バルチスタン
バルチスタン(Baluchistan)とは、現パキスタンの西南(バローチスターン州)、イラン東南(スィースターン・バルーチェスターン州)、アフガニスタン南部にまたがる地方。アラビア海に面するグワーダル(Gwadar)がある。明治時代には漢字で俾路芝[1]、卑路芝[2]と表記された。
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[編集] 歴史
詳細は「バルチスタンの歴史」を参照
バルチスタンはインダス文明を担ったとされるバローチ人やブラフイ人が住んでおり、7世紀にはウマイヤ朝、8世紀にはアッバース朝とアラブ人の支配下に置かれていた。
13世紀にはモンゴル人の治世下になるイルハン国、15世紀にはチムール帝国の版図に入った。1486年、バローチ人のミール・チャカール・リンドがリンド部族の族長となると、ラシャリ部族との30年戦争で勝利した。さらにミール・チャカールはアフガニスタンやパンジャブ地方へも侵攻し勝利した。
1638年にカラート藩王国が成立したが、ペルシャやアフガニスタンからの影響が大きく、アフシャール朝のナーディル・シャーがカラートの部族連合軍に勝利し、カルホラの領土を奪われた。その後、半独立の状態が長く続いたが、1758年に再び独立を確保する。
しかし、1840年にイギリス軍が侵攻。1854年に条約を結び、イギリス保護領バルチスタンとなった。このあたりはイギリスによるインドの統治が進むにつれて、本国とインドの間の電信線を敷くためには不可欠な地方となり、ペルシャと相談してイギリスはバルチスタンを4つの藩王国(カラート藩王国、カラン藩王国、ラス・ベラ藩王国、マクラン藩王国)に分割した。
1947年にイギリスのインド統治が終了すると、「もともとインドの一部ではないので」インドやパキスタンには参加せず、単独で独立を宣言、議会や内閣を設置。イギリスやパキスタンもカラート王国の独立を認めた上で、パキスタンとは特別の関係を結ぶことを模索するものの、パキスタンの軍事的圧迫に抗すことができず藩王は併合条約に調印し、パキスタンに軍事併合された。その後もしばらく内政自治は続いていたが権限は大幅に縮小され、1955年には藩王国自体が名目上も消滅させられた。
[編集] バルチスタン併合後
バルチスタンはパキスタン国土の4割を占めるが人口は5%に過ぎず[3]、石炭、天然ガス、クロムなど豊富な資源があるバルチスタンから富を収奪しているという意識がバローチ人にある。
バルチスタンの民族主義(これは多くのブラフイ人も参加する)はパキスタンの共産主義運動と結びついており(en:Baloch nationalism)、バルチスタンのen:Ataullah Mengalは旧ソ連と関係があった。
[編集] 脚注
- ^ 近八郎右衛門編 『明治改正大日本国名尽・世界国名尽』、1886年、金沢・近八郎右衛門
- ^ 鈴木熊次郎編 『新案世界地図 教科適用』、1900年、東京・いろは書房、文陽堂
- ^ “【巨竜むさぼる 中国式「資源」獲得術】第3部 真珠の首飾り(1)”. 産経新聞 (2010年4月2日). 2010年5月16日閲覧。
[編集] 関連項目
- バローチスターン州(パキスタン)
- スィースターン・バルーチェスターン州(イラン)
- バルティスターン(カシミール) - 本項と混同されがちであるが全く異なる地域である。
[編集] 外部リンク
- カラート藩王国(バルチスタン、バロチスタン)
- バルチスタンとは?(ドイツ語ビデオ解説)