上野秀政

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上野 秀政
時代 室町時代 - 戦国時代
生誕 不明
死没 1582年
別名 上野大和守
幕府 室町幕府奉公衆
主君 上野清信真木島昭光足利義昭明智光秀足利義昭
氏族 上野氏
父母 上野清信
真木島昭光
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上野 秀政(うえの ひでまさ、生年不詳 - 1582年)は、戦国時代武将明智光秀などに仕えた。

生涯[編集]

上野清信の養子となる。真木島昭光の家臣として生まれたとも考えられている。

1571年に大名であった織田信長が出した書状に「農民の押妨停止」の役人として上野秀政と明智光秀が候補として上がっている。また1572年には足利義昭側近の公方衆として細川藤孝三淵藤英、明智光秀らと共に仕えていた。その後は独立したとされる。

また、室町幕府内では早くから織田信長を敵視し、取次を務めていた武田信玄と通じて、足利義昭に信長排除を勧める中心人物であったとする見方がある[1][2]

1582年に起きた本能寺の変後、仕えていた明智光秀が死去したのち、真木島昭光が足利義昭のために秀政を暗殺したとされる[3]

脚注[編集]

  1. ^ 久野雅司「足利義昭政権滅亡の政治的背景」『戦国史研究』第74号、2017年。 
  2. ^ 久野雅司「足利義昭の蜂起と〈天下静謐〉をめぐる抗争」『織田信長政権の権力構造』、戒光祥出版、2019年、P209-211.
  3. ^ 上野秀政とは 明智光秀の家臣に見られる奉公衆”. 武将人物情報・史跡情報「歴史観」. 2022年1月8日閲覧。