所持桂家の薩摩藩士・桂久徴[注釈 1]の養子となる。その後、造士館演武係方など要職を務めるが、兄島津久徴が島津斉彬派家老であったために罷免され、それに伴い斉彬の死の直後の文久元年(1861年)には大島守衛方・銅鉱山方に左遷される。このころに流刑中であった西郷隆盛と親交を結ぶ。文久三年(1863年)には藩庁に復帰しており、当時、保守派(佐幕派)と誠忠派(尊皇派,精忠組と連携)に家臣が分裂していた都城領内において、幕府の取締を危惧した保守派の家老北郷資雄らが、誠忠派の志士15名を謹慎、遠島などの厳しい処分に処した事件(誠忠派崩れ、または都城崩れ)で、誠忠派の島津宗家に処分の不当性を訴えたのに対して、久武は詮議の結果、処分を取り消すなどしている[1]

元治元年(1864年)、大目付となり小松帯刀らと共に藩論の統一に貢献、慶応元年(1865年)には家老に昇格、上洛して桂小五郎を厚遇し、薩長同盟の提携に尽力する。以来西郷から厚い信頼を寄せられ、武力討幕論を支持。明治新政府では明治3年(1870年)、西郷とともに鹿児島藩権大参事となり藩政トップを勤めた。

都城県参事としての動向[編集]

都城県庁跡の碑

明治4年(1871年)11月14日の都城県誕生に伴い、久武は同年12月4日付で県参事就任受書を提出し、都城県政の責任者として動き始める。

都城県政は、明治5年(1872年)2月18日付の管内布告庁を開庁させた事をもって、実質的にスタートした[2]。その布告の内容を見てみると、第一に朝旨(政府の方針)を遵奉する事、第二に学業を勉励し人材を教育すべき事、第三に民事を勃興し県内を富ますべき事とあり、新しい県政に懸ける久武の志向がまざまざと読み取れる。布告の第一からは、久武が中央政府(文中、廃藩置県後はこの表現を使用する)との関係を重視し、第三の内容からは、新県の産業振興について県民の生活向上のために強い課題意識を持って取り組もうとしている様子が窺える。

久武は都城県在勤中に日記を書き残しているが[3]、その記載内容からは教育施設の拡充(学校建設)に向けて尽力する様子が伝わってくる。久武は、着任早々から学校建設に向けてその予定地などを視察している状況を記録しており、同年6月5日には現在の宮崎県における最初の女子教育施設となる都城女学校(後に女学館と改称)の開設に携わる事にもなった。また、日記全体を通して見ると、学事に関する内容が十数件程書かれていて、久武がいかに教育(新しい時代に必要な人材の育成)を重視していたかが分かる。更に日記には、士族の動向に関する記載もみられる。

二月廿日 曇(中略)
一 飫肥使節両人来県、参事より掛合致持参、此内相達置候銃器取揃送越先指図ヲ請度問合ニて使口上無之候事、(後略)
二月廿一日 雨(中略)
一 飫肥返翰県庁ニて使江相渡ス、(中略)
一 此晩霧島江使有之由ニて桑原武右衛門・崎山清太郎江馬之儀ニ付申遣候書状、宿亭主江相頼置候事、(後略)

久武は、従来鹿児島藩領ではなく、県統廃合の過程で新たに都城県域に入った飫肥の扱いには気を遣っていた様である。当地は、戦国期島津氏と抗争関係にあった伊東氏明治維新の時期まで統治した地域であり、鹿児島に対する心情的な面から、特に士族の動向に留意する必要があった。銃器に関する件で翌日にはすぐに返答を出しており、更に、3月の行政視察の際には飫肥のみ二泊するなど、連絡・指導に十分な配慮をしつつ、心を砕いている様子が感じられる。

