七夕

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七夕の笹飾り
京阪土居駅前・旭通り商店街にて(2005年7月撮影)

七夕(たなばた、しちせき)は、中国台湾日本韓国ベトナムなどにおける節供節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。旧暦では7月7日のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦以降、お盆が新暦月遅れ8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や「棚幡」と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。

元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

そのほか、牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[1]

起源[編集]

江戸後期の七夕を再現したもの(深川江戸資料館)

日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』に書物を虫干しにしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋時代の作と考えられる『西京雑記』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選』の中のの時代に編纂された「古詩十九首[2]」が文献として初出とされている[※ 1]が、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝梁代殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている[※ 2]

日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[3])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[4]。その後平城天皇7月7日に亡くなると、826年天長3年)相撲御覧が別の日に移され[5]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[4]

乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[6]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[7]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[8]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

風習[編集]

『市中繁栄七夕祭』(名所江戸百景の一つ。歌川広重):江戸後期

日本[編集]

ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。

このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。

地域によっては半夏生の様に農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[9]していたり、雨乞い虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った。[10]

他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。

イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。

韓国[編集]

韓国では七夕をチルォルチルソッ(7月七夕)といい、この日に牽牛と織女が1年ぶりに会ってうれし涙を流すため、絶対に雨が降ると信じられいる。その日の晩に雨が降れば、それは牽牛と織女が流すうれし涙、2日間、夜に雨が続けば別れを惜しむ涙だと言われている。 その日は伝統的に各家庭でミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)とヘッグヮイル(季節の果物)を供え、女性らはチャントッテ(醤油がめやみそがめを置く高台)の上に水(井戸水)を供え、家族の長寿と家庭の平安を祈願する。また、少女らは牽牛星と織女星を見上げながら、針仕事が上手くなるよう願う。チャントッテの上に水(井戸水)を供えたあと、灰を平らに盆にのせて、翌日そこに何か通り過ぎた跡があれば、霊感があって針仕事が上手くなると信じられていいる。また少年らは学問に秀でるため夜空に星を描いて祈る。 また、梅雨が過ぎたあとの湿気で、衣類や書籍類に虫がついたり変質することを防ぐため、七夕の日の強い夏の日差しにあて、家ごとに井戸水を汲み取ってきれいにした後、蒸し餅を作り井戸の上に置いたりして七夕の日を過ごした。七夕の日の料理にはミルクッス(小麦粉で作った麺、うどん)とミルジョンビョン(小麦粉で作ったせんべい)がある。この日をさかいに冷たい風が吹き始めると小麦粉料理の季節は終わりとなり、最後の小麦粉料理となる。また、鯉を材料としたインオフェ(鯉のさしみ)、インオグイ(鯉の焼き魚)、そしてオイキムチ(きゅうりのキムチ)などを食べ、桃やスイカで作ったクァイルファチェ(いろんな果物を入れて混ぜた飲み物)を飲む。 [11]

中華圏[編集]

以前の女性の運命は結婚して、夫に従い子を教えるしかなかったので、少なからぬ女性が牽牛と織女の伝説を信じ、織女を手本にしたいと思っていた。よって毎年七姐誕(織女の誕生日)が来るたび、彼女たちは七姐(織女)を祭り、細やかなこころと器用な手先を得て、良縁が得られるように祈った。これが「乞巧」(器用になることを願う)という名称の由来である。女性はまた彩楼(飾り付けのある小屋)をつくり、黄銅で出来た細針(七孔針)を準備し、五色の糸で月に対し風を迎え針を通した。しばらくして、七夕も「女の子の日」となった。しかし古人が乞巧するのは七夕に限らず、正月や八九月も乞巧をし、宋以後になってから七夕だけに乞巧をするようになった。時期、七夕乞巧節は盛んになり、乞巧の飾り物だけを売る市場ができ、乞巧市と称した。

荊楚歳時記』によれば古代の女性は七夕の夜に“閨中秘戲”つまり「七月七日は牽牛と織女が会う日である。この夜、婦女は飾り付けのある小屋を作り、七孔針に糸を通し、またむしろをしいて酒や干し肉や瓜や果物を庭に並べて乞巧を行った。もし蜘蛛が瓜に網を張っていれば、印があったとする。」(七月七日,為牽牛織女聚會之夜。是夕,人家婦女結采縷,穿七孔針,或陳幾筵酒脯瓜果於庭中以乞巧。有喜子網於瓜上。則以為符應)を行った。喜子とは一種の小型のクモである。「東京夢華録」では「婦人は月に向かって糸を通し、また小さな蜘蛛を箱に入れて、次の日に見て、もし網が丸く張っていれば、器用になるという」(婦女望月穿針,或以小蜘蛛安合子内,次日看之,若網圓正,謂之得巧。)とある。杜甫『牽牛織女』もこの風習に言及している“蛛絲小人態,曲綴瓜果中。”劉言史『七夕歌』:“碧空露重新盤濕,花上乞得蜘蛛絲。”

