桶狭間
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桶狭間(おけはざま)は、愛知県の豊明市と名古屋市緑区の有松町(どちらも旧愛知郡)にまたがっている古戦場跡と推定される丘と、その北側にある手越川の谷間=狭間のこと。桶狭間の戦いで知られる。文献によっては、桶廻間とも記されてきた。
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[編集] 桶狭間の地理
桶狭間の戦いの場と伝わる丘は、東海道沿いの有松(名古屋市)の約1km東にある。すなわち現在の名鉄名古屋本線が狭間と推定される谷ぞいに走っており、中京競馬場前駅西の豊明市栄町にある高徳院境内の西南に広がる丘に到る。そこが、信長公記のいう今川義元が本陣を置いていた桶狭間山であるという文献的な証拠はない。これは、「『信長公記』に記された桶狭間山という名前の山は今に伝わっていない。」と、豊明市史も認めており、それは、むしろ北側の名鉄が走る手越川の走る谷が「桶狭間」の狭間であると古来地元で言い伝えられてきたことから、その南の山であろうと推定されてきたのが実情である。[1]
しかし、江戸時代以前の東海道である鎌倉海道(鎌倉街道)が、その北方を通っていること、名鉄が通る鳴海潟から続く手越川の谷間以外に、この地域に鳴海方面から来る「狭間」という言葉にふさわしい谷が見当たらないので、その南の丘一帯が桶狭間合戦の地と、江戸時代以来推定されてきた。
今川義元が死亡した場所については、この現在墓もある高徳院付近かどうか定かでない。信長公記では、ただ、信長が、雨をついて義元の陣のある桶狭間山に攻撃をかけたのが、現在の名鉄本線が走る谷間と推定される山の北西の「狭間」からだったと伝えるのみである。
近年、今川義元に酒肴を供していたという記録がある、長福寺のある緑区有松町側の桶狭間山南西の平野に降りてゆく側で死亡したのではないかという新説も浮上しているが、その証拠は無い。そこは古来瀬名氏の陣があった場所と伝わる。
それどころか、南側の有松側の古戦場跡公園は、もっぱら長福寺にある、「今川義元公西上ノ途次、此ノ地二休ミタル・・・」の記録に基づくもので、逆に、この寺の北東に続く、いわゆる桶狭間山と推定されてきた丘が、現実に、信長公記のいう「おけはざま山」であると推定できる唯一の文献的証拠となっている。[2]
現在の地理上の名称では、名古屋市緑区の有松町(名古屋市に合併される前は愛知郡有松町)と豊明市栄町の境界が丁度この丘の上を通っており、また愛知用水が走っている。この丘の南西側の有松町内の平地にも、桶狭間の町名やその名を冠した公園があるが、同じ一続きの丘の北と南にあたり、地元においては、丘のどちらの側に本陣があったかという議論はあっても、二つの桶狭間山があると認識されてきたことはない。[3]
マクロに見れば、有松町内の長福寺界隈も、従来の桶狭間山の伝説地と同じ山の西南の端であることは地形的に明白で、結局高徳院脇の桶狭間古戦場伝説地の伝承にのっかった上で、その同じ山の南端に義元の本陣があったと主張していることになる。
[編集] 桶狭間の地形と田楽ヶ窪(窪田)
この一帯は、地形上は、現在の名古屋市守山区、名東区、天白区、緑区から続く、名古屋東部丘陵地帯の南部の丘の一つで、高徳院付近は標高40メートルくらいである。元々、旧愛知郡だったこれらの名古屋東部の丘陵地帯は、水に乏しい土地だったため、室町時代頃から浸食谷の頭を堤でせきとめたため池の水で灌漑してきた歴史がある。池の周囲に窪田が広がる他は、馬が走るのに適した原と丘であった。昭和30年代になってから、愛知用水で灌漑されて水田が広がったという経緯がある。[4]
桶狭間山から東に数キロ行った豊明市内沓掛城跡に至る途中、すなわち鎌倉街道の幹線道路である二村山の宿場近くに、現在、「田楽が窪」の地名がある。今川義元が合戦の前に田楽踊りを踊る地元の供応を受けていたという説もあるが、これは根拠が乏しく、豊明市側も認めたことはない。ただそこが、名古屋東部丘陵一帯に一般的な、ため池を伴う典型的な窪田があり、戦国時代には、こうした窪田の開発とあいまって、信長が好きだった田楽が盛んに踊られていたというだけで、同様な窪田は、桶狭間山南方の豊明から有松にかけては多い。