その一方で、飫肥の件とは別に、同日(2月21日)の日記に霧島開拓に関する記載も見られる。前述したように、久武は慶応期から自らの家臣団を派遣して開拓を進めていたが、桑原・崎山の二人の部下に馬の件(おそらく開拓に必要とされたと思われる)で書状を送っている。この霧島開拓に関係のある事柄は、日記中に他にも数度の記載があり、新たな県政がスタートした多忙な状況の中で、久武が士族救済問題にも継続して注意を怠らなかった事には着目しておきたい。そして、久武が参事就任後に着手した内容としてもう一点挙げておきたいのが、都城・鹿児島・美々津三県の管轄地交替に関する件である。久武は明治5年1月9日、鹿児島県参事の大山綱良と連名で政府に管轄地交替願を提出している。

薩隅日分割新県管轄地之儀篤と及評議候処、年貢収納等ニ付、人馬往来遠近旁不便之場所も有之候付、所轄地交替願立之儀、別紙并絵図面相添差越候間、猶又文面等致吟味、西郷殿等江内々得指図候上、其筋江差出候儀共可然候半、此段申越候、以上(後略)
1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における都城県
1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における都城県

三県成立時の県境設定は、大淀川などの大河やその他の漠然とした自然地形を以て定められた経緯もあり、歴史的条件や民情が十分に配慮されていなかった。おそらく久武は、新県の県境設定から生じる様々な問題発生(ここでは特に年貢収納を一例として挙げている)を危惧し、参事就任早々に管轄地交替願[4]を出したと思われるが、その前に西郷にも相談していた事が文面から分かる。その結果、同年5月12日付の太政官達により[5]、地形において不便利、民心にも不都合があるとの理由で都城県姶良郡菱刈郡一円、大隅国桑原郡の内、栗野横川郷が鹿児島県域になるなどの移管が実現した[注釈 2]

この移管実現には、同年3月に県域の行政視察を実施して実態を把握した久武の意見が十分反映されたと予想される。おそらく、前述した地形や歴史的条件、民意などが再度、吟味された結果だと思われるが、この時点から大山との協力が始まっており、以降、両者は継続して連携を深めていく事になる。

久武は、同年4月18日より大山、美々津県参事の福山健偉らと共に上京するが、その目的はそれぞれの県政に関する陳情及び西郷ら同郷の政府要人との意見交換・交流であった。この上京の行程を書き記した日記には、久武ら旧鹿児島藩領域に関係する地域の県政担当者が、西郷らと数度に亘り親密な交流を行っている様子が記載されている[6]。この交流の中で管轄地交替願の件は当然話題に上ったと考えられ、久武にとっての最大の協力者であり、中央政府の参議として絶大な発言権を有した西郷が強力な支援をした事は推察できる。

加えて、もう一人の鹿児島出身の政府実力者である大久保利通との交流についても触れておきたい。大久保は明治4年11月より岩倉使節団の副使として外遊中であったが、アメリカ条約改正の交渉中に政府の委任状を求められ、伊藤博文と共に一時帰国していた。海外視察を終えた後、内務省設立に尽力するなど地方行政にも興味関心を抱いていた大久保に久武が様々な相談をしたであろう事は想像できるが、大久保には時間的制約もあり、積極的に援助する余裕はなかった様である[注釈 3]

その一方で日記全般を見渡してみると、同じく鹿児島出身の五代友厚に関する記載が多く、頻繁に面会していた状況が分かる。五代は明治2年に政府を退官したが、大阪経済発展に尽力しつつ、鉱山経営などにも従事していた。久武は、都城県参事就任前から旧鹿児島藩領域に関する諸問題について五代と書翰のやりとりをしており密接な交流が窺える。まず、廃藩置県後の明治4年10月21日付で久武が五代に送った書翰を見ると[7]この一大変革に対する久武の率直な感想が述べられており、その後の久武の動向を見ていく上で参考となる。

(前略)此節、廃藩御所置、実ニ恐愕ニ不堪、転倒の御所分、知て愚胆ヲ抜かれ申候、皇家安危の境ニ臨、是丈の御決策ニハ、人心方向ヲ不乱、一図ニ歩ヲ相定候訳合ニ相成、驚きながらも感服仕候、就てハ、御案内通ニ、当県人情も同ジ、甚心痛も不少、大ニ相苦ミ罷在候得共、(中略)壮士ハ却て歩ヲ不誤、時勢ニ相反する輩といへども、此決策ニハ一言の物議も相生不申、実ニ天幸と存申候、(後略)