現在の七夕は「愛情節」と呼ばれている。[12]多くの商店や人々は「中国のバレンタインデー(情人節つまり恋人の日)」と呼んでいる。しかし七夕の伝統的な習俗にはカップルのデートという内容は無いため、民俗専門家は「情人節」は不適当で、「愛情節」と呼ぶべきだとする[13]。中国大陸では、七夕は商店にとっての販売促進の一大商機となっており、伝統習俗は廃れており[14]、人々の七夕に対する情熱は西洋の舶来品の「情人節」とは比べ物にならない。台湾や香港でも西洋文化の影響を受け、七夕の状況は憂うべきものである。

頤和園長廊彩絵:牛郎織女鵲橋会

江南[編集]

江南の刺繍する少女は夜に月光の下で、一本の刺繍針を椀の水面にそっと置き、表面張力で針を浮かべる。月光が照らすなか、一番複雑な波紋が周りに出現した針が、一番良い刺繍が出来るとする。また針に赤い糸を透して、七仙女に「乞巧」(器用になることを願うこと)をする。唐代詩人林杰の詩の「乞巧」では「七夕今宵看碧宵,牛郎織女渡河橋,家家乞巧望秋月,穿尽紅糸幾万条。」と述べている。

西南[編集]

爪を染めることは西南一帯の七夕の習俗である。若い娘はこの日に樹液で髪を洗って若く美しくあることを願い、また未婚女性は想い人と巡りあう事を願う。

胶東[編集]

胶東地区では七夕に七神姐を拝んだ。女性たちは新しい服を着て、1つの堂に集まり、七姉妹となった。少女たちは牡丹や蓮や梅や蘭や菊などの花の形をした「巧餅」という小麦のお菓子をつくり、織女を祭った。

広東[編集]

広東では少女たちによって「拜七姐」が行われた。(男性や老女は参加できなかった)6月から準備を開始し、稲や麦や緑豆の粒を椀で浸して発芽させる。七夕が近づくとハリボテの鵲橋をつくり、また様々な手の込んだ手芸品を作る。七夕の夜には八仙桌を廟堂に置き、その上に果物や花や発芽させた穀物の芽や、人形や紙細工などの女性が作った手芸品、彫刻した果物、化粧品やお菓子などを置く。女性たちは髪を洗って着飾り、ホウセンカで爪を染める。八仙卓や鵲橋のそばで様々な遊戯を行う。また針に糸を通して乞巧(器用になることを願う)をしたり、北斗七星(織女の姉妹であるとされていた)や2つの星を拝む。また家々では乞巧卓を設け、人々をもてなした。深夜の12時は織女が下界に降りてくる時とされており、全ての灯りに火をともし、針に糸を通して、織女を出迎え、歓声があがる。そしてひと通り楽しんだ後解散となった。[15]

閩南[編集]

閩南では、織姫を「七娘媽」と呼び、子供の守り神とする。閩南の習俗では七夕の日にザクロシクンシで煮た卵と肉と黒砂糖の入ったもち米を食べて、虫除けと病気よけとする。

香港[編集]

現在の香港では、少なからぬ家庭が昔の伝統的な風習を維持しており、七姐誕(七夕)になると紙紮店(「紙紮」[しさつ]とは祭祀の時に燃やす紙製の模造品)で七姐衣を買い求め、その夜七姐(織姫)を祭るのに使う。

坪洲と西貢には七姐、坪洲には仙姉廟という七姐を祭る廟があり、旧暦7月6日には参拝客で賑わう。

台湾[編集]

台湾では、7月7日はの七娘媽(織女)の誕生日とされている。七娘媽は子どもの守護神である。幼児の守護神のzh:床母を祀る風習があり、幼児を持つ家庭はこの晩に床母を祭り、紙銭の「四方金」(或「刈金」)と「床母衣」を焼く。また台南[16]鹿港[17]ではzh:做十六歲[18]という成人式をこの日に行う。近年では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

時期[編集]

中国[編集]

