フォイエルバッハ論

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シュトゥットガルトで出版された初版(1888年

フォイエルバッハ論』(フォイエルバッハろん)は、フリードリヒ・エンゲルスの著作で、原題は『ルートヴィヒ・フォイエルバッハと古典ドイツ哲学の終り』(ドイツ語:"Ludwig Feuerbach und der Ausgang der klassischen deutschen Philosophie")である。1886年雑誌『ノイエ・ツァイト』に2回に分けて掲載されたものに序と付録を付けて、1888年に出版された。

マルクスとエンゲルスが思想を確立した時期を振り返り、彼らの思想を簡潔にまとめた貴重な文献として広く読まれてきた。

論文内容[編集]

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『フォイエルバッハ論』は、C.N.シュタルケ著『ルートヴィヒ・フォイエルバッハ』(1885)に対する書評を依頼されたのをきっかけに書かれたものである。その意図するところは、ドイツ古典哲学がイギリスなどで復活してきた状況のもとで、マルクス、エンゲルスがヘーゲル哲学から出発し、ヘーゲル哲学から離れて行った経過を明らかにすること、同時に、その時のフォイエルバッハの役割の大きさを示すことで彼への借りを返すことと述べられている。

第一節[編集]

1848年のドイツ革命以前のドイツ哲学を振り返っている。ヘーゲル哲学が、時代・政治権力の擁護という側面を持ちながら、同時にその弁証法が革命的な側面を持つことが指摘されている。

ヘーゲルの死後、ヘーゲル学派内は宗教をめぐって対立する。ヘーゲル哲学では、理念が根源的なものであり、自然は理念が堕落したものとみる。その前提のうえで、世界を動かしているのは「実体」か「自己意識」か等の論争が続いていた。

フォイエルバッハは唯物論を主張することによって、その論争を粉砕した。彼の主張は「自然と人間のほかには何も存在しない」、「神は人間の本質が反映したものにすぎない」というものである。当時、フォイエルバッハの唯物論は熱狂的に受け入られた。

しかし、そのうちに1848年革命が起き、哲学全体を押しのけてしまった。

第二節[編集]

思考と存在の関係がすべての哲学の根本問題であったと指摘し、近代西欧哲学においては、精神と自然のどちらに優位を置くかで2大陣営(観念論唯物論)に分かれたと言う。関連して、思考と存在の同一性に異議を挟むヒュームカントの批判に触れる。実験と産業がカントの「物自体」を反駁しているという。18・19世紀の産業と自然科学の発展が、哲学の、とりわけ唯物論の発展をもたらしたと指摘し、しかしドイツの遅れた状況はフォイエルバッハをその一段階に留まらせたと言う。

第三節[編集]

フォイエルバッハの宗教論・倫理学にある観念論を指摘する。フォイエルバッハは、キリスト教の神が人間の幻想的反映であると証明するが、彼の「人間」は抽象的思想象に留まっている。したがって道徳も抽象的にしか論ずることが出来ていないし、その他の社会関係への視点もない。彼の道徳観がどのように時代に制約されたものであるかを詳細に指摘する。

第四節[編集]

フォイエルバッハが捨てたヘーゲルを、捨てるのではなく批判的に継承する方向で、唯物論を再措定して始まっている。唯物論とは、現実の世界を先入観なしに、現れるがままに理解し、空想的な連関ではなく、それ自身がもたらす事実に一致しないすべての観念論的奇想を抛棄することである。ヘーゲルにあっては概念の展開に過ぎなかった弁証法は、現実の世界の弁証法的反映に過ぎないと捉え返される。この唯物論の進展は、自然科学に於ける三大発見(細胞の発見エネルギーの転換・ダーウィンの理論)を始めとする進展によって裏付けられていると言う。社会科学が観念性を脱し、社会関係を諸過程の連関として把握できるようになってきたのは、現代にあっては歴史的連関が単純化したからだと言う。近代にあっては政治闘争は階級闘争であり、階級の成立は経済的な原因による。国家、法律、それらを支えるイデオロギーも経済的連関の内にあること、宗教もまた例外でないことが述べられる。マルクス主義歴史観は、歴史そのものに則して証明されなければならないとし、なされたものと思うと述べられる。それとともに哲学は終焉し、論理学と弁証法を残すのみとなり、「ドイツの労働運動が、ドイツ古典哲学の相続人である」と結ぶ。

フォイエルバッハに関するテーゼ[編集]

[本論の源流である「フォイエルバッハに関するテーゼ」はエンゲルスがマルクスの古いノートから見つけたもので、少し手を加えて発表された。ここに表明されている、真理性を実践に見るとする見解は、西欧哲学史上はじめてのものである[1]

『フォイエルバッハ論』のエンゲルスにより修正されて掲載されたものではなく、三木清訳『ドイッチェ・イデオロギー』より抜粋する(旧字旧仮名は新字新仮名に改めた)。

  1. 従来の凡ての唯物論の主要な欠陥は、対象、現実、感性が、ただ客体または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられず、主体的に捉えられていないということである。....
  2. 対象的真理が人間的思惟に到来するか否かという問題は、なんら理論の問題ではなく、却って一の実践的な問題である。実践において人間は真理を、即ち、自己の思惟の現実性と力、その此岸性を、証明せねばならぬ。思惟—実践から遊離されている思惟—が現実的であるかそれとも非現実的であるかについての論争は、全くスコラ哲学的な問題である。
  3. .... 環境と人間的活動との変化の合致あるいは自己変化は、ただ革命的実践としてのみ捉えられ且つ合理的に理解されることが出来る。
  4. ... 例えば、地上の家族が神聖家族の秘密として発見された後は、今や前者そのものが理論的に且つ実践的に絶滅されねばならぬ。
  5. フォイエルバッハは、抽象的思惟をもって満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を実践的な人間的・感性的活動として捉えていない。
  6. フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。しかしながら人間的本質はなんら個々の個人に内在するところの抽象体ではない。その現実においては人間的本質は社会的諸関係の総体である。...
  7. 古き唯物論の立場は市民的社会であり、新しきそれの立場は人類社会または社会的人類である。
  8. 哲学者たちは世界をただ種々に解釈して来ただけだ、世界を変化することが問題であろうに。

批評[編集]

生前のマルクスが述べていない論点についてはマルクスからの逸脱を指摘する説もあらわれた。マルクス主義の入門書であるとともに論争の書である[要出典]

脚注[編集]

  1. ^ バートランド・ラッセル 『西洋哲学史』による。

参考文献[編集]

関連項目[編集]