書翰の中で久武は、廃藩置県の突如の実施に驚く一方で、その進捗が予想以上に上手く進んだ事に感服しつつ、その後の鹿児島県の状況を懸念している。そして、久武が最も危惧したであろう士族の反応については、大規模な反対運動もなく落ち着いた状況である事を五代に伝えているが、これは廃藩置県直後の西郷宛書翰[8]と共通した内容である。おそらく五代にとっても自分の出身藩である鹿児島藩の動向は関心事であったと思われ、久武も必要な情報として伝えたのであろう。この書翰の約2ヶ月後、今度は逆に五代が久武に書翰を送っている(推定明治4年12月15日付)が[9]、久武の都城県参事就任を知った五代の心情が綴られており、両者の関係を更に理解する上で参考になる史料である。

粗伝聞仕候処、閣下ニ茂都之城県江御転任被遊御座候由、数年御苦職之報ひ此節者致極御寛用ニ而、政府格別の御取訳ニ而閣下の御為ニ者御気楽と奉存候得共、鹿児島県の御所置如何と御案し申上候、是亦市来下坂之折御伝上申上候云々ニ付、縷々御模様被仰聞拝承仕候、(中略)

文面からは、都城県参事就任について、五代が久武本人にとっては良い人事であるとの感想を抱きつつも、鹿児島県で起こるであろう諸問題について懸念している様子が分かる。また、文面にもあるように、同郷の市来政清にも同様の事を伝えるので、市来からも話を聞いて欲しい旨を伝えている[10]

(中略)閣下今般都之城県江御転任の御名義も御座候間、是非此機会ニ暫時御出京被遊被下間敷哉、不得止事と云へとも鹿児島県の御形勢百藩ニ対候而も汗顔ニ不堪、(中略)三百年相後れ候形勢、乍陰茂歎慨ニ堪へ不申、此節閣下御出京相成候処云々と申諭もアランカと不及者不及を以愚存申上候次第、御寛許被下度、(後略)

参事就任を機に久武に上京を促し、それを心待ちにしつつも、鹿児島県の形勢を強く憂い歎く五代の心境が伝わる内容である。五代は久武に対し敬称で気を遣いながらも、かなり本音の部分を語っている様に思われるが、それはおそらく幕末期以来の両者間の厚い信頼関係(主に藩の対外政策等に対して共に処してきた間柄[注釈 4])があったからこそと思われる。

五代が書翰中に書いた「鹿児島県の御形勢百藩ニ対候而も汗顔ニ不堪」とは具体的にどのような状況を意味するかを考えていく手がかりとして、上京中の久武に西郷が送った書翰と久武が自らの動向を書き記した前述の上京中の日記から、参考となる部分を以下抜粋する。まずは明治5年5月3日付の久武宛西郷書翰である[13]

今朝承知仕り候大蔵省に御申し立ての一条、五代等を以て仰せ込められ候御手数は宜しかるべく候得共、大隈等の詐欺何共申され難く、殊に井上留守中の事に候えば、帰りの上見込み相違いたし候時分は、却って反対の論に落ち申すべきは案中の儀と存じ奉り候間、(後略)

書翰からは久武が都城県を含めた旧鹿児島藩域の財政上の諸問題を大蔵省と交渉するに当たり、西郷が経済問題に長けた五代を通して行う事を勧めている事が分かる。但しこの時期、大蔵省側の担当である大蔵大輔の井上馨が不在であったため、省内で隠然たる力をもっていた参議の大隈重信と交渉する必要があった。因みに西郷は書翰の最後で、五代を通じての交渉が上手く運んだとしても改めて大隈と直談判して確約をとるのが望ましいと述べており、地方官に対して高圧的に臨む中央政府の官僚の姿勢を懸念して伝えている。