元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦7月7日である。中国暦において7月の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

日本[編集]

日本では、旧暦天保暦和暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行われ、お盆(旧暦7月15日)に入る前の前盆行事として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、従来通り旧暦7月7日に行う地域、グレゴリオ暦新暦)の7月7日に行う地域、月遅れの8月7日に行う地域に分かれ、特に新暦開催ではお盆との関連が薄れた。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[※ 3]

グレゴリオ暦の7月7日はだが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は季語である。

天候など[編集]

多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。

統計では、旧暦7月7日が晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。一方新暦7月7日は、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川が見えない年もある。したがって、天の川が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。

七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

ブラジル[編集]

ブラジルでは、日本の年中行事に親しむイベントや「商店街七夕」の形式で、日にちに拘らず行われる。

仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として1979年から始まった「サンパウロ仙台七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、7月の週末に同市のリベルダージにて開催されている。南半球であるための風物詩として定着している。

アメリカ[編集]

仙台市の協力のもと当地の宮城県人会を中心として2009年から始まった「ロサンゼルス七夕祭り」は、仙台七夕の月遅れ開催を踏襲せず、8月中旬頃に同市のリトルトーキョーにて二世週日本祭(二世ウイーク)に合わせて開催されている。

日本の七夕祭り[編集]

1687年貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。

現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

主な七夕祭り[編集]

名称 開催地 時期 観客数
八戸七夕まつり 青森県八戸市 7月 海の日までの 037万人/4日間(2007年)[19]
盛岡七夕まつり 岩手県盛岡市 8月04日5日6日7日 018万人/4日間(2008年)[20]
うごく七夕まつり 岩手県陸前高田市 8月07日
けんか七夕まつり 岩手県陸前高田市気仙町 8月07日
仙台七夕まつり 宮城県仙台市 8月06日・7日・8日 206万人/3日間(2013年)[21]
能代役七夕 秋田県能代市 8月06日・7日
七夕絵どうろうまつり 秋田県湯沢市 8月05日・6日・7日 017万人/3日間(2013年)[22]
平七夕まつり 福島県いわき市 8月06日・7日・8日 043万人/3日間(2010年)[23]
水戸黄門まつり 茨城県水戸市 8月 第1金・土・日
土浦キララまつり 茨城県土浦市 8月 第1土・日
前橋七夕まつり 群馬県前橋市 7月 第1の3日後から4日間 035万人/4日間(2012年)[24]
桐生八木節まつり 群馬県桐生市 8月 第1金・土・日 046万人/3日間(2012年)[24]
入間川七夕まつり 埼玉県狭山市 8月 第1土・日 043万人/2日間(2001年)[25]
深谷七夕まつり 埼玉県深谷市 7月 上旬の金・土・日
上福岡七夕まつり 埼玉県ふじみ野市上福岡 8月 第1土・日 017万人/2日間(2013年)[26]
小川町七夕まつり 埼玉県小川町 7月 最終土・日
茂原七夕まつり 千葉県茂原市 7月 最終金・土・日 084万人/3日間(2008年)[27]
阿佐谷七夕まつり 東京都杉並区阿佐谷 8月07日と土曜を含む5日間 070万人/5日間(2011年)[28]
福生七夕まつり 東京都福生市 8月 第1木・金・土・日 040万人/4日間(2013年)[29]
湘南ひらつか七夕まつり 神奈川県平塚市 7月 第1金・土・日 170万人/3日間(2013年)[30]
慶應義塾大学SFC七夕祭 神奈川県藤沢市 7月 第1
古町七夕まつり 新潟県新潟市中央区古町 7月 上旬の9日間
越後村上七夕祭 新潟県村上市 8月16日17日
高岡七夕まつり 富山県高岡市 8月01日~7日 015万人/7日間(2013年)[31]
戸出七夕まつり 富山県高岡市戸出町 7月03日4日5日6日7日
尾山の七夕流し 富山県黒部市雄山 8月07日
舟見七夕まつり 富山県入善町舟見 7月06日・7日
宝立七夕キリコ祭り 石川県珠洲市宝立町 8月07日
水都まつり 岐阜県大垣市 8月 第1木・金・土・日
清水七夕まつり 静岡県静岡市清水区 7月 第1土・日 051万人/2日間(2012年)[32]
円頓寺七夕まつり 愛知県名古屋市 7月 最終より5日間
一宮七夕まつり 愛知県一宮市 7月 最終木・金・土・日 117万人/4日間(2013年)[33]
安城七夕まつり 愛知県安城市 8月 第1金・土・日 125万人/3日間(2013年)[34]
松阪七夕まつり 三重県松阪市 8月 第1土
機物神社七夕まつり 大阪府交野市 7月06日・7日
山口七夕ちょうちんまつり 山口県山口市 8月06日・7日 021万人/2日間(2011年)[35]
七夕バルーンリリース 徳島県徳島市 7月07日7時7分7秒
三木町いけのべ七夕まつり 香川県三木町 8月 第1土・日
七夕神社夏祭り 福岡県小郡市 7月07日、8月5日~8日
大分七夕まつり 大分県大分市 8月 第1金・土・日 039万人/3日間(2013年)[36]

