川島義之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
川島 義之
Kawashima Yoshiyuki.jpg
川島義之
生誕 1878年5月25日
日本の旗 日本愛媛県
死没 1945年9月8日(満67歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍の旗 大日本帝国陸軍
軍歴 1898 - 1936
最終階級 陸軍大将
テンプレートを表示

川島義之(かわしま よしゆき、明治11年(1878年5月25日 - 昭和20年(1945年9月8日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将愛媛県生まれ。

経歴[編集]

松山市外側尋常小学校愛媛県尋常中学校を経て、明治31年(1898年)、陸軍士官学校(10期)卒業。明治41年(1908年)、陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。

二・二六事件予備役に編入。終戦の年の昭和20年(1945年)9月8日死去。

人物[編集]

  • 陸士10期卒業時110位。同期に松木直亮西義一植田謙吉などがいる。陸大20期卒業時6位。
  • 岡田内閣で陸相に就任した時統制派皇道派の対立が激化しているときであり、川島はどちらにも属していないため陸相に選ばれた。相沢事件の責任を取って辞任した前任の林銑十郎陸相は、後任について当初は渡辺錠太郎教育総監、川島、植田謙吉朝鮮軍司令官西義一東京警備司令官の順に考えていたが、もっとも問題の無さそうな川島を選び、岡田首相も川島を無色で適任と評価した[1]。しかし中間派故に両派の統制を取り得なかったことで二・二六事件を防ぐことができなかった。両派はおろか青年将校までもが彼を傀儡として用いようと企んでいたところに川島の周囲からの評価が窺える。
  • 二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎と親しかったようである。
  • 二・二六事件時、陸相として反乱部隊に理解を示すかのような陸軍大臣告示を東京警備司令部から出した。その後、昭和天皇の意向によって反乱部隊は鎮圧されることになった。事件をうまく処理できなかったため、事件後に予備役に編入されることになった。
  • 松山中学で夏目漱石の教え子だった。ただし、当の川島はそれほど偉い先生だとはちっとも思っていなかったようである。

出典[編集]

  1. ^ 大前信也「陸軍の政治介入の淵源について(Ⅱ)-陸軍予算と二・二六事件-」(『政治経済史学541』)
先代:
林銑十郎
陸軍大臣
第25代: 1935年 - 1936年
次代:
寺内寿一