また、この文面の中で西郷は大隈を詐欺師扱いするなど、一個人としても露骨に嫌っている様子が窺える。更に云うと、西郷は五代についても批判的な内容の書翰を久武に送っており、一般に西郷が経済問題に疎いという理由で、大隈や五代、井上ら経済通を嫌っていたという見方が持たれがちであるが、それは大きな誤解であると考えられる[注釈 5]

五代にとっても出身藩に関わる財政上の諸問題は無関心ではいられなかった筈であり、それが信頼する久武の役に立つ事であれば猶更であったと思われる。また、久武は上京中、鹿児島県参事の大山綱良と行動を共にする事が多く、五代は大山からも相談を受けていると推察できる記載が日記に見られる[16]

五月八日 雨天
一 此日も終日雨天、夕少々晴立、今日ハ鹿児島糖商社願立之趣ニ付、書付草稿五代氏江相頼置候処、十字過候間可参承居、相待候処、夕二字比被参、草稿等出来、仍て大山氏江為相談鳥渡参候、(後略)

ここに出て来る「鹿児島糖商社」であるが、当時、鹿児島県では藩政期以来続いていた奄美諸島黒砂糖専売制を止めて新しく士族の商社を作り、その商社に生産から販売まで全ての権限を与えて多くの貧窮士族の救済を図ろうとする動きがあった。元々、この案は久武が西郷に申し入れたものであり、対し西郷は案に同意しながらも、あまり各地で売り広め過ぎたら地方行政に圧を強める大蔵省に目を着けられ利益を取り上げられる恐れがあるから注意が必要、と述べている[17]。(当時、大島諸島の貢糖は、大阪租税寮出張所に現物を納める様になっていた)

この商社に関しては、おそらく日記の記載にあるように、大山が久武と連携して商社願立の書付草稿を五代に頼み、大蔵省との折衝に向けた事前準備をしていたのであろう。そして、先述の明治5年5月3日付久武宛西郷書翰の内容にある大蔵省と交渉すべき財政上の諸問題(「大蔵省に御申し立ての一条」)にも商社願立の問題が含まれていた可能性は十分に考えられる。結果的にこの商社は「大島商社」として稼働し始め、利糖(利益分の砂糖)の一部を士族へ配分した事もあった様である[注釈 6]

貧窮士族の救済は、久武や大山ら旧鹿児島藩域の地方行政担当者にとって、彼等の不満を抑えて反乱等を防止する意味でも非常に重要な問題であった。しかし、渡欧経験があり、開明的な思想の持ち主であった五代にとっては、旧支配者層であり、他藩に比べ多くの人口割合を占める鹿児島士族を保護する政策が余りにも過保護で時代にそぐわないものに見えたのではないだろうか。この点で見ると、版籍奉還建議の際に紹介した森有礼(五代と共に渡欧)の急進的な思考と共通する部分があるように思える。また元来、五代自身が若い頃から薩摩独特の剛健な士風に馴染んでいた様子があまり見受けられず、逆に旧弊を嫌って藩外での活動の場を広げようとした節が感じられる。例えば、西郷ら武断派グループとの接点も見当たらず、薩英戦争英国の捕虜になって以降、彼等からの反感は明治期に入ると一層増幅されていった[注釈 7]。その状況下で、西郷派とも言える久武とだけは頻繁に書翰をやり取りしているが、理由としては久武の人柄に対する信頼感や、その実務能力を高く評価していた事などが考えられる。そして、五代は久武が早くから士族救済を切実な問題として重く捉えて苦心していたのを十分承知しており、書翰にはこの問題について敢えて断定的に書かなかったと想定される。

更に日記には久武が五代に借金の相談をするなど、現実的でシビアな内容についても記載されている。それらも含めて考えると、久武が五代と交流を深めた目的は大蔵省との折衝など県財政の諸問題に加えて、金銭面での融通であった事も見えてくる。久武にとって、五代がいかに経済面で頼れる存在であったかが想像できる。その一方で、廃藩置県後の明治4年10月21日付で、久武が五代へ鹿児島の産業振興に向けた建設的な内容の意見を送っている[20]