信長公記では、松平・今川勢が、こうした窪田にはまり込んで、逃げられなかったことを明確に記録する。桶狭間山南部から沓掛城に伸びる古くからの平野ぞいの道と、現在の国道1号線がクロスする前後町に、松平・今川勢の戦没者を埋めたとされる、戦人塚がある。ちなみに信長記と異なり、公記では、義元側は輿を捨てて、初めは300騎の旗本が取り囲みながら退却したが、織田方の騎兵と歩兵に追いつかれて取り囲まれた乱戦の中、50騎に減り、最後に義元が、服部春安の膝を切ったところを、後ろに迫っていた毛利良勝に、首を伐たれて死んだことが書かれているので、馬で退却する途上で死んだと読め、狭間付近で死んだのでないことが読み取れるが、退却の方角は不明である。
なお、以上の田楽が窪と呼ばれた窪田と、桶狭間山の、二つのイメージが合体されて、桶狭間古戦場跡地付近は、通称、田楽狭間とも呼ばれてきた。
桶狭間山の南側は、名古屋東部丘陵の南端にあたり、国道23号線や東海道本線が通る広い平地であって、窪田は多いが、狭間と呼べるような谷はない。谷あいの狭間になっているのはあくまでも、国道1号線が走る桶狭間山の北の手越川ぞいのみである。
名古屋東部丘陵から知多半島の丘陵地帯にかけては、この桶狭間山の南方が広い平地で、鎌倉時代以前から田が広がっており、特に有松の氷上姉子神社付近は、日本武尊が草薙剣を置いて行った妻、宮津媛の館跡と伝わり、熱田神宮と同様、尾張氏発生の地で古墳が多い。この平地の南には、知多半島の丘陵地帯がまた続いている。
[編集] 戦国時代における鳴海潟、鎌倉海道、桶狭間の地勢的関係
尾張国は桶狭間の戦い以前は、守護斯波義銀の領地で、桶狭間山のある名古屋東南方面は、まだ織田信長の勢力下に完全に入っていなかった。むしろ支配力があったのは、熱田神宮と氷上姉子神社で、現に、信長公記によると、最初、いわゆる正面攻撃説のルートそのものの手越川ぞいに出撃し、左京山付近で今川方に討たれた、偵察部隊らしい千秋四郎季忠は熱田神宮の宮司家であり、桶狭間で義元公の首をとった毛利十郎良勝も、熱田の領主である。
隣の三河国は後に徳川家康となる今川義元の娘婿松平元康の領土があったが、三河の海よりの平野部では、桶狭間の戦い以前は、吉良義昭の勢力が強く、桶狭間から大高にかけては、吉良氏・松平氏と組む形で、今川氏が進出していた。
一方、尾張国の織田氏は、信長の父織田信秀以来、末森城から守山城を経て、名古屋東部丘陵地帯ぞいに山城から山城へ、北から南に勢力を伸ばしていたため、織田信長=守護斯波義銀側と、三河国の吉良義昭=今川義元側との間で、すでに尾張東南部から西三河まで領地紛争が続いており、信長公記は、現在の、岡崎市小豆坂、豊田市上野原での両陣営の衝突、睨みあいを記録している。
いわゆる桶狭間の戦いは、その積年の領土紛争の最終段階と言える。結局、平野ぞいに大高から伊勢湾に進出し、名古屋西部の富田の港まで船で進出していた今川氏側陣営が敗北し、岬の突端の熱田神宮と組み、丘の上の山城を押さえていた、織田信長側が勝利したということになる。さらに、戦勝後、守護斯波義銀が、今川勢を海沿いに大高から熱田に引き入れる画策をしていたことが発覚したため、吉良義昭とともに信長に追放されたことを信長公記が記録しており、織田信長による尾張の統一、松平元康による三河の統一をもたらす結果となった。
ここで、桶狭間の合戦の織田方のルートを考える上で参考となるのは、鎌倉時代から室町時代の東海道である鎌倉海道(尾張の鎌倉街道)が、桶狭間山の500メートルから1キロメートル北を走り、名古屋東部丘陵の上を走っていることである。そのルートは熱田・笠寺の港から陸路、有松・桶狭間方面に行くには、現在では天白川に狭まっている古代からの阿由知潟=鳴海潟(その南端は信長公記に言う黒末川の入江=現在の天白川と扇川一帯の干潟。)を避けるために、一旦北東に迂回して飯田街道ぞいに八事山の南の中根に至り、干潟の浅瀬を渡って天白区野並のすぐ南の緑区古鳴海に至る。そこから丘沿いに鳴海城の北の丹下砦まで南下し、善照寺まで続く石垣の上の台地の上をゆく。そこから緑区相原郷付近で黒末川(扇川)の河口を横切り、沓掛をめざすのが当時の鎌倉海道の幹線である。[5]
このため岬の突端であった笠寺や熱田の宮の渡しから鳴海まで直進するには、まだ船で渡ったのが、信長の時代の地形である。鳴海城の石垣の南の干潟=江戸時代の東海道鳴海宿を通れたのは、干潮の時に限られ、満潮時には水没するので、鎌倉海道の中の尾張の手前の難所として知られていた。この一帯の埋め立てが始まったのは、信長自身による天正年間の長篠の合戦頃の街道整備によるものであり、完成したのは慶長年間で、有松まで含めた手越川ぞいの宿場町が完成したのは江戸時代になってからである。
