イタリアの歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

イタリア歴史では、地中海に面したイタリア半島およびその周辺地域における歴史について記載する。

イタリア上空からの衛星画像。「イタリアとは地理的名称に過ぎない」(クレメンス・メッテルニヒ)と言われるように、歴史上「統一国家としてのイタリア」の誕生は近代になってからである。

概史[編集]

ローマ成立前[編集]

イタリア半島はアルプス・ヒマラヤ造山帯の活動によってできた。イタリアに人類が出現したのは旧石器時代とされる。

紀元前8世紀ローマの建設以前のイタリアの状況について判明していることは少ない。イタリア民族が、紀元前8世紀頃にラティウム平原に定住したが、直後に小アジアからやってきたエトルリア人が彼らを征服した。イタリア半島の住人にはエトルリア人がいた。

紀元前6世紀にイタリア民族の中のラテン人からエトルリア人への反乱が起こり、共和制が樹立された。ローマと同じ頃、ギリシャ人が「マグナ・グラエキア」と呼ばれるイタリア半島の先端やシチリア島など地域に移住し、のちに重要な都市となるシラクサやタレントゥム(現在のターラント)を建設した。その他にも、現在のラツィオ州にいたスパルタからの移民ともいわれるサビニ人、またイタリア南部の山岳地帯、特にカンパニアモリーゼにいたサムニウム人、さらにオスキー人ウンブリア人がいた。

ローマの時代[編集]

王政ローマ[編集]

狼の乳を吸うロムルスレムス

伝承によるとローマ人トロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後、イタリア半島に逃れてきたアイネイアースらの子孫。紀元前753年ロムルスレムスによって建設された。初代ローマ王ロムルス以降、7代の王が王政によって統治されていたが(王政ローマ)、紀元前509年、7番目の王タルクィニウス・スペルブスが追放され、共和政ローマが成立した。

当時の共和国には二つの統治組織があった。一つは『パトリキ』と呼ばれる貴族の有力者や政治家たちによって構成される元老院で、もう一つは『プレブス』と呼ばれる平民階級で富裕な市民が中心となって運営される市民集会(民会)であった。貴族と平民の間の対立や紛争は共和国の重要な政治的問題となっていたが、元老院はいくつか譲歩をしながら、常にうまく乗り切っていた。

対外戦争による領土拡大[編集]

続く数世紀の間、ローマは領土の拡張政策をとり始め、ウェイイの町やラテン人、サムニウム人の同盟を次々と打ち負かしていった。

ローマは戦争に勝利した後もたいていは敗者を完全に服従させようとはせず、ローマの優位性を受け入れさせ、ローマを構成する同盟国として扱った。この賢明なやり方がローマが拡大できた理由の一つとなっている。たとえば、トスカーナカンパニアにあったエトルリア人やギリシャ人の弱小都市は、ローマに立ち向かって戦争するよりも、ローマの保護を求める方を選んでいる。

紀元前390年には、ガリア人として知られるケルト人によってローマは侵入され、略奪された。

紀元前280年から紀元前272年にかけて、ギリシャ人の都市タレントゥムとの戦いに勝利したローマはイタリア半島を実質的に統一した。そして、最も危険な敵であったフェニキア人の植民都市カルタゴ(現在のチュニス近く)と対決することとなった。

アルプス山脈を越えるカルタゴハンニバル・バルカ

紀元前3世紀半ばからほぼ1世紀を通じて戦われた3度のポエニ戦争は、ローマの完全な勝利に終わった。第一次ポエニ戦争紀元前264年-紀元前241年)と第二次ポエニ戦争紀元前218年-紀元前202年)により、カルタゴはシチリア島サルデーニャ島コルシカ島ヒスパニアの植民都市などほとんどの領土を失い、第三次ポエニ戦争紀元前149年-紀元前146年)に敗北して都市は破壊された。

紀元前2世紀には、ローマは西地中海一帯のほとんどを支配するようになり、その影響力は急速に東方へと及び始めていた。紀元前1世紀、ローマはヘレニズムの流れを持ったアンティゴノス朝セレウコス朝を滅ぼし、全地中海の覇者となった。

内乱の一世紀[編集]