全国七夕サミット[編集]

七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。

予定[編集]

新暦の七夕における月齢[編集]

2007年からの、グレゴリオ暦7月7日の月齢天の川の見やすさを記号(◎→○→△→×)で示す。天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月であり、上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。

  1. 2007-07-07: 月齢22 ○
  2. 2008-07-07: 月齢4 ◎
  3. 2009-07-07: 月齢15 ×
  4. 2010-07-07: 月齢25 ◎
  5. 2011-07-07: 月齢6 ○
  6. 2012-07-07: 月齢18 ×
  7. 2013-07-07: 月齢29 ◎
  8. 2014-07-07: 月齢10 △
  9. 2015-07-07: 月齢21 △
  10. 2016-07-07: 月齢3 ◎
  11. 2017-07-07: 月齢13 ×
  12. 2018-07-07: 月齢24 ○
  13. 2019-07-07: 月齢5 ○
  14. 2020-07-07: 月齢16 ×
  15. 2021-07-07: 月齢27 ◎
  16. 2022-07-07: 月齢8 ○

旧暦の七夕(伝統的七夕)[編集]

国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間=8月23日頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している[37]。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。

国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時)。

  1. 2006-07-31
  2. 2007-08-19
  3. 2009-08-26
  4. 2010-08-16
  5. 2011-08-06
  6. 2012-08-24 [※ 4]
  7. 2013-08-13
  8. 2014-08-02
  9. 2015-08-20
  10. 2016-08-09
  11. 2017-08-28
  12. 2018-08-17
  13. 2019-08-07
  14. 2020-08-25

織女星と牽牛星の伝説[編集]

説話[編集]

こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座アルタイルである。夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。

古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲の題材となった。その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

物語[編集]

昔々、天の川のそばには天の神様が住んでいました。天の神様には、一人の娘がいました。名前を織姫と言いました。織姫は機を織って、神様たちの着物を作る仕事をしていました。織姫がやがて年頃になり、天の神様は娘に、御婿さんを邀えてやろうと思いました。色々探して見つけたのが、天の川の岸で天の牛を飼っている、彦星という若者です。彦星は、とても立派な若者でした。織姫も、かがやくばかりに美しい娘です。二人は相手を一目見ただけで、好きになりました。二人は結婚して、楽しい生活を送るようになりました。でも、仲が良過ぎるのも困りもので、二人は仕事を忘れて、遊んでばかりいるようになったのです。すると、天の神様のもとへ、皆が文句を言いに来るようになりました。「織姫が機織りをしないので、皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」「彦星が世話をしないので、牛たちが病気になってしまいます」神様は、すっかり怒ってしまい「二人は天の川の、東と西に別れて暮らすがよい」と、言って、織姫と彦星を、別れ別れにしたのです。でも天の神様は、織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て、こう言いました。「一年に一度だけ、七月七日の夜だけ、彦星と会ってもよろしい」 それから、一年に一度会える日だけを楽しみにして、織姫は毎日、一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も、天の牛を飼う仕事に精を出しました。そして、待ちに待った七月七日の夜、織姫は天の川を渡って、彦星の所へ会いに行きます。

星空[編集]

織女牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、7日の月は必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。

グレゴリオ暦(新暦)では、月の満ち欠けは毎年異なるため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。

七夕を題材にした作品[編集]

音楽[編集]

映像作品[編集]

漫画[編集]

  • 七夕の国』(岩明均)古い七夕の風習が根強く残る土地と、その土地に深く関わる超能力の謎を描いた伝奇漫画

文学[編集]

