ポルトガル領インド

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ポルトガル領インド
Estado da Índia
グジャラート・スルタン国 1510年 - 1961年 インド
ポルトガル領インドの国旗 ポルトガル領インドの国章
(国旗) (国章)
国の標語: なし
ポルトガル領インドの位置
公用語 ポルトガル語
首都 ノヴァ・ゴア
元首等
1511年 - 1521年 マヌエル1世
最初の副王
1505年 - 1509年 フランシスコ・デ・アルメイダ
変遷
ビジャプール藩国の滅亡により成立 1510年8月15日
インドによる併合で消滅 1961年1月14日
通貨 ポルトガル領インド・ルピーのちにポルトガル領インド・エスクード

ポルトガル領インドÍndia PortuguesaまたはEstado da Índia)は、インドにかつて存在したポルトガル植民地イギリス領インド帝国が1947年に独立した当時、ポルトガル領インドはインド西岸の飛び地ゴアダマンディーウ、現在のダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄地域を所有していた。ポルトガル領インドの領土は、ゴアと総体してみなされることもある。

初期[編集]

ガマ

最初にポルトガルがインドに足跡を残したのは、1498年5月20日、ヴァスコ・ダ・ガマカリカット(現在のコージコード)に上陸した日であった。アラビア商人の反発を受けながら、ガマはカリカット地域の首領ザモリンから、通商権の許可を示すあいまいな書簡を手に入れた。しかし、後にザモリンに品物全てを置いていくよう迫られるのと平行して、彼は通知なしに出航しなければならなかった。ガマは商品を渡さなかったが、貿易準備の命を下して数名のポルトガル人を残した。

1510年、ポルトガル提督(のちにポルトガル領インド総督)アフォンソ・デ・アルブケルケビジャプール藩国を打ち負かし、ヴェーリャ・ゴア(旧ゴア)に恒久の植民地を手に入れた。南端の地域は短縮してゴアと呼ばれ、ポルトガル領ゴアの中心地となり、アジアにおけるポルトガルの領土を治めるポルトガル副王の所在地とした。

インドにあったヨーロッパ諸国の植民地

ポルトガルはムザッファル朝英語版グジャラート・スルタン国英語版グジャラート)のスルタンから数カ所の領土を得た。ダマン(正式併合1539年)、サルセッテ、ボンベイ、バサイム(1534年占領)、ディーウ(1535年併合)である。これらの領土はポルトガル領インドの北部地域となった。ダマンからチャウルまで海岸沿いに100キロ広がり、内陸へ30から50キロあった。地域は城塞都市バサイムが支配した。ボンベイ(現在のムンバイ)は、1661年にイングランド王チャールズ2世の元へ嫁したポルトガル王女カタリナ の持参金の一部として割譲された。北部地域のほぼ全域は、マラータ独立戦争英語版後の1739年にヴァサイーの戦い英語版で失われ、1779年にダードラーとナガル・ハヴェーリーを獲得した。

インド独立後[編集]

1947年にイギリスからインドが独立した後、ポルトガルは、インドからの領土保有を断念して欲しいという依頼を拒絶した。ハーグ国際司法裁判所による決定は、ダードラーとナガル・ハヴェーリーへの接近とみなされる行為によりインド市民がこの地域に多数集結すると難局を迎えた。[1].

1954年から、ゴアを統治しているポルトガル人たちが出て行くよう、平和的な非暴力独立運動「サティヤーグラハ英語版」の試みが、ゴアの外側からなされたが[2] 鎮圧され、首謀者らは殺されるか監獄へ入れられた。その結果、インドは領事館を閉鎖し(1947年からパンジムに開かれていた)、ポルトガル領ゴアに対する経済的な輸出禁止を課した。インド政府は1955年から1961年まで、『待機と監視』の姿勢をとり、ポルトガルのサラザール政権へ抗議した。[3] すぐに、1961年12月には、インドのゴア軍事侵攻英語版が起き、ダマンとディーウでは不適当なポルトガルの抵抗運動に直面した。[4][5] 中止命令が布告されたにもかかわらず、ポルトガル武装勢力は侵略者に打ち負かされるか殺されるかのどちらかを指示され、公式停戦協定は結ばれなかった。 [6] 装備の不十分な抵抗勢力には、ポルトガル軍の貧弱な火力と要員(わずか3,300名)が与えられたのみだった。対するインド軍は、陸海空の三軍の集結を背後にした、十分に武装した3万人の軍勢であった。[7] [8]領土は1961年12月19日にインドに併合された。

ゴアの聖堂「セ・カテドラル」

ポルトガル本国のサラザール政権及びその後のエスタド・ノヴォ体制は、1974年までポルトガル国民議会において、ゴア、ダマン、ディーウのインド支配を拒絶する主張を続けた。1974年にカーネーション革命が起こり、リスボンの新政権はインドとの外交関係の修復をはかり、ゴア、ダマン、ディーウのインドの主権を認めた。しかし、軍の引き継ぎのために、以後ポルトガル領インド住民の願いは考慮されることはなかった(1960年の国連総会決議第1514条(15)における民族自決権)[9] -- 国連決議第1541条と1542条を参照。[10])。住民はポルトガル市民権を保持する権利を持ち続けた。しかし、2006年より、ポルトガル統治時代に出生した者に限定して市民権が制限された。

参考[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]