(前略)此節廃藩ニ付てハ、段々商法等の儀供、工夫ニ相渉候得共、是ぞと申趣向も相立不申、官商ハ惣て相鮮き、商社様のもの設立候ハヽ可然と、内□(虫喰)中ニ御座候、然ルニ、山ヶ野金山は、先、日本中ニても是丈の山ハ相少く、仏のコハニも、余程望みを掛候山ニて、生野銀山趣法取立候ハヽ 、必、是ニハ彼の手を以、御取上ニハ相違無之と存申候、(後略)

この中で久武は五代に対し、県経済の活性化のためにはまずは商社を設立していくべきであると述べている。更にその一環として、山ヶ野金山の活用に着目し、但馬(現在の兵庫県)の生野銀山も手掛けたフランスの鉱山技師コハニ(コアニー)が高く評価している事にも触れつつ、その再開発の必要性を強く訴えている様子が分かる。なお、全国の鉱山は廃藩置県後に国が没収するが、旧鹿児島藩域の鉱山だけはその対象にされなかった。これは、維新政府における倒幕の主体としての鹿児島藩の地位がそうさせた様である[注釈 8]

山ヶ野金山は現在の鹿児島県霧島市横川町山ヶ野地域に位置し、寛永17年(1640年)に発見された。日本屈指の金の含有量を誇り、江戸後期までの約200年間で25トンの金が産出されたが、幕末期には採掘場所も地中深部となり産出量が減少していた。それでも、1年間の平均収入は3万6千両程であり、薩摩藩の貴重な財源であった様である。幕末期、藩主の島津斉彬や忠義は、藩の主要産業の一つとして山ヶ野金山を位置付けて視察に訪れているが、特に忠義は慶応3年に前述のコアニーを招き、西洋の近代技術を導入して金の回収率向上を図っている。なお、この金山のある横川郷は一時都城県の管轄であったため、参事に就任した久武が引き続き再開発を進め増収に向けて強い興味関心をもっていたであろう事は書翰の内容から十分に考えられる[22][23]

その後、前述した県の管轄地交替により、明治5年5月に横川郷は都城県から鹿児島県に移管され、山ヶ野金山についても行政区分上は鹿児島県域となった。鹿児島県参事の大山も山ヶ野金山に興味をもった様であり、明治5年9月19日付の久武宛書翰の中で[24]、採掘状況が好転している様子を伝えている。大山がこの再開発にどれだけ意欲的であったかを当書翰のみで推し量る事は困難であるが、久武は前担当者として、大山へも適宜助言していた可能性がある。と言うのも、久武は山ヶ野金山及び旧鹿児島藩域内の鉱山開発への関与を五代と連携し継続して行おうとしている様子が前掲の書翰から読み取れ、地方行政の責任者としてこの事業の成功に強い思いを抱いていたと思われるからである。

都城県参事辞任後の動向[編集]

山ヶ野金山の坑道入口

明治六年(1873年)1月15日の都城県廃止に伴い、久武は豊岡県(現在の兵庫県の一部)県令就任の命令を同日に受けたが、健康上の問題を理由に辞退する。しかし、容易に認められず、許可が下りたのは同年の6月14日であった。その様な中で久武を中央政府へ出仕させる動きがあった。

明治6年3月17日付で大蔵省三等出仕の渋沢栄一が「御用之儀有之候条、至急出京可有之候、此段相達候也」の通達により、久武に同省への出頭を求めた[25]。上京を求めた詳細な理由は不明であるが、豊岡県令就任を辞退した久武を渋沢が大蔵省の役人へ起用したいと考えたのではないかと推察できる。この要請には都城県参事として大蔵省と折衝していく中で久武の人柄や能力が高く評価されていった事が窺える。後に渋沢は経済界において「西の五代、東の渋沢」と並び称されるように五代と共に近代日本における資本主義経済の発展に大きく寄与していくが、久武はこの両者から必要とされた稀有な人材であったと言える。この様な状況に対し、久武は同年3月30日付で五代に宛てた書翰の中で自らの心情を赤裸々に伝えている[26]