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日本には淡路島などの地域に「七夕」というがある。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 詩経』の小雅、谷風之什の『大東』にも牽牛と織女の名が出ているが、恋愛伝説の形にはなっていない。
  2. ^ 『小説』の原典は失われているが、明代馮應京(ひょう おうきょう)が万暦年間に著した『月令広義』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 [1])。
  3. ^ 直近の例では、2006年7月31日が旧暦7月7日、8月30日が旧暦閏7月7日だった。旧七夕は新暦7月31日だけであり、年に2回行うことはない。
  4. ^ 中国では前日の8月23日。朔の瞬間から起算するため、時差により日本では1日遅い。

出典[編集]

  1. ^ 西村白鳥 編「煙霞綺談」吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年,582頁
  2. ^ 古詩十九首之十、迢迢牽牛星(無名氏)
  3. ^ 直木孝次郎 他訳注『続日本紀1』平凡社(東洋文庫457)1986年、237頁の注14
  4. ^ a b 中村義雄「七夕」『国史大辞典』
  5. ^ 山中裕「相撲節」『国史大辞典』
  6. ^ 中村義雄「乞巧奠」『国史大辞典』
  7. ^ 「乞巧奠」『日本国語大辞典』
  8. ^ 山中裕「乞巧奠」『日本第百科全書』
  9. ^ 倉石忠彦:民間伝承の分布から見た内陸文化の性格 信州大学人文学部 内陸文化研究 1: 61-79(2001), ISSN:1346-4108
  10. ^ 沖縄の暮らしと行事の事~旧暦を知る~
  11. ^ チルォルチルソッ(7月七夕)韓国観光旅行ガイド ソウルナビ
  12. ^ 鲁山七夕爱情节系列活动筹备就绪邢台天河山七夕爱情节老河口七夕爱情节
  13. ^ 冯骥才:七夕应为中国爱情节
  14. ^ 商业包装“七夕节” 传统女儿节失落的背后
  15. ^ 广东七夕节风俗习惯
  16. ^ 真相大公開”. 台南市進學國小. 2010年3月27日閲覧。
  17. ^ 何烱榮 (2002年9月30日). “拜七娘媽 鹿港小鎮仍流傳” (繁體中文). 聯合報. http://www.udn.com/2002/9/30/NEWS/TRAVEL/TAIWAN_NOTE/1011465.shtml 
  18. ^ 洪淑苓. “七夕” (繁體中文). 台灣大百科全書. 2010年3月27日閲覧。
  19. ^ 七夕まつりに37万人の人出/企業協賛で七夕飾り豪華に(八戸商工ニュース 2007年8月5日号)
  20. ^ 盛岡商工会議所ニュース第599号(盛岡商工会議所 2009年07月発行)
  21. ^ 復興支援目的、平日でも集客増 東北三大祭り閉幕河北新報 2013年8月9日) … 仙台七夕花火祭(約50万人)や夕涼みコンサート(約30万人)などの人出を含まない値。
  22. ^ 秋田県内の主な夏祭りの動向について (PDF)日本銀行秋田支店 2013年9月17日)
  23. ^ 平成22年「いわき夏まつり」入り込みについて(いわき市 2010年9月1日) … 平七夕の期間中に開催される「いわきおどり」の8万人を含む値。
  24. ^ a b 夏祭りの人出回復し322万人(上毛新聞 2012年9月5日)
  25. ^ 狭山市広報・お知らせ版 VOL.362 (PDF) (狭山市 2001年8月25日)
  26. ^ 市長の部屋 公務日記 平成25年度(ふじみ野市)
  27. ^ 事業評価シート【継続事業用】 茂原七夕まつり事業 (PDF) (茂原市)
  28. ^ 平成24年度 杉並区事務事業評価表 (PDF) (杉並区)
  29. ^ 平成25年8月定例記者会見(福生市)
  30. ^ 第63回湘南ひらつか七夕まつりが閉幕 3日間で170万人が来場(平塚市 2013年7月8日)
  31. ^ 来場者14万7千人 今年の高岡七夕まつり北國新聞 2013年10月29日)
  32. ^ 七夕の気分、最高潮 静岡の商店街、竹飾り100本以上朝日新聞 2013年7月7日)
  33. ^ 「I LOVE いちのみや(10分)」 8月19日~25日放映分(一宮市 2013年8月19日)
  34. ^ 多くの方のご来場、ありがとうございました(安城七夕まつり協賛会)
  35. ^ 山口七夕ちょうちんまつり、土日開催に山口新聞 2012年1月14日)
  36. ^ 大分市民の元気を改めて認識した3日間でした(大分市 2013年8月5日)
  37. ^ 国立天文台. “質問3-9) 七夕について教えて?”. よくある質問. 2011年7月25日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]