ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国

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ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公の紋章
1521年のユーリヒ、クレーフェ、ベルクの3公爵領とマルク伯領、ラーフェンスベルク伯領

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国Vereinigte Herzogtümer Jülich-Kleve-Berg)は、現在のドイツノルトライン=ヴェストファーレン州に存在した公爵領、伯爵領の連合体の総称。領域を構成する諸邦は全て神聖ローマ帝国の直属身分 (en領邦であり、同君連合という形で結びついていた。「ユーリヒ=クレーフェ=ベルク」の名はウィーン会議後の1815年から1822年、短期間存在したプロイセン王国の県の名称として復活している。

歴史[編集]

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国は神聖ローマ帝国の北西部の諸邦の連合体として成立した。まず1423年ユーリヒ公国ベルク公国が連合関係に入った。それから約1世紀後の1521年、ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世が男子のないまま死ぬと、娘のマリアが2つの公爵領およびラーフェンスベルク伯領 (enの相続人となった。マリアは1509年、近隣のクレーフェ公国マルク伯領の支配者で遠戚に当たるヨハン3世と政略結婚しており、サリカ法の相続規定に従ってヨハン3世が妻の相続した全領土を支配下に収めた。この連合公国は、教会領であるケルン大司教領 (enおよびミュンスター司教領 (enを除けば、現在のノルトライン=ヴェストファーレン州のほぼ全域を覆っていた。またその息子のヴィルヘルム5世は、1538年から1543年までの短期間、ゲルデルン公国(現在のオランダヘルダーラント州)をも領有していた。

ヨハン3世とマリアの結婚から100年後の1609年、ヨハン3世の孫のヨハン・ヴィルヘルムの死により、連合公国の統治者の家系は途絶え、その遺領の相続をめぐる紛争が起きることになる。連合公国の3代の公爵達は、プロテスタント宗教改革に続いて起こった宗教論争において、人文主義者のデジデリウス・エラスムスの影響を受けて「中道(via media)」の立場を貫いた。このせいで、ヨハン・ヴィルヘルムの相続人と見なされる長姉マリー・エレオノーレと次姉アンナは異なった宗派を信仰し、互いに対立していた。加えて、連合公国の領土を狙う神聖ローマ皇帝ルドルフ2世ザクセン選帝侯クリスティアン2世の野心が、公国の継承問題をより錯綜させた。特に、フランスアンリ4世ネーデルラント連邦共和国は、ルドルフ2世が連合公国を獲得してオーストリア領ネーデルラントをさらに強国化することを警戒していた。

ヨハン・ヴィルヘルムの長姉マリー・エレオノーレとプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの娘のプロイセン公女アンナルター派であり、ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントと結婚していた。一方、ヨハン・ヴィルヘルムの次姉アンナはカトリック信徒であり、プファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒと結婚していた。結果としてブランデンブルク選帝侯領とプファルツ=ノイブルク公領の間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争三十年戦争の前哨戦の一つとされる)が勃発したが、1614年のクサンテン条約 (enで妥協が成立し、ブランデンブルクが連合公国内のプロテスタント領邦(クレーフェ、マルク、ラーフェンスベルク)を、プファルツ=ノイブルクがカトリック領邦(ユーリヒとベルク)を相続した。不運なことに、ヴィルヘルム5世の異名「富裕公(Wilhelm der Reiche)」が示す連合公国の国土の豊かさは、継承争いに伴う戦乱のために破壊された。

ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公[編集]

関連項目[編集]