ローマ共和国の統治機構は、都市国家のそれから生まれたものであり、広大な領土を統治するのに相応しい物ではなかった。元老院は領土が拡大される度に制度改良を行い諸問題に対処してきたが、大本が都市規模の国家を統治するためのシステムである以上、そうした改革にも限界があった。それゆえローマ領内において様々な歪が生じ始めたが、硬直化した元老院はこれに対し制度の抜本的改革ではなく、軍隊を動員しての抑圧という短絡的な手段で答えた。紀元前139年にローマを揺るがす大反乱が発生(シチリア島奴隷反乱)、騒乱自体は無事鎮圧されたものの、ローマにおける共和政は明らかな行き詰まりを見せ始めていた。この腐敗した共和政を改革するべくティベリウス・グラックス護民官として制度改革を推進するが、その過程で元老院と対立し、紀元前133年、志半ばにして支持者達と共に非業の死を遂げる。紀元前121年、兄の志を継がんとした弟のガイウスもまた元老院と対立し失脚、数千人と言われる支持者達も処刑された。このグラックス兄弟の死と改革の頓挫は共和制ローマの混迷を決定的なものとし、これにより内乱の一世紀が始まる。

その後、軍人出身の執政官ガイウス・マリウスは上述の「歪」の一つである軍の弱体化と自作農の没落に対処すべく軍制改革(詳細はマリウスの軍制改革を参照)を行ない、軍の質的向上と失業農民の雇用確保に成功。またマリウスは自らの改革により精強さを取り戻したローマ共和国軍を率い、ゲルマニアからローマ領内へ侵入したゲルマン人の軍勢に大勝(キンブリ・テウトニ戦争)するなど、ローマの国防力再建に成果を挙げた。しかし軍内部でイタリアの同盟市民とローマ市民との待遇差が消えたため、彼らは同じローマを構成する住民として市民権の付与を求め始めるようになり、これを既得権益が失われると考えた元老院とローマ市民が拒絶したことで同盟市の大反乱を引き起こすことになる(同盟市戦争)。更に軍を構成する兵士が市民兵から職業軍人へ変化したことで軍からは世俗性が失われ、次第に議会や民衆よりも直近の上司である将軍達に忠誠心を抱くようになり、これは後に起きる内乱の一端となる。

紀元前88年、ついにローマ国内での内部対立はオプティマテス(閥族派)のルキウス・コルネリウス・スッラポプラレス(民衆派)のガイウス・マリウスの軍事的衝突という内戦状態に発展し、ローマの混迷は頂点に達する。ローマ人の犠牲者は6年間で数万人となった。内戦に最終的な勝利を収めたスッラは独裁官となり、元老院の権限強化を進めた。

スッラの死後、ローマはスパルタクスを首謀者とする第三次奴隷戦争紀元前73年-紀元前71年)を鎮圧したマルクス・リキニウス・クラッスス、オリエント一帯を征服した軍の実力者グナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの甥として頭角を現しつつあったガイウス・ユリウス・カエサルによる三頭政治へ移行する。三頭政治の一角を占めていたカエサルはガリア戦争紀元前58年-紀元前51年)の成功によって名声を挙げ、クラッススの死後に起きたポンペイウスらとの内戦にも勝利、ローマの権力を一手に収めると終身独裁官となり急進的な政治改革を推進した。だがこうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年3月、反カエサル派の元老院議員たちによって暗殺された。

カエサルの姪の息子にあたり、養子となってその後を継いだオクタウィアヌスはカエサルの腹心であったマルクス・アントニウスらと同盟を結んで共和主義者を打倒した。しかし、その後主導権を巡って両者の対立は深まり再び内戦へと発展してしまう。オクタウィアヌスはプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラと組んだアントニウスを、紀元前31年アクティウムの海戦で破った。これにより内乱は終結し、約1世紀に渡る混迷に終止符が打たれた。

ローマ帝国の誕生と「パクス・ロマーナ」[編集]

紀元前27年、オクタウィアヌスは元老院からアウグストゥスプリンケプス(第一の市民)の称号を送られ、インペラートル(この時はローマ軍団の最高司令官という意味)となった。

アウグストゥスは、共和政をないがしろにすることはなかったが、実質的に皇帝として統治したため、これよりローマ帝国が誕生したとされる。実際に帝政がより明らかになるのは、アウグストゥスの養子ティベリウスが後を継いでからである。

帝国の成立はその属州に平和と安定をもたらし、属州は帝国に繁栄をもたらした。それとともにローマ市民権もゆっくりと属州に広がり、法規も不完全なものが多かったが、行政官による恣意的なものではなくなった。

