チャムドの戦い

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チャムドの戦い
戦争チベット侵攻
年月日1950年10月
場所チベットチャムド
結果人民解放軍によるチャムド制圧
交戦勢力
Flag of Tibet.svg チベット 中華人民共和国の旗 中国
指揮官
ンガプー・ンガワン・ジクメ (捕虜)[1] 毛沢東
劉伯承
張国華
范明
戦力
Flag of Tibet.svg チベット軍英語版:[2] 8,500名[3] 中華人民共和国の旗 人民解放軍 : 40,000名[4][5]
損害
死者180[6][7][8]
(~5,000[4])
114[6]

チャムドの戦い(中国語: 昌都之战)は中華人民共和国が、チベットとの交渉の失敗後、事実上チベット地域で独立していたチベットに対して行った戦役[9]。目的はチャムドにいたチベット軍を攻略し、ガンデンポタンの士気を下げ、チベットに対する中国の主権を認めさせるために北京に交渉人を送るように強力な圧力をかけることであった[10]。戦闘の結果中国はチャムドを攻略し[6]、その後の両者の代表者による交渉で最終的に中華人民共和国によるチベットの編入が行われた。

衝突以前[編集]

1950年3月7日、チベット政府代表団が新しく成立した中華人民共和国と対話を行い、中国側がチベットの特に「領域保全」を尊重し、安全を保障するためにカリンポンを訪れた。対話の開始はチベット、インド英国中国の代表団の間で開催場所についての議論によって遅れた。チベットはシンガポール香港での開催を支持しており、英国はインドでの開催を支持、インドと中国は北京を支持しており、また、インドと英国は対話を好まなかった。チベット代表団は最終的に1950年9月16日にデリーで中国側大使の袁仲賢英語版と会った。袁は「チベットが中国の一部とみなす」「中国がチベットの国防を担当する」「中国がチベットの貿易と外交を担当する」三点の提案を伝え、受け入れれば平和的な「開放」になり、さもなくば戦争であるとした。チベットは法王とパトロンとしての中藏関係維持を考えており、9月19日に代表長のツェポン(蔵相)ワンチュク・デデン・シャカッパ英語版は協力を推進し、実施に幾つかの条件をつけた。特に中国軍のチベット駐留は、当時チベットには周辺国家に脅威がなく、もしインドやネパールから攻撃されれば中国に軍事的支援を求めることができたため必要ないとされており、これは大きな議論となった。

ラサで議論が行われている間、10月7日に中国兵は東チベットへと侵攻し、5地点から「事実上」の国境[11]を超えた。目的はチベット侵攻自体ではなく、チベット軍をチャムドで包囲殲滅し、ラサ政府の思惑をくじき、その圧力下で北京に交渉者を送らせて平和的にチベット編入を行う条約に署名させることであった[10]。10月21日、ラサは共産党政府との協議のために北京に駐在していた代表団に直ちに去るように指示し、ダライ・ラマの身柄が保障されるのであれば、他の2項を除く最初の要求には合意するとした。

後にマハーカーラ神の前で占い、これらの3点は受け入れられず、チベットは外国の手に落ちるだろうと告げられたため最初の要求への合意も取り消された[12][13][14]

経過[編集]

人民解放軍の侵入以前、カム人とチベット政府の間の関係は酷く悪かった。結果、カム人はかろうじて反対するかあるいはチャムドでの共産党の行動に加わった。人民開放軍はカム人から抵抗をあまり受けずにカムを占領した。カム人とチベット政府の関係はきわめて乏しいものであった。パンダツァン・ラプガはンガプー・ンガワン・ジクメに、いくらかのカム人の戦士をチベット政府がカムの独立を認めることと引き換えに抵抗に参加させることを提案したが、ジグメはこれは拒否した。

チャムドでの戦闘中、ラプガとトプゲーは中国と共に交渉に従事した。カム人の多くは人民解放軍に参加するか戦わないかのどちらかであり、人民解放軍の進行はスムーズに成功した[15]

交渉失敗から1ヵ月後[9]、チベットは安全保障で外国からの支援と援助を引き出そうと試み[16]、人民解放軍[17]とチベット軍の双方が増強された。人民解放軍はディチュ河を10月の6~7日に超えた[18]

数で圧倒する人民解放軍2個部隊は10月19日にチベット軍を国境から近いチャムド周辺ですばやく包囲し、114名の人民解放軍兵士[6]と180人のチベット兵[6][7][8]が死傷した。Thomas Lairdによると5000人のチベット兵が殺害されたとされる。[4]。活発な戦闘はGyamo Ngul Chu川の北東部と96度線以東のチベット政府が管理する国境近辺に限られていた[19]チャムド占領後、人民解放軍は交戦を停止し[7][20]、捕虜としたンガプー・ンガワン・ジクメラサに送り交渉条件を改めて提示し、チベットが北京に代表者を送るのを待った[21]

その後[編集]

人民解放軍はンガプー・ンガワン・ジクメを開放してラサに送り、人民解放軍の代理としてダライラマと交渉させた。中国はチベットが「平和的に開放され」た場合、チベットの上層部は地位と権力を保てるとの約束を伝えた[22]。 チベット政府は交渉を行うために北京に代表を送った。

