亀甲船

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想像と現代的解釈を基にした亀甲船の模型。史料としてこのようなものが存在したとは裏付けられてはいない。特に上部を鉄板で覆った構造は批判された。

亀甲船(きっこうせん、きこうせん、朝鮮語読み;コブッソン、거북선)とは、李氏朝鮮時代に存在したとされる朝鮮水軍の軍艦の一種。日本では一般に「亀甲船」の通称が用いられているが、本来は「亀船」と呼ばれる船である。

史書の記録[編集]

亀甲船は複数の史書にその存在が記されている軍艦であるが、現存する船体がない事、史書の記述があいまいな事から詳細は明らかではなく、実在が疑問視される艦である。亀船についての記述が初めて登場するのは15世紀の太宗実録である[1]豊臣秀吉による文禄・慶長の役で実際に運用されたとされるが、朝鮮側の記録にもたった5隻建造されたと書かれているに過ぎず、日本側の記録にはその存在を伺わせるものはまったく登場しない。

  • 李舜臣行録
    「亀甲船の大きさは、板屋船(当時の主力戦艦)とほぼ同じく上を板で覆い、その板の上には十字型の細道が出来ていて、やっと人が通れるようになっていた。そしてそれ以外は、ことごとく刀錐(刀模様のきり)をさして、足を踏み入れる余裕も無かった」、「前方には竜頭を作り、その口下には銃口が、竜尾にもまた銃口があった。左右にはそれぞれ6個の銃口があり、船形が亀のようであったので亀甲船と呼んだ」、「戦闘になると、かや草のむしろを刀錐の上にかぶせてカモフラージュしたので、敵兵がそれとも知らず飛び込むとみな刺さって死んだ。また、敵船が亀甲船を包囲するものなら、左右前後から一斉砲火をやられた」

亀甲船(亀船)が具体的に登場する史書は、『李舜臣行録』と『忠武公戦書(李忠武公全書)』(『乱中雑録(乱中日記)』)のみで、名前だけが登場するものに『太宗実録』などがある。

実像と虚像[編集]

上記の『行録』などの記述をそのまま絵にしたもので、亀甲船の想像図。少なくとも18世紀以後に描かれたものであり、史料価値はほとんどない。

亀甲船に対しては当時の朝鮮海軍の動向と同じくらい韓国国内で関心が高く、研究の対象となっている。なぜならば日本軍の唐入りの際、朝鮮半島に攻め寄せる、日本水軍を迎撃する為に用いられた船であり、愛国感情を高揚させる存在だからである。

ただ、それが行き過ぎた結果、亀甲船の研究はしばしば現実離れした結論やあり得ない推測が出される事がある。実際には「亀甲船は世界初の装甲艦であった」や「日本海軍を撃破した」等の説は立証されていない俗説である。

現在、(右上の写真にある)復元され韓国鎮海に展示されている亀甲船はこれら架空の設定を反映した装甲艦であり、設計した人物が史書の「李忠武公全書」にある約700字程度の記述と絵図を現代の造船学に当てはめて無理矢理解釈したものである事から、実在した亀甲船とは大きく異なる軍艦であったと思われる。

現実の亀甲船は不明[編集]

現実の亀甲船は、絵のようなものが存在したと仮定するならば、木造船の一種で手漕ぎの突撃艇であると推測することは可能である。史書の「李忠武公全書」に装甲艦であると指摘できる記述が存在しない事からも装甲艦とは見なすことはできない。帆があるともないともいわれるが、天蓋の上部に足場がほとんどないという記述から、いずれにしても戦闘中は帆の操作はできなかったと思われ、漕走に頼ったものと推測される。渡洋能力については不明で、沿岸部でしか行動できなかったであろうという推測もある。史書で亀甲船が登場する海戦はどれも浅瀬の多い場所であった。

また李舜臣が造らせたとする建造数がわずか5隻であったことからも、その用途が非常に限られていた可能性が指摘される。同じ史書の内容では、明・朝鮮水軍は数十から数百隻を動員しており、保有艦船の中の亀甲船の比率は著しく低い。これは日本水軍を撃退したのが亀甲船のおかげではなかったことを示唆する。

内外の批判が絶えないため、韓国では実際の亀甲船を発見しようという考古学的な試みが何度か行われている。2008年には、韓国企業が共同出資した資金を基にして韓国海洋科学技術など3つの機関がコンソーシアムを形成し、七川島周辺の海域を探査した。しかし16世紀の遺物を見つけるだけでも困難であり、今のところ調査は成果を上げていない。

観光用として[編集]

現在、昌原市鎮海区海軍士官学校博物館で研究者らにより、想像に基づいて創作された亀甲船が展示されている。同海軍士官学校の学生は、在学中に一度は必ず亀甲船での航海を体験し、創作と歴史が入り交じった架空設定の伝統を学ぶ。毎年、の花が咲く十日間の軍港祭期間中のみ一般公開されており、十人程度の一般客が乗り込む事ができるようになっている。

韓国では、歴史研究というよりも、地方の観光の目玉として亀甲船を復元しようという動きが多く、時代考証は軽視されている。2011年には新説に基づいて3階構造の亀甲船と板屋船など4隻が新造された[2]

2013年1月、巨済島に運ばれて水上展示される予定だった亀甲船の想像による再現船が、曳航中に沈没した。製作費は7億ウォン以上を要したとされる[3]

ゲーム等の創作物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『太宗実録』十三年二月五日甲寅
    上過臨津渡觀龜船倭船相戰之狀
    『太宗実録』十五年七月十六日辛亥
    其六龜船之法衝突衆敵而敵不能害可謂決勝之良策更令堅巧造作以備戰勝之具
  2. ^ “3階構造の亀甲船を復元して観光商品に”. 中央日報. (2009年12月11日). http://japanese.joins.com/article/822/123822.html 
  3. ^ “거제 오던 ‘거북선’ 여수 앞바다서 침수”. newsgn. (2013年1月15日). http://www.newsgn.com/sub_read.html?uid=35247 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]