エムス電報事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
エムス電報事件記念碑。「1870年7月13日 朝9時10分」と刻まれている。

エムス電報事件(エムスでんぽうじけん)は、プロイセン王国宰相オットー・フォン・ビスマルクが、同国国王ヴィルヘルム1世から受け取った電報に意図的な編集を行って世間に公表した事件である。

当時のスペイン王位継承問題に端を発するもので、普仏戦争の直接の原因となった。

経過[編集]

スペイン王位継承問題[編集]

1868年9月、スペインで非民主的な当時の政権に対し、フアン・プリム将軍がカディスで武装蜂起すると、政権への不満は各地の蜂起を促し、革命は全土に波及した。1865年に王室財産の不正利用が明らかになった女王イサベル2世は軍隊の支持も失い、第二帝政下のフランスへと亡命した。

その後スペインでは、1869年1月に初の普通選挙が実施され、同年6月に憲法が発布されたが、その中で革命後の政体は立憲君主制に定められた。革命後も各地で混乱が続き、共和主義者による蜂起も発生したため、新政府にとって新国王の選出は体制安定のための緊急課題となった。

1870年、フランス亡命中のイサベル2世は、息子である後のアルフォンソ12世に王位を譲ったが、スペインのプリムはこれを認めず、スペイン国王の王位継承問題が発生した。この継承候補者として、ホーエンツォレルン家の本家筋[1]で宗教改革後もカトリックに留まっていたホーエンツォレルン・シグマリンゲン家のレオポルトの名前が挙がり、プリムやビスマルクもこれを推薦した。これに対し、フランスは自国がホーエンツォレルン家の王を戴く国家に挟まれることを危惧し、プロイセン王ヴィルヘルム1世に翻意を求めた。ヴィルヘルムはもともと執着なく、レオポルト自身気乗りがしていなかったこともあってプロイセン側が折れ、7月12日にレオポルトは正式に王位を辞退した。このプロイセンの譲歩によって事態は平和的に解決したかに見えた。

エムス電報事件[編集]

しかし、あくまでも干渉の権利を有すると信じるフランスは、レオポルトの王位辞退だけでは満足できず、将来に渡ってスペインの王位候補者をホーエンツォレルン家から出さないとの約束をヴィルヘルム1世に求めるため、1870年7月13日、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣した。同地を訪ねたフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ英語版伯爵は国王に会見を求めたが、既に王位辞退という形で譲歩を行っていた国王は無礼な要求としてこれを拒否し、ベルリンのビスマルクに事の経緯を打電した。

国王から報告の電報を受け取ったビスマルクは、この電報を政治的に利用することを思いつき、電報の一部を意図的に省略、非礼なフランス大使が将来にわたる立候補辞退を強要し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように文面を編集した上で、7月14日に新聞や各国へ向けて公表した。文章の省略によって国王の大使への拒絶は強調され、さらにビスマルクが故意に事実と異なった状況説明を行ったため、かねてからくすぶっていたフランス・プロイセン両国間の敵対心は煽られ、両国の世論は一気に戦争へと傾いた。

なお、翌朝の新聞報道を読んだヴィルヘルム1世自身が「これは戦争だ」と叫んだといわれる。開戦反対の声がまったく無かったわけではなかったが、戦争を求める強い世論に流されるまま、フランスは7月15日に開戦を閣議決定し、7月19日にプロイセンに宣戦を布告した。これにより普仏戦争が始まった。

事件について[編集]

普仏戦争に関して、プロイセンはフランスとの衝突を予想し、事前に戦争に備えての情報収集を行って用意周到な作戦計画を練り、対フランス戦争を意識したインフラ整備を行い、外交においてもドイツ諸邦と「プロイセンが先に宣戦布告された場合には協力する」との条約を締結して味方に引き入れた上に周辺各国へ介入しないよう根回しを行っていたことから、この「事件」をビスマルクがドイツ対フランスの戦争を引き起こすために仕掛けた陰謀か罠であるかのように解釈する歴史書があるが、ビスマルクは新聞報道のために編集こそすれヴィルヘルムの電報をでっちあげたわけでもなければ、その要旨を改竄したわけでもない点、またフランスが先に(7月15日)に動員令を発令してプロイセンの先手を取る形で宣戦布告をしたことなどは往々にして見過ごされる。

直接には関係のないフランスがスペイン王家とプロイセン王家の間に入って一介の大使が静養地で休暇中のプロイセン王に迫ってスペイン王位継承に関して再度確約を求めるというのは帝国主義の当時の外交常識からしても強引であった。プロイセンにはフランスの安全を保障してやる理由はなかったが、フランスは自身の軍事力を過信して強硬な姿勢がプロイセンのような大国をも譲歩させると錯誤、ドイツはおろかプロイセン一国の工業力・軍事力がフランスを凌駕していたことを直視していなかったのである。絶望的な普仏戦争の帰結を考えるとエムス電報事件はナポレオン3世の外交における致命的な失敗であった。

エムス電報事件はスペイン王家継承問題を始めとするフランスの過剰反応が自滅的な宣戦布告に到るまでの一過程と考えられ、普仏戦争の原因はドイツ統一の影におびえたフランスの過剰反応と自己過信にあったが、エムス電報事件はそのきっかけとなった事件であった。

脚注[編集]

  1. ^ 本拠シュヴァーベンから離れて独立しブランデンブルクに落ち着いたプロイセン王家が厳密には分家であるがこの点は本格的な歴史書でも誤っていることが多い

関連項目[編集]