勝田四方蔵

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勝田 四方蔵(しょうだ よもぞう、1845年12月18日弘化2年11月20日[1]) - 1918年(大正7年)7月7日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人政治家華族。栄典は正三位勲一等功三級[2]。最終階級は陸軍中将貴族院男爵議員

経歴[編集]

長州藩士・勝田光忠(七三郎)の三男として生まれる[1][3]。維新後は陸軍に奉職し、明治5年3月15日1872年4月22日)、陸軍中尉に任官。西南戦争では第3旅団参謀をつとめた。

1884年(明治17年)3月、工兵第1方面提理に就任。続いて1887年(明治20年)6月、工兵会議議長となり、工兵科の成長に携わった。

1894年(明治27年)11月、第2軍工兵部長に発令され、日清戦争に出征。少将進級後の1895年(明治28年)4月、下関要塞司令官に就任し、以後、東京湾要塞司令官、二度目の下関要塞司令官を歴任した。中将昇進後の1901年(明治34年)に休職。

1904年(明治37年)2月、留守第12師団長として復帰し日露戦争を迎えた。1907年(明治40年)3月予備役に編入され[4]、同年9月21日、男爵を叙爵し華族となり、貴族院男爵議員を1911年(明治44年)7月10日から[5]死去するまで勤めた[6]

年譜[編集]

栄典[編集]

位階
勲章等

親族[編集]

  • 嗣子・太郎 - 陸軍歩兵大佐[1]、1917年3月31日死去[22]
  • 孫 勝田二郎 - 鉄道書記官[1]、太郎二男[3]。1918年8月10日、男爵襲爵[23]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『官報』第1788号(「彙報 - 官吏薨去及死去」1918年7月18日)では、1918年7月9日没。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、762頁。
  2. ^ 『官報』第7188号、大正7年7月18日。
  3. ^ a b c 『人事興信録』第4版、し40頁。
  4. ^ 『官報』第7100号、明治40年3月4日。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
  6. ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』74頁。
  7. ^ 『官報』第1205号、1887年7月6日
  8. ^ 陸軍現役将校列次名簿. 明治33年5頁
  9. ^ 『官報』第7164号、明治40年5月20日。
  10. ^ 『官報』第250号「賞勲敍任」1884年5月2日。
  11. ^ 『官報』第1970号「叙任及辞令」1890年1月25日。
  12. ^ 『官報』第3498号「叙任及辞令」1895年3月1日。
  13. ^ 『官報』第7175号「叙任及辞令」1907年6月1日。
  14. ^ 『官報』第1252号「叙任及辞令」1916年10月2日。
  15. ^ 『官報』第1781号「叙任及辞令」1918年7月10日。
  16. ^ 『官報』第718号「賞勲叙任」1885年11月20日。
  17. ^ 『官報』第1933号「叙任及辞令」1889年12月6日。
  18. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  19. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  20. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  21. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  22. ^ 『官報』第1400号、大正6年4月5日。
  23. ^ 『官報』第1808号、大正7年8月12日。

参考文献[編集]


日本の爵位
先代
叙爵
男爵
勝田(四方蔵)家初代
1907年 - 1918年
次代
勝田二郎