[編集] 鳴海宿経由か鎌倉海道経由か?(議論の核心)
そこで桶狭間の戦いの「迂回説」や近頃はやりの「正面攻撃説」を検証するには、具体的にどういう意味の迂回説・正面攻撃説なのか明らかにする必要がある。後に東海道の鳴海宿となる鳴海城付近から中島砦を経て、鳴海干潟のもう一つの入り江だった手越川の北岸を走る江戸時代の東海道ルートを、本当に信長が通過した(正面攻撃説)か、やはり、善照寺から相原郷経由の鎌倉時代以来の丘の上の鎌倉海道(鎌倉街道)を行った(迂回説)か、地元の地理に照らして明白にする必要がある。
江戸時代からの尾張藩など地元の研究者たちが推定してきた迂回説は、国道1号線と並行する江戸時代の東海道から、一旦太子ヶ根の北の丘の上に迂回して、狭間にいる今川義元を撃ったという信長記が記す、芝居で広がった亜流のものとは違う。
この信長記とは違う、地元の古い迂回説は、信長公記どおりに進みつつ、鳴海の善照寺からも主として丘の上の鎌倉街道を進み、黒末川(扇川)河口の海になる干潟が尽きて川となる相原郷中島から、鎌倉海道の丘を進んで、現在の有松の北を経て桶狭間に出るとするルートである。このルートは、当時の感覚では迂回ではなく、室町時代以前の東海道の幹線で、その途中から分かれる知多半島に抜ける支線の刈谷街道は、相原郷南方の八幡社付近から、有松東の太子ヶ根(大将ヶ根)地区で手越川の狭間に至り、桶狭間山の正面に至るルートで、本質的に正面攻撃説とあまり変わらない。
そこで、近年の正面攻撃説は、狭間に続く江戸時代の水没しがちな手越川から扇川が合流する干潟の中の江戸時代の東海道を、中島砦(東海道鳴海宿中島橋付近)から、南の手越川ぞいに桶狭間山まで直進したとする部分だけが、この古来からの迂回説と異なる考え方になる。
実際、豊明市の桶狭間古戦場伝説地にある古地図を基にした地図(冒頭写真)も、鳴海城の南の黒末川(現在の扇川)の入海の干潟の北岸の中島村[6]を経由し、相原郷付近から鎌倉街道を通り、途中で現在の有松の方面に抜ける間道を経て、太子ヶ根付近で手越川の狭間に出るという意味の、現代の正面攻撃説に近い迂回説を採っている。なおかつ中島砦付近の南に扇川が流れており、信長公記で、中島の南側に黒末川の入江があるという当時の地形の記述に一致している。(以下鎌倉海道関連部分を信長公記より引用)
- 「一、鳴海の城、南は黒末の川とて、入海塩の差し引き、城下までこれあり。東へ谷合打ち続き、西又深田なり。北より東へは山つゞきなり。城より廿町隔て、たんげと云ふ古屋しきこれあるを御取出にかまへられ、水野帯刀・山口ゑびの丞・柘植玄蕃頭・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉、東に善照寺とて古跡これ在り、御要害に侯て、佐久間右衛門、舎弟左京助をかせられ、南中島とて小村あり。御取出になされ、梶川平左衛門をかせられ、 一、黒末入海の向ふに、なるみ、大だか、間を取り切り、御取出ニケ所仰せ付けらる。 一、丸根山には、佐久間大学をかせられ、 一、鷲津山には、織田玄蕃・飯尾近江守父子入れをかせられ侯ひき。・・・・浜手より御出で侯へば、程近く侯へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸げさせられ、先、たんげの御取出へ御出で侯て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、御敵今川義元は、四万五千引率し、おけはざま山に、人馬の休息これあり。
- 「信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へぱ、瞳とかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。是れを見て、義元が文先には、天魔鬼神も忍べからず。心地はよしと、悦んで、緩々として謡をうたはせ、陣を居られ侯。信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深困の足入り、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。此の時、二千に足らざる御人数の由、申し侯。中島より叉、御人数出だされ侯。