ローマ帝国の版図もさらに拡大された。最も顕著なものは、47年の皇帝クラウディウスによるブリタンニアの征服である。

1世紀は、ほとんど内乱と暴動の鎮圧に費やされた。「四皇帝の年」として知られる内戦中にユダヤ属州で起きたユダヤ人の暴動以外にも、ゲルマン人やダキア人カレドニア人や東方の大国パルティアとの戦争が相次いだ。

2世紀の前半は、トラヤヌスマルクス・アウレリウス・アントニヌス五賢帝と称される皇帝による治世の下、帝国は最盛期を迎えた。 歴史家のエドワード・ギボンは、もしもその状況が見かけほど良くなくても、人びとにとっては最も平和な時代であっただろうと述べている。(パックス・ロマーナを参照)

古代ローマの終焉[編集]

実際に帝国内部の状況、特に経済は徐々に悪化しつつあったが、3世紀に入ると異民族の侵入や内戦がそれに拍車をかけ、帝国を崩壊へと導いた(3世紀の危機)。

皇帝ディオクレティアヌス(在位284年-305年)やコンスタンティヌス1世(在位306年-337年)により、帝国の再建が試みられた。コンスタンティヌス1世は、内戦においてキリスト教徒の助けを借りたこともあり、313年ミラノ勅令を発してキリスト教を公認した。380年には、テオドシウス1世によってキリスト教国教とされた。

395年テオドシウスの死去に伴い、それぞれミラノ(後にラヴェンナ)とコンスタンティノポリス首都とする西ローマ帝国東ローマ帝国に分割統治された。

378年アドリアノープルの戦いにローマ軍が敗北したことで、ゲルマンの民族大移動は止めようもなく、ゴート族フン族ヴァンダル族フランク族ブルグント族の侵入が続いた。410年にローマが略奪された(ローマ掠奪英語版)。

中世[編集]

中世の混乱[編集]

476年ゲルマン人出身の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国皇帝ロムルス・アウグストゥルスが退位させられる。オドアケルは西皇帝の帝冠を東ローマ皇帝ゼノンへと贈り、西ローマ帝国は滅亡した。なお東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、その後も1000年にわたって存続した。

5世紀に入ると東ローマ帝国を荒らしていた東ゴート族の王テオドリックが、ゼノン帝の命を受けてオドアケルを倒し、東ゴート王国を建国し、東ローマ皇帝の代理という名目で統治を行った。また、シチリア島サルデーニャ島コルシカ島はアフリカからのゲルマン人であるヴァンダル族に征服された。

6世紀には旧西ローマの再統一をもくろむ皇帝ユスティニアヌス1世が将軍ベリサリウス率いる軍を派遣し、まずは北アフリカに居座るヴァンダル族を滅ぼした。続いて東ゴートの王位継承に異を唱えて再びベリサリウスを派遣するが(ゴート戦争)、勝利を収めたベリサリウスをすぐに本国に召還するなどして戦役は長引き、546年12月に東ゴート軍は、イサウリア人ドイツ語版ハンガリー語版オランダ語版の裏切りによってローマを陥落させ、ローマ掠奪英語版を行なった。最終的に552年7月には将軍ナルセスがゴート族を打ち破り(ブスタ・ガロールムの戦いギリシャ語版イタリア語版英語版 ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum、タギナエの戦い イタリア語: Battaglia di Tagina 英語: Battle of Taginae)、イタリア全土が東ローマに統一され、イタリアはローマ帝国領となった。しかし、20年のイタリア全土を巻き込んだ戦闘、および東ローマによる圧政は住民や土地を著しく疲弊させただけであり、さらにローマ帝国とは言うものの、当時の帝国の中心は東方へ移っており、廃墟となったローマは単なる一地方に転落してしまった。

ランゴバルド王国[編集]

8世紀初頭のイタリア。オレンジ色はランゴバルド王国、黄色及びピンク色は東ローマ帝国領。ただしピンク色は係争地

ユスティニアヌスが没して間もない568年ランゴバルド族アルボイーノが北イタリアに侵入し南端を除くイタリア半島を征服しランゴバルド王国(ロンゴバルド王国)を建国した。ただし、東ローマの総督府がおかれたラヴェンナから、教皇の居るローマにかけての南北に細長い部分は、8世紀初頭まで征服できなかった。こうして後の教皇領となる部分が出来上がった。

