功山寺挙兵
功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。
目次 |
[編集] 経過
[編集] 背景
禁門の変により長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われ、三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)が切腹し、藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握ることとなった。俗論派は長州正義派に対して厳しく粛清を行い、周布政之助に切腹させ、井上聞多を襲撃し重傷を負わせる。さらに俗論派は功山寺に潜居していた五卿(三条実美・三条西季知・東久世通禧・壬生基修・四条隆謌)を太宰府に移送することで志士の後ろ盾を完全に廃し、志士狩りを強化しようとした。
俗論派の粛清から逃れ平尾山荘の野村望東尼の元で潜伏していた高杉晋作は、五卿移送の件を知り下関へ戻って奇兵隊に決起を促すが、山県狂介に時期尚早と反対される。諸隊にも呼びかけたが俗論派を討つ為とはいえ藩主に弓ひくことを躊躇う者や圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことに反対する者が多数であった。
[編集] 挙兵決行日について
高杉は吉田松陰より「生きている限り、大きな仕事が出来ると思うなら、いつまででも生きよ。死ぬほどの価値のある場面と思ったら、いつでも死ぬべし」と教えられていた。この教えが高杉に周囲の反対を押し切ってまで無謀な挙兵を決行させたと言われる。
挙兵決行日は実際には説得や準備に手間取り翌日にずれこんでしまったが、当初は12月14日を挙兵時期に定められていたと言われる。これは吉良邸討入と同じであり、高杉の師である吉田松陰が東北遊学の為に危険を冒して脱藩した日である。挙兵に際して自らを死を覚悟して義のために戦った赤穂浪士や初めて清水の舞台から飛び降りた師の覚悟を挙兵する自らになぞらえていたとされる。
[編集] 挙兵
功山寺に集結したのは伊藤俊輔率いる力士隊と石川小五郎率いる遊撃隊のわずか84人だけであった。死を覚悟した高杉は白石正一郎の末弟である大庭伝七に遺書を託して、功山寺の三条実美ら五卿に「是よりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と挨拶をし、この挙兵が私利私欲からなるものでないと断った上で、下関新地会所を襲撃し占拠した。そして18名からなる決死隊で三田尻の海軍局に攻め入ると、「丙辰丸」など軍艦3隻を無血にて奪取した。
[編集] 戦後
この挙兵の報が広まると井上聞多・品川弥二郎・山田顕義・河上彦斎らが呼応し、付近の領民による義勇兵も集結した。勢力を増すと日和見をしていた奇兵隊の山県狂介や藩の諸隊も立ち上がり高杉に協力した。
後に大田・絵堂の戦いで俗論派の藩の正規軍と対峙し、反乱軍がこれを破ったことで、藩論は倒幕に統一された。
[編集] 主な参加者
[編集] 外部リンク
- 下関長府博物館(高杉晋作資料展示)