今度は無理にすがり付き、止め申され侯へども、爰にての御諚は、各よく貼承り侯へ。あの武者、宵に兵粮つかひて、夜もすがら来なり、大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手なり。其の上、小軍なりとも大敵を怖るゝなかれ。運は天にあり。此の語は知らざるや。懸らぱひけ、しりぞかば引き付くべし。是非に於いては、稠ひ倒し、追い崩すべき事、案の内なり。分捕なすべからず。打拾てになすべし。軍に勝ちぬれば、此の場へ乗りたる者は、家の面日、末代の高名たるべし。只励むべしと、御諚のところに、前田又左衛門毛利河内毛利十郎木下雅楽助中川金右衛門佐久間弥太郎森小介安食弥太郎魚住隼人右の衆、手々に頸を取り持ち参られ侯。・・・」
以上の信長公記の原文では、文字どおり善照寺(佐久間右衛門を置いた地)から、単に「中島(善照寺砦の石垣の下の扇川の干潟の北岸の中島村)」に降りた後、狭間に直行したと読め、相原郷から鎌倉海道を進んだ可能性が高い。江戸時代に海岸線を埋めて作られた東海道鳴海宿中島橋付近から南の手越川を直進した場合通るはずの「中島砦」を経たという記載や、中島砦の南を流れ左京山近くで手越川に合流していた黒末川の入江に至る記述が信長公記にないことから、いわゆる近年の正面攻撃説より、古来の迂回説の方が原文にむしろ近い。同時に、熱田神宮神官の千秋四郎季忠・佐々隼人隊を全滅させた左京山の今川前衛部隊のいた場所を通る矛盾もない。[7]
[編集] 参照・出典
- ^ 豊明市史編纂委員会編「豊明市史」P142桶狭間の合戦 栄町南館にある国指定史跡「桶狭間古戦場伝説地」の南西約700mに位置する三角点、標高64.7m付近が一番高く、この辺りを当時の桶狭間山と考えるならば、付近一帯で戦いが展開されたと考えられる。
- ^ 愛知県郷土資料刊行会編「緑区の歴史」P262桶廻間合戦の伝承 寺院に関する調査の長福寺の条に、『永禄三年五月十九日、今川義元公西上ノ途次、此ノ地二休ミタル時、此ノ寺ノ僧侶等酒肴ヲ献シタリト云フ。戦後今川義元公、松井八郎等ノ木像ヲ安置ス』とある
- ^ 中日新聞連載記事「桶狭間動くー合戦から450年を前に(上・中・下)」2009年5月4・5・6日報道によると、名古屋市有松町と豊明市は合同で今後、桶狭間の合戦関連のイベントを盛り上げてゆくことを考えている。とかく桶狭間山が市町村の境界であるがゆえに、位置が実際以上に全く不確定と思われ、観光面で熱心に宣伝されてこなかったことを改めようとしている。
- ^ 「愛知県の歴史」塚本学 新井喜久夫著 山川出版社
- ^ 『延喜式』に尾張の駅として、馬津、新溝、両村の三駅を挙げる。両村は豊明市の沓掛町であり、新溝は古渡の辺りであろう。鎌倉街道と呼ばれる道筋は沓掛と古渡とを結んでいたから、それ以前の官道もおおむね同じ道筋ではないかと思われる。 尾張東部における中世の東海道は、甲、江戸時代の東海道の原型の道筋、乙 江戸時代の東海道とは全く別の道筋 の二つがある。甲は海岸よりの道で、中世末期には江戸時代の東海道とおおむね一致するものの古くは違う道筋もあった。乙は山寄りの道で、一般に鎌倉海道と呼ばれる道である。これは一筋とは限らない。 鳴海町内では、甲の道筋は、江戸時代の東海道とほとんど一致していた。ただし古い時代には、今の天白川に当たる入り江を徒歩でなく船渡ししていたときもあり、山王山(字三王山)の下から船が出たと考えられる。 乙の道筋は、沓掛から二村山、字八ツ松を経て字相原郷に到る。字相原郷からは字古鳴海に向かう道と、山王山に向かう道の二筋に分かれた。古鳴海からは陸路を野並に向かうほか、桜に船渡しする道も伝えられている。
- ^ 「緑区の歴史」瑞泉寺によれば、この干潟部分の瑞泉寺付近の字相原も中島と呼ばれていた。
- ^ 「緑区の歴史」P132桶廻間合戦 浜手の道は、後の東海道を言い、新田開発以前には海岸線に沿った道である。小豆坂合戦に織田方が使用した道なので、こちらが順路であろう。かみ道とはすなわち上手の道で、旧来の鎌倉海道である。熱田鳴海間の距離は、浜道が50町、かみ道が三里とされていた。信長が通った道につき「日本戦史桶狭間役」付図に、大喜、井戸田、新屋敷を経て古鳴海に来たとし、「知多郡桶廻間合戦の記録」には、井戸田、中根より八事を経たと記録される。・・・善照寺砦に入った信長は南の中島砦に移り、さらに中島砦から出て今川軍に当たろうとした。・・昼に義元の陣の北方、太子ヶ根に至り、機をうかがった。・・・