チベット人虜囚はおおむねよくに扱われたとされる。彼らを武装解除した後、彼らが家に戻る前に、人民解放軍兵士は社会主義について講義し、小額の金を持たせたとされる。現在ダライ・ラマ14世となったテンジン・ギャツォによれば人民解放軍は民間人への攻撃は行ってないとしている[23]

共産党政府はこの戦いを「英国主義、奴隷主義の分離主義者」で「前にダライラマの師であったレティン・リンポチェ英語版ジャムペル・イェーシェー・ギャルツェン英語版の死に責任がある」タクタ・リンポチェ、ガワン・スンラプ・ストブ英語版に対抗するものと定義している[24]

[編集]

  1. ^ Mackerras, Colin. Yorke, Amanda. The Cambridge Handbook of Contemporary China. [1991] (1991). Cambridge University Press. ISBN 0521387558. pg 100.
  2. ^ The Tibetan Army, Gyajong, was established according to the 29-point reform installed by Emperor Qianlong. See Goldstein, M.C., "The Snow Lion and the Dragon", p20
  3. ^ Freedom in Exile: The Autobiography of the Dalai Lama, 14th Dalai Lama, London: Little, Brown and Co, 1990 ISBN 0-349-10462-X
  4. ^ a b c Laird 2006, pp. 301-307
  5. ^ Shakya 1999, pg. 43
  6. ^ a b c d e Jiawei Wang et Nima Gyaincain, The historical Status of China's Tibet, China Intercontinental Press, 1997, p.209 (see also The Local Government of Tibet Refused Peace Talks and the PLA Was Forced to Fight the Qamdo Battle, china.com.cn): "The Quamdo battle thus came to a victorious end on October 24, with 114 PLA soldiers and 180 Tibetan troops killed or wounded."
  7. ^ a b c Shakya 1999, p.45. Shakya also quotes PRC sources reporting 5738 enemy troops "liquidated" and over 5700 "destroyed". Shakya does not provide an estimate of PRC casualties.
  8. ^ a b Feigon 1996, p.144.
  9. ^ a b Shakya 1999 pp.28–32
  10. ^ a b Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet, vol.2, pp.48–9.
  11. ^ Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet: The Calm Before the Storm: 1951–1955, University of California Press, 2009, Vol.2,p.48.
  12. ^ Shakya 1999 pp.27–32 (entire paragraph).
  13. ^ W. D. Shakabpa,One hundred thousand moons, BRILL, 2010 trans. Derek F. Maher, Vol.1, pp.916–917, and ch.20 pp.928–942, esp.pp.928–33.
  14. ^ Melvin C. Goldstein, A History of Modern Tibet: The Calm Before the Storm: 1951–1955, Vol.2, ibid.pp.41–57.
  15. ^ John Kenneth Knaus (2000). Orphans of the Cold War America and the Tibetan Struggle for Survival (illustrated ed.). PublicAffairs. p. 71. ISBN 1-891620-85-1. http://books.google.com/books?id=FwaJCAU8mr8C&pg=PA71&dq=rapga+chinese&hl=en&ei=WI_FTdqrJoiugQeJxvnKBA&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=6&ved=0CEcQ6AEwBQ#v=onepage&q=rapga%20chinese&f=false 2011年12月27日閲覧。. 
  16. ^ Shakya 1999 p.12,20,21
  17. ^ Feigon 1996 p.142. Shakya 1999 p.37.
  18. ^ Shakya 1999 p.32 (6 Oct). Goldstein 1997 p.45 (7 Oct).
  19. ^ Shakya 1999 map p.xiv
  20. ^ Goldstein 1997 p.45
  21. ^ Shakya 1999 p.49
  22. ^ Laird, 2006 p.306.
  23. ^ Laird 2006 p.305.
  24. ^ [1]

参照文献[編集]

  • Feigon, Lee. Demystifying Tibet: Unlocking the Secrets of the Land of Snows (1996) Ivan R. Dee Inc. ISBN 1-56663-089-4
  • Ford, Robert. Wind Between The Worlds The extraordinary first-person account of a Westerner's life in Tibet as an official of the Dalai Lama (1957) David Mckay Co., Inc.
  • Goldstein, Melvyn C. A History of Modern Tibet, 1913–1951: The Demise of the Lamaist State (1989) University of California Press. ISBN 978-0-520-06140-8
  • Goldstein, Melvyn C. The Snow Lion and the Dragon: China, Tibet, and the Dalai Lama (1997) University of California Press. ISBN 0-520-21254-1
  • Grunfeld, A. Tom. The Making of Modern Tibet (1996) East Gate Book. ISBN 978-1-56324-713-2
  • Knaus, Robert Kenneth. Orphans of the Cold War: America and the Tibetan Struggle for Survival (1999) PublicAffairs . ISBN 978-1-891620-18-8
  • Laird, Thomas. The Story of Tibet: Conversations with the Dalai Lama (2006) Grove Press. ISBN 0-8021-1827-5
  • Shakya, Tsering. The Dragon In The Land Of Snows (1999) Columbia University Press. ISBN 0-231-11814-7
  • Robert W. Ford Captured in Tibet, Oxford University Press, 1990, ISBN 978-0-19-581570-2

関連項目[編集]