クレーフェ公国

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クレーフェ公の紋章
1477年のクレーフェ公国
クレーフェ伯爵と公爵の居城、シュヴァネンブルク(白鳥城)

クレーフェ公国:Herzogtum Kleve)またはクレーフ公国:Hertogdom Kleef)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。首都はクレーフェ。その領域は現在のドイツノルトライン=ヴェストファーレン州の一部)とオランダリンブルフ州北ブラバント州ヘルダーラント州の一部)に跨って存在した。公国はクレーフェを首都とし、領域はライン川両岸に広がっていた。おおよそ現在のクレーフェ郡 (en、ヴェーゼル郡 (enデュースブルクに相当する。

歴史[編集]

クレーフェ伯領が史料で最初に登場するのは、11世紀のことである。伯爵領は1417年に公爵領に昇格した。クレーフェはユーリヒ公国ベルク公国ゲルデルン公国マルク伯領といった近隣諸国と関係が深かった。1368年にはマルク伯領と合併している。1521年、ユーリヒ、クレーフェ、ベルクの3公国はユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国を形成した。

1609年、最後のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン・ヴィルヘルムが子供のないまま死ぬと、ブランデンブルク選帝侯ヨーハン・ジギスムントプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒが連合公国の継承をめぐってユーリヒ=クレーフェ継承戦争を起こした。両者は1614年にクサンテン条約 (enを結び、プファルツ=ノイブルク公がユーリヒ=ベルク公国を、ブランデンブルク選帝侯がクレーフェ公国及びマルク伯領、ラーフェンスブルク伯領を手に入れた。しかし、ブランデンブルク選帝侯の統治するクレーフェ公国の大部分は1672年までネーデルラント連邦共和国に占領されていた。公国は1701年に成立したプロイセン王国の一部とされたが、七年戦争中の1757年から1762年まではフランスに占領されている。

1795年、クレーフェ公国の左岸地域とヴェーゼルはフランス共和国に占領され、フランス領ロール県 (enの一部とされた。残りの地域も1803年から1805年にかけてフランスに征服され、フランスはこの地域をイッセル=スペリュール県 (enと傀儡国家ベルク大公国に編入した。ベルク大公国に編入された部分は、1811年にフランス領リップ県 (enの一部とされた。1815年ナポレオンが失脚すると、クレーフェ公国はプロイセン王国領ユーリヒ=クレーフェ=ベルク県 (en1822年にライン県 (enに統合される)に編入された。ただしヘネプ、ゼフェナール (en、ハイッセン (enの3都市に関しては、1815年のウィーン会議の決定でネーデルラント連合王国領となった。

クレーフェ伯[編集]

  • 1020年頃 - 1050年頃 ルトガー1世
  • 1051年頃 - 1075年頃 ルトガー2世
  • 1076年頃 - 1091年頃 ディートリヒ(2世)
  • 1092年 - 1117年 ディートリヒ1世(3世)
  • 1120年 - 1147年 アルノルト1世
  • 1150年 - 1172年 ディートリヒ2世(4世)
  • 1173年 - 1202年 ディートリヒ3世(5世)
  • 1189年 - 1200年 アルノルト2世
  • 1202年 - 1260年 ディートリヒ4世(6世)
  • 1260年 - 1275年 ディートリヒ5世(7世)
  • 1275年 - 1305年 ディートリヒ6世(8世)
  • 1305年 - 1310年 オットー
  • 1310年 - 1347年 ディートリヒ7世(9世)
  • 1347年 - 1368年 ヨハン
  • 1368年 - 1394年 アドルフ1世
  • 1394年 - 1448年 アドルフ2世

1417年、クレーフェ伯は公爵に昇格する。

クレーフェ公[編集]

1521年以後、クレーフェ公国はユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国の一部を構成する。

外部リンク[編集]