岩成友通

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岩成友通
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天正元年8月2日1573年8月29日
別名 主税助(通称)、石成友通、長信
主君 三好長慶義継織田信長

岩成 友通(いわなり ともみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将三好氏の家臣。姓は石成とも。通称は主税助。別名は長信(ながのぶ)とも。元亀元年から「長信」の名乗りを使用している[1]。 三好一族とは血縁のない人物だが三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における「出世頭」とも言われる人物である[2]

生涯[編集]

友通の出自は不明とされる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言している[3]室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある[4]他、備後品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる[5]。『東寺百合文書』所蔵の、三好元長の家臣塩田胤光が発給した文書に、「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる[6]。少なくとも、三好氏が阿波から連れてきた人物ではなく、松永久秀同様畿内で新たに登用した人物である[7]

史料における初見は1550年である[8]。北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される[9]

天文20年(1551年)11月には、で開かれた天王寺屋津田宗達津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる[10]。永禄5年(1562年)に六角義賢京都に侵入した時は室町幕府13代将軍足利義輝の警護を行った。

長慶の死後、三好三人衆(他の2人は三好長逸三好政康)の1人として甥の三好義継の後見役を務めた[11]。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺永禄の変)をはじめ他の三人衆と行動を共にし、松永久秀畠山高政としばしば戦った。

永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房革嶋一宣らの立て籠もった勝龍寺城を攻める[12]。そしてこれを陥落させる。友通は敵対した土豪達を厳しく追及し、革嶋一族を始め多くの土豪が土地を追われる。そして、手に入れた土地の多くを、新しい領主に与えた。友通はこのまま勝龍寺城を居城とし、山城国西岡を支配した。これは、勝龍寺城を拠点に、西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される[13]。また、勝龍寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった[14]。石成友通はそうした点から、勝龍寺城の「最初の城主」とも評される[15]

永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北している(東大寺大仏殿の戦い)。永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、長逸、政康、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで[16]強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝龍寺城と摂津池田氏が籠る摂津池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の元に結束していたことの証とされる[17]

敗退の推移について、多聞院日記言継卿記によれば、1568年の9月27日に友通は信長に抵抗して勝龍寺城へ籠城したとある[18]が、9月29日には落城している[19]。言継卿記の翌年1569年の1月8日の記述によれば、勝龍寺城には細川藤孝が入城している[20]。友通が勝龍寺城城主であったこの時期には、光源院から勝龍寺城城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている[21]

永禄12年(1569年)には信長の庇護下にあった義輝の弟・15代将軍足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変[22]

この後、織田氏に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつごんない)[23]と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い[24]。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と伝えている[25]。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した[26]

長逸は行方不明となり、政康は既に没していた[27]。結果、三好三人衆は完全に崩壊した[28]

文芸における岩成友通[編集]

1867年、歌川芳幾によって描かれた「太平記英雄伝」という書物に、岩成友通は描かれている。この作品は、戦国時代に活躍した武将達を題材にした作品である[29]。 将軍義輝を三好政康や松永久秀と共に殺害した、信長に降伏した後再度蜂起し細川藤孝に討たれた、などのことが紹介文として浮世絵に添付されているが、居城が「青竜寺城」になっていたり、討ち取った武者が「津川権平」という名前になっていたりと誤謬が多い[30]

また名前も「岩成左道」(いわなりすけみち)と表記されている[31]

しかしながら、三好三人衆を題材とした絵画は非常に貴重である[32]

この浮世絵における友通は荒々しい髭を蓄え、敵を組み伏せている武者として描かれており[33]、これは作者のイメージに過ぎないものの、江戸時代末期における岩成友通に対する世間のイメージが反映されていると評されている[34]

宗教・信仰[編集]

ルイス・フロイスの『日本史』において、岩成友通は三好釣閑斎宗渭(三好政康)と共に、「神の掟の敵」と呼ばれている[35]。「教会の友人」とフロイスから呼ばれ、キリスト教に対して理解を示した三好長逸と異なり、友通は、あまりキリスト教に寛容ではなかった。

脚注[編集]

  1. ^ 天野(2014)・176頁
  2. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』195-196頁
  3. ^ 今谷・206頁
  4. ^ 今谷・206頁
  5. ^ 天野、P204 - P206、P296。
  6. ^ 天野(2014)・175頁
  7. ^ 天野(2014)・175頁
  8. ^ 天野(2014)・176頁
  9. ^ 天野(2014)・176頁
  10. ^ 今谷・206頁
  11. ^ 今谷、P206、P230、P240。
  12. ^ 仁木・85頁
  13. ^ 仁木・85頁
  14. ^ 仁木・85頁
  15. ^ 仁木・85頁
  16. ^ 今谷・264頁
  17. ^ 仁木・86頁
  18. ^ 仁木・60頁
  19. ^ 今谷・265頁
  20. ^ 仁木・60頁
  21. ^ 仁木・60頁
  22. ^ 今谷、P252 - P267、福島、P132 - P142。
  23. ^ 今谷・271頁
  24. ^ 今谷、P267 - P272、谷口、P173 - P174。
  25. ^ 今谷・271頁
  26. ^ 271頁
  27. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』205頁
  28. ^ 今谷・271頁
  29. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』196頁
  30. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』195-196頁
  31. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』196頁
  32. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』196頁
  33. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』196頁
  34. ^ 今谷・天野監修『三好長慶』196頁
  35. ^ 若松・109頁

参考文献[編集]

関連項目[編集]