鉄甲船
鉄甲船(てっこうせん)は、戦国時代において織田信長が九鬼嘉隆に命じて、毛利水軍・村上水軍に対抗するために建造させた大型の安宅船。
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建造の背景[編集]
永禄11年(1568年)、美濃国・尾張国を治めた戦国大名の織田信長は、室町幕府将軍家の後継者である足利義昭を擁して上洛を果たしたが、その後も三好氏などと対立を続けていた。また、1570年以降、足利義昭との関係も険悪となり、いわゆる信長包囲網が敷かれることとなった。この信長包囲網の一角を担ったのが中国地方の毛利氏及び浄土真宗の本山である本願寺で、特に本願寺は石山本願寺を拠点として抗戦を続けていた。信長は石山本願寺を包囲して攻略しようとしたが、海上から毛利氏の支援があったため、これを断つべく水軍を送り込むが瀬戸内海、特に因島、能島などの村上水軍を掌握した毛利氏に敗北を喫した(第一次木津川口の戦い)。
この敗北を受けて、信長は伊勢志摩の豪族であり、水軍を率いた九鬼嘉隆に命じて作らせたといわれるのが鉄甲船である。どのような船であったか、特にその最大の特徴である鉄板などによる装甲があったのかという点では議論があるものの、九鬼嘉隆は第二次木津川口の戦いにおいて何らかの新造船を用いて毛利氏の派遣した水軍に挑み、大砲でこれを破った点は事実である。なお、6隻建造とされたとされる本船が、第二次木津川口の戦い以後、どうなったかは不明であるが、信長の死後は大阪湾に投錨したまま放棄され、朽ちていったという話や解体されて数隻の小早などに作り直された話などが伝わっている。
石山合戦のターニングポイントとなった第二次木津川口の戦いの主力艦でありながら、600隻の軍船からなる毛利氏の水軍に勝利したという伝説的戦果の真否や、その寸法、鉄による装甲の有無、その最期など、様々な点で謎に包まれた存在となっている。
要目[編集]
本船の存在は信長の側近・太田牛一の著した『信長公記』、多聞院の英俊が記した『多聞院日記』、宣教師オルガンチノのルイス・フロイス宛の報告書などに記載が見られるが、詳細については詳らかではなく、未だ定説を見ていない。明らかなのは大砲をいくつか搭載していたということである。
寸法[編集]
『多聞院日記』によると長さ12~13間(21.8m~23.6m)、幅7間(12.7m)と記述されている。
これは天正元年(1573年)に琵琶湖湖畔の佐和山において、丹羽長秀の指揮のもと、寸法が長さ30間(約55m)幅7間(12.7m)の大船が建造された例(『信長公記』)が存在するため、建造不可能とはいえない寸法である。反面、『多門院日記』による寸法ではこの丹羽長秀による大船よりも大幅に船長が短く、縦横比が低いために航走には適さない船型である。
装甲[編集]
本船は船体を厚さ3mm程度の鉄板で覆い、村上水軍が得意とした焙烙火矢に対する装甲としたと伝わる。
しかし、これを直接的に示している同時代の史料は『多門院日記』しかなく、その『多聞院日記』も「鉄の船なり。鉄砲通らぬ用意、事々敷儀なり」という伝聞の記述である。第二次木津川口の戦いについて詳細に記載しているオルガンチノの報告書では、「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られていることは驚きだ」とあるだけで装甲の有無には触れておらず、『信長公記』においても装甲の有無については記載がない。このため、鉄張り装甲を持っていたのか、という点が疑問となっている。
信長の鉄甲船はいまだ謎に包まれているが、秀吉が鉄の装甲を持った大型船を建造したことは『フロイス日本史』に明確に記述されている。
名護屋からジョアン・ロドゥリーゲスは一書簡を送付してきたが、彼はその中で次のように述べている。 「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。 それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。 相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。 そして全て甚だしく美しく塗金されています。 それは大いに鑑賞に値するもので、私は時々それらの船に入ってみました。 同署にありました船を測ってみましたところ、長さ十九畳ありました。 数名のポルトガル人たちは、それらの船舶に入ってみて肝を潰していましたが、それらの船は弱体で、船骨に欠(陥)が あったために、幾隻かは裂けて沈没してしまいました。
いずれにせよ鉄板を用いた場合、海水と潮風によってかなりの速度で錆び、腐食してしまうため、かなり限られた期間しか使用できなかったと考えられる。
後の時代だが、徳川秀忠が幕府御船手頭向井忠勝に建造させた史上最大級の安宅船「安宅丸」は、総櫓及び船体の総てに防火・防蝕を目的とした銅板貼り[1]が施されていた事が幕府の公式な記録[2]から確認されている。安宅丸が建造された1635年には、軍船の表面に金属板を貼るアイディアと技術が存在していた事は確認できる。この船は50年近く運用された。
乗員[編集]
『多聞院日記』によると、「人数五千人程のる」とあるが、その寸法からこの人数を載せることは難しいと考えられる。一方で『多聞院日記』は伝聞によるものであり、『信長公記』には6隻建造した旨が記載されており、5000人とは6隻の合計人数であり、1隻当たり800人強であるとする意見もある[3]。
動力[編集]
本船の動力については特に記載はないが、通常の安宅船と同じく櫓、および起倒式の木綿帆によるものと推定されている。仮に鉄張り装甲を施していた場合、重量を増した船がこの方式で実用に耐えうる速度で航行できるかは不明である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
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