十月事件

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十月事件(じゅうがつじけん)とは、1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。別名錦旗革命事件(きんきかくめいじけん)。

1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。三月事件にも関わった桜会橋本欣五郎中佐、長勇(ちょう いさむ)少佐、田中清少佐らは、この動きに呼応するクーデターを計画。これに大川周明北一輝らの一派が加わった。

計画の概要は以下のとおりである。桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、さらに陸軍偵察機や抜刀隊10名を使用。10月21日(橋本の手記によると23日)に首相官邸警視庁を襲撃。 若槻禮次郎首相、 幣原喜重郎外相ら閣僚を斬殺し、「錦旗革命本部」と大書した旗を陸地測量部に掲揚。閑院宮載仁親王東郷平八郎西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させる。そして荒木貞夫 陸軍中将を首相に、さらに大川を蔵相に、橋本を内相に、建川美次少将を外相に、北を法相に、長を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する。

しかし、関東軍が拠出した資金を幹部が料亭での豪遊のためにたびたび流用。さらに大川周明と北一輝との齟齬も顕著となり、計画の円滑な遂行を妨げた。しかも首相に擁立するはずであった荒木はクーデターに反対、計画の撤回を求める有様であった。実働部隊たる下級将校は失望し、相次いで離反した。

計画は陸軍首脳部に漏洩。10月17日早朝、憲兵隊が幹部12人を一斉検挙した。しかし、同志の助命を橋本に嘆願された杉山茂丸は、西園寺公望に口添えを行った(また、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳部に圧力をかけたともいわれる)。結果、首謀者の橋本は重謹慎20日、長・田中は同10日、と処分は形式的なものに留まり、秘密裡に処理された。

この事件は三月事件と共に「何をしても赦される」という悪しき前例を生み、軍部の台頭を促進すると共に、政財界を萎縮させた。また、これを契機に陸軍内部に皇道派統制派との対立構造が醸成されることとなった。

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