豊岡任辞職相届仕置候得共、未、御免許無之、甚迷惑仕居候、(中略)此節の相転、不平よりして辞するとの評ヲ受候ては、残情の至御座候付、此涯、進退相決候迄は、謹慎罷在候て、不遠内罷出彼是、御高話をも拝承仕度、山々相楽居申候、(後略)

この書翰で久武は豊岡県権令の就任辞退が中々認められず難儀している事や、中央政府に対する不平が理由で辞退したとの評が立つのは心外であるとして、辞退の許可が出るまでは謹慎するつもりであると書いている。そして、遠からず五代と面会し色々と話が出来る事を楽しみにしていると続けているが、話題はやはり鉱山開発の件であった。久武は先に述べた大蔵省への出仕要請についても丁重に辞退したと思われ。その誠実な一面を垣間見る事ができる書翰である。そして更に、豊岡県権令就任辞退の許可が下りた後も久武が政府への出仕を要請されていた事が明治7年(1874年)3月19日付で大久保利通が五代に宛てた書翰から窺える[27]

(前略)一 木圭子[注釈 9]別封一覧縣而情実分兼心配之趣尤ニ候、乍去一廓中ノ識見ニ而甚可惜事ニ候、(後略)

史料の解説によると、大久保は五代を通して久武を中央政府に任官させようとしたが、久武自身の内情(個人的な事情)のために実現できなかった、とある。時期的に考えると、明治六年の政変によって西郷が政府を退官し鹿児島に帰郷した後の動きであり、当政変は久武の内情にも多大な影響を与えたと思われる。結果として、大久保が期待した久武の財務能力は皮肉にも、西南戦争時の兵站部門(小荷駄隊長として、金穀や兵士募集を担当)で活かされる事になった。

前掲の明治6年3月30日付五代宛久武書翰の続きを見ていくと次の様な記載がある。

(前略)金銅両山は、余程良山の模様ニ付、是非取起度候得共、本手金無之、基ハ学校取起の為ニ御座候処、財本ニ苦シミ、貴兄へ鉱山相献じ、趣法相建、学校費用等補ひいたし度、(中略)延岡鉱石は、金位宜敷候間、能き場所へ切込さへいたし候得ば、失策ハ無之、模様ニ因り、相応の洋製器械取立候ハヽ、千万勝利疑無之、当分ニテハ、当県山ヶ野金山ニましたる山は、恐らく、日本ニハ相少くと申事ニ御座候得共、延岡鉱石ハ、五割位も品位宜敷候付、(後略)

先述した様に五代は政府退官の後、鉱山経営等に従事していたが、書翰で久武は五代に鹿児島・宮崎両県内の鉱山開発を委任したいと述べている。そして、その利益で学校(教育)にかかる費用を賄いたいと伝えており、久武が参事辞任後も教育に対する熱意を持ち続けていた様子が分かる。また、延岡の鉱石などを良質としつつも、山ヶ野金山で採れる鉱石の品質に再度、言及するなど、久武の山ヶ野金山に対する評価が一貫して高い事も読み取れる。この内容に関連した記述が、明治7年3月21日付で久武が五代に送った書翰に見られる[28]

(前略)吟味の通、山ヶ野金山の儀は、全体、金一ト向の鉱石ニて、つる筋宜敷、時ハ、莫大の出金ニ相及事候得共、金気有之鉱石ハ、いづれ、相少ものニ御座候得ば、機械も掛候へば、中々沢々の鉱石ニ無之候得ば、不相済、当分ニては、捨石ニて見賦相立居候間、兎も角、計計被相立可申、(後略)

五代に対し久武は山ヶ野金山の鉱石が良質であると認めつつも、その限られた量に言及し、産金額を更に増加させるためには機械を導入した最新式の技術による掘削が不可欠であると強く説いている。このような考えの下、明治10年(1877年)にフランスの鉱山技師ポール・オジェを招き坑道内を整備するなどの合理化を図った。更に、鉱脈の掘削には火薬(発破)を使用して作業効率の向上を目指すが、期待された結果が出せずオジェは解雇された。久武は西南戦争に従軍したためにオジェの取組を最後まで見届ける事が出来なかったと思われるが、鉱山開発に拘ったその心中には、事業拡大による士族の雇用確保も狙いの一つとしてあったものと推測される。

