ラシッド・ドスタム

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ドスタム将軍(2002年)

アブドゥル=ラシード・ドスタムペルシア語: عبدالرشید دوستم‎、Abdul Rashid Dostum, 1954年前後[1] - )は、アフガニスタン軍人で国防次官、参謀総長。同国のウズベク人で最大派閥を形成。ウズベク人主体の政党イスラム民族運動の元党首。「ドスタム将軍」として知られる。シバルガーン近郊の生まれ。アブドゥルラシード・ドーストムアブドゥッラシード・ドーストムとも表記される。

ソ連のアフガニスタン侵攻[編集]

1970年代初め、ジャラーラーバード市の空挺部隊に召集。1978年の4月革命まで、アフガニスタン北部のジョウズジャーン州の州都シバルガンの採油労働者だった。1979年から、アフガニスタン人民民主党党員となりパルチャム派に属した。1979年、地方の自衛隊に勤務。1980年代、ムハンマド・ナジーブッラー政権で軍務に就き、第53歩兵師団長となった。この間タシケントで、ソ連KGBの3ヶ月間の将校課程を受けている。同師団は、シャフナワーズ・タナイ国防相の反乱鎮圧に貢献した。

アフガニスタン内戦[編集]

1992年、ナジーブッラー政権が崩壊すると、ドスタムは彼を拘束。その後誕生したラッバーニー政権に協力の姿勢を見せるが、1994年には離反し、グルブッディーン・ヘクマティヤールと共同してカーブル攻撃に加わった。ターリバーンが台頭すると再び政府側につき、1997年5月にはマザーリシャリーフに攻勢を仕掛けたタリバンを撃退した。この際、3000人のターリバーン兵士が殺害され、ターリバーンは大打撃を受けた。しかし、部下であったアブドゥル=マーリクがターリバーンの工作によって寝返った。マーリクは自分の弟が犯した犯罪をドスタムのせいにして告発した。この告発によってドスタムは失脚し、トルコに亡命した。 10月にはトルコから復帰し、マーリクの軍勢を破ってマザーリシャリーフに復帰した。1998年、タリバンは再びマザーリシャリーフに大攻勢を仕掛けた。ドスタムは敗北し、再びトルコに亡命せざるを得なかった。

アメリカのアフガニスタン侵攻[編集]

2001年春、北部同盟の北部総司令官に任命され、再び帰国した。アメリカのアフガニスタン侵攻では、11月にマザーリシャリーフを奪還し(マザーリシャリーフ奪還英語版11月9日 - 11月10日)、クンドゥーズ包囲戦11月11日 - 11月23日)で勝利し、タリバン政権の打倒に貢献した。2001年12月、ダシュテ・ライリ虐殺英語版

新政権下[編集]

タリバン崩壊後は、新政権で国防次官、大統領顧問を歴任したが、その後辞任。2002年からアタ・モハマド・ヌールが徐々に北部を支配下に治めたが、2003年10月にドスタムが攻勢に出て、2002年以来失った多くの地位を奪回しようと試みた。

2004年10月のアフガニスタン大統領選挙に立候補し、出身民族のウズベク人の絶大な支持を得て10%を得票し、第4位につけた。

2005年3月1日ハーミド・カルザイ大統領は、ドスタムを新設の参謀総長に任命した。それにともない、同年4月彼はイスラーム民族運動の党首を辞任した[2]。2007年現在の党首はサイヤド・ヌールッラーである。ドスタムの起用は、議会選挙に向けて、選挙の平和的な実施のために、抵抗する軍閥を政権内に取り込むのが目的と推測される。しかし、参謀総長職は国防相、陸軍参謀長など既存の役職との役割分担が不明確で、名誉職でしかないとの観測もある。ドスタムの戦争犯罪について問題視する意見もあり、ドスタムの起用には批判も出ている[要出典]

誘拐事件[編集]

2008年2月2日にドスタムの支持者が、アクバル・バイを拉致・暴行するという事件が発生した。バイはかつてイスラム民族運動に属しており、ドスタム自身の旧友であったが、ドスタムがトルクメン人を殺害したと告発していた。政府はドスタムに出頭を求めたがドスタムは拒否し、2月18日に職務停止処分を受けた[1]。しかし10月30日には職務に復帰し、司法長官はバイの告発をすべて棄却した。

現在まで[編集]

2008年12月初め、家族と共にトルコ永住に同意。2009年8月、大統領選での支持と引き換えに、カルザイの同意によりアフガニスタンに帰国。

2014年アフガニスタン大統領選挙では、アシュラフ・ガニー・アフマドザイの第一副大統領候補となっている[2]

人物[編集]

ジョウズジャーン州シバルガン郡ホジャドゥクフ村の農民の家庭に生まれた。父はウズベク人(又はキプチャク人)で、 母はトルクメン人である。 彼は非常に傲慢かつ残虐な性格で、権力のために他を顧みず、私利私欲のためだけに人々を苦しめると言われる[要出典]。しかしながら、彼は世俗的な環境で育ち、宗教的に過激なところはなく、彼の統治下では、住民に対する締め付けは緩やかだったともされる。また、旧共産政権下で軍人、官僚だった者達にとっては、ドスタム以外に頼れる人物は存在しない。

家族[編集]

妻帯。1男(ボトゥール・ドスタム)を有する。

叙勲[編集]

アフガニスタン英雄(2度。1度目は1986年のカンダハールでの戦闘に対して。2度目は1988年のタナイ反乱の鎮圧に対して)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

脚注[編集]