西南戦争前年の明治9年(1876年)に廃刀令の施行及び秩禄処分が断行される等、士族の特権廃止が相次いで実施されるが、この状況を懸念した久武は、士族の現状や将来を憂う内容の書翰(明治9年9月26日付)を五代に書き送っている[29][注釈 10]。それを見ると文面の多くは士族問題と鉱山開発に関する内容であり、当時の久武にとってこの二点はどちらも重要な問題であった。都城県参事辞職後から西南戦争従軍までの間、久武の動向に表立った活動は見られないが、士族救済と鉱山開発による地域経済の活性化問題は絶えず久武の念頭にあったであろう事は想像に難くない。その久武が鉱山開発などで目指していたビジョンの達成を途中放棄し、西南戦争に従軍した事は周知の事実である。

明治10年(1877年)、西南戦争で西郷隆盛が挙兵すると西郷側に参軍する。元々従軍するつもりはなかったが、2月17日に西郷の出陣を見送りに行った際に翻意し、家人に刀を取りに帰らせ、そのまま従軍した。従軍後は薩軍の輜重の責任者をつとめた。同年9月24日城山において流れ弾に当たり戦死した。享年47。

大正5年(1916年)、従五位を追贈された[30]

エピソード[編集]

伝承によると西南戦争時、弓矢を装備して戦ったと言われ、そのため、日本の戦史上、最後に弓矢を用いた人物とされている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 通称は岩次郎、太郎兵衛。島津久微と同名なため混同された可能性もある
  2. ^ なお美々津県からは、日向国諸県郡須木野尻郷・小林郷の内、東方村が都城県へ移管され、同年九月に八代県から肥後国球磨郡米良山十四カ村が美々津県に編入されている
  3. ^ 日記からは、久武が大久保と面会した事は分かるものの、具体的に話された内容については確認できない
  4. ^ 慶応期に渡欧中の五代が久武に送った書翰には、現地の政情に関する報告や意見等が記載され、両者の強い連携が窺える。例えば、慶応2年11月8日付の書翰では、フランス島津久光ナポレオン・ボナパルトに例えられ、「日本を改革できるのは久光の他にいない」と宣伝されている様子などを伝えている[11]。また、英国留学生の近況報告(例えば、攘夷論者の高見弥一(土佐出身)が西洋の現状を見て考えを改めた事等)等からは、情勢の変化を逐一連絡している様子も推察できる[12]。尚、高見は令和2年9月、JR鹿児島中央駅前の銅像「若き薩摩の群像」中に、堀孝之(長崎出身の通詞)と共に銅像が新たに追加された事で大きな話題となった
  5. ^ 家近良樹氏は、西郷が商人肌の人物(経済官僚)を嫌った理由の一因を、決して経済問題に疎かったからではなく、理不尽な巨利を求めなかった西郷自身の政治姿勢にあるとしている[14]。西郷は若い頃に長年、藩の郡方書役助として農政の実務や経理を担当しており、また、元治期には藩の軍艦購入などにも関わっている事から[15]、経済問題に疎いとする見方はやや短絡的である、という見解も存在する
  6. ^ 但し、島民からの搾取は旧藩時代と変わらず、島民の代表土持正照(西郷が沖永良部島に遠島処分を受けた際の世話役)が明治6年6月に窮状を西郷に訴えており、西郷は大蔵省の松方正義に対処を依頼している[18]
  7. ^ 鹿児島藩士の高崎正風が明治2年3月9日付で五代に送った書翰の中で、同藩士族の中に維新政府で活躍する同郷の出身者への反感が強まっている事を伝えつつ、五代にも「君の名モ随分高く候故、御油断は難相成候」と忠告している[19]。また、高崎自身も、幕末の慶応期に西郷や大久保の対幕強硬路線に異を唱え、鳥羽伏見戦争後に鹿児島への帰国(左遷)を命じられており、西郷らとは一線を画していた。尚、本稿記述に当たっては、田付茉莉子『五代友厚 富国強兵は「地球上の道理」』(ミネルヴァ書房、2018年)184頁~185頁を参考にした
  8. ^ 久武は文久元年(1861年)十二月に大島守衛方及び銅山方として藩庁から命を受け、翌年から奄美大島における鉱山調査や開発の任務に従事している[21]。目立った成果は挙げられなかったものの、久武のこの時の経験が山ヶ野金山の開発意欲に繋がった事は十分に考えられる
  9. ^ 書中の「木圭子」は久武を指した語句である
  10. ^ 書翰の中で久武は「此間は、家禄制度御変制の御発令相成、皆とも恐愕此事ニ御座候」と五代に伝えている事から、秩禄処分が久武にとっては想定していた以上に厳しい処置であった様子が分かる。詳細は、芳即正『家禄処分と鹿児島士族-桂久武の不安-』(西郷南洲顕彰会『敬天愛人』第五号、1987年)参照

出典[編集]

  1. ^ 右衛門(桂久武)御書付写”. 都城島津邸. 都城市 (2019年10月29日). 2023年3月6日閲覧。
  2. ^ 『宮崎県史 史料編 近・現代1』宮崎県、1991年、No.33、115~116頁
  3. ^ 『鹿児島県資料集(二十六)桂久武日記』(鹿児島県立図書館、1986年)所収「明治五壬申年二月十八日誌 都城縣在勤日記」
  4. ^ 『宮崎県史 史料編 近・現代1』No.40、125~126頁
  5. ^ 『宮崎県史 史料編 近・現代1』No.50、134~136頁
  6. ^ 『鹿児島県資料集(二十六)桂久武日記』所収「明治五壬申四月十八日 東上日記」
  7. ^ 『鹿児島県史料集(三十)桂久武書翰』(鹿児島県立図書館、1990年
  8. ^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料六』鹿児島県、1997年、No.1900
  9. ^ 『桂久武宛 五代友厚書翰(桂家文書)』黎明館保管、個人蔵
  10. ^ 『市来政清宛 五代友厚書翰(桂家文書)』黎明館保管、個人蔵
  11. ^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料五』鹿児島県、1996年、No.1579
  12. ^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料四』鹿児島県、1995年、No.1343
  13. ^ 『西郷隆盛全集 第三巻』№63 二五六頁~二五八頁
  14. ^ 『西郷隆盛 維新一〇五年目の真実』NHK出版新書、2017年、88頁~90頁
  15. ^ 『鹿児島県史料 玉里島津家史料三』鹿児島県、1994年、No.1169
  16. ^ 『鹿児島県史料集(二十六)桂久武日記』一四三頁
  17. ^ 『西郷隆盛全集 第三巻』№45 一九〇頁~一九八頁
  18. ^ 『西郷隆盛全集 第三巻』No.97 三五六頁~三五九頁
  19. ^ 『五代友厚伝記資料 第一巻』東洋経済新報社、1971年
  20. ^ 『鹿児島県史料集(三十)桂久武書翰』三十頁~三十二頁
  21. ^ 『鹿児島県史料集(二十六)桂久武日記)』文久二壬戌三月十六日
  22. ^ 「横川町郷土誌」1991年、横川町(現、霧島市)、99頁~103頁
  23. ^ 『明治維新と霧島 お金から見る明治維新』2018年、霧島市教育委員会、17頁
  24. ^ 「桂久武宛大山綱良書翰(桂家文書)」黎明館保管、個人蔵
  25. ^ 『桂家文書(桂久武履歴)』(黎明館保管、個人蔵)
  26. ^ 『鹿児島県史料集(三十)桂久武書翰』三十二頁~三十四頁
  27. ^ 『大久保利通文書 五』(日本史籍協会叢書 1968年)四三四頁~四三六頁
  28. ^ 『鹿児島県史料集(三十)桂久武書翰』三十四頁
  29. ^ 『鹿児島県史料集(三十)桂久武書翰』三十五頁~三十七頁
  30. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.40

参考文献[編集]

登場作品[編集]

テレビドラマ

脚注[編集]