5世紀以降、イタリア半島は東ローマ帝国ゲルマニア地方の諸民族、アラブ人などの外国勢力の侵略を受け、また外国の勢力に後押しを受けた小国、公国王国が乱立し、相争う状態に陥ったことで政治的な統一性は失われていった。ゲルマン人のランゴバルド族は、北部のランゴバルド王国のほか、スポレート公国ベネヴェント公国を支配したが、前者の二つはフランク王国に併合された。ベネヴェント公国はランゴバルド王国の滅亡後、ベネヴェント侯国と称し、サレルノ侯国イタリア語版英語版カープア侯国イタリア語版英語版を成立させた。南イタリアではビザンツ帝国からナポリ公国イタリア語版英語版アマルフィ公国ガエータ公国イタリア語版英語版などが独立した。

教皇派と皇帝派の対立[編集]

そのような状況下でカトリック教会は唯一安定した組織だと見なされ、大きな政治権力を握るようになった。ローマにいる教皇はイタリアの一部を直接統治していたが、その影響力はイタリア全域にとどまらずキリスト教化されたヨーロッパ中に及んでいた。774年フランク王国カール大帝はローマ教皇の求めに応じて北イタリアに侵攻、ランゴバルド王国を滅ぼし、イタリア北部をフランク王国に組み入れた。800年には西ローマ皇帝として戴冠したが、このことが神聖ローマ帝国の由来となる。

827年にアラブ人の侵略によってシチリア島は征服され(ムスリムのシチリア征服イタリア語版英語版827年-902年)、シチリア首長国イタリア語版アラビア語版英語版831年 - 1072年)が成立。

843年ヴェルダン条約カロリング朝フランク王国は、東フランク王国西フランク王国中フランク王国に三分裂し、それぞれ神聖ローマ帝国ドイツオーストリア)、フランス王国イタリア王国の原型となった。962年オットー1世が教皇ヨハネス12世により戴冠。10世紀以降、イタリアをみずからの領土だと主張する神聖ローマ帝国と教皇の対立により、イタリア半島はしばしば戦場となった(教皇派と皇帝派の対立)。11世紀初頭になるとイタリア中部や北部の都市、特にヴェネツィアヴェネツィア共和国697年 - 1797年)、ミラノミラノ公国1395年 - 1797年)、フィレンツェフィレンツェ共和国1115年 - 1532年)などが海運商業によって繁栄するようになり、名目上は神聖ローマ帝国の傘下にありつつも、実質的には独立した政治的権限を持つ都市国家へと発展する。12世紀には北イタリアの都市国家群がロンバルディア同盟を組織し、イタリアでの実権を「バルバロッサ」として知られる皇帝フリードリヒ1世から防衛している。

東ローマ帝国が支配するイタリア南部にはベネヴェント公国サレルノ侯国イタリア語版英語版カープア侯国イタリア語版英語版ナポリ公国イタリア語版英語版アマルフィ公国ガエータ公国イタリア語版英語版アラブ人が支配するシチリア島にはシチリア首長国イタリア語版アラビア語版英語版831年 - 1072年)が分立していた。ローマ教皇の求めでロベルト・イル・グイスカルドをはじめとするノルマン人ヴァイキングがこれら諸国の征服を行い(ノルマン人による南イタリア征服)、1130年オートヴィル朝シチリア王国が成立した。

神聖ローマ皇帝(ホーエンシュタウフェン家)がシチリア王家との政略結婚により両家の血を引くフリードリヒ2世が誕生し、成人するとイタリア半島統一の意志をあらわにした。しかし、ロンバルディア同盟などの反抗によりフリードリヒは統一を果せず、子孫がその意志を継いだ。皇帝によるイタリア統一を危惧したローマ教皇は、フランスの手を借りた。フランスは王弟シャルル・ダンジューを送り込み、1266年にフリードリヒ2世の息子マンフレーディを倒し、シャルルはシチリア王カルロ1世として南イタリアを支配した。1282年、フランス支配に不満を持ったシチリア住民は、シチリアの晩祷と呼ばれる反乱を起こし、シャルルをナポリに追放、マンフレーディの娘婿にあたるアラゴン王ペドロ3世に庇護を求めた。このことによりシチリア王国は2つに分裂し、半島側はナポリ王国と呼ばれることとなった。

ルネサンス期[編集]

1494年のイタリア
ミケランジェロの「ダビデ像」。イタリア・ルネサンスの精華の一つである。

北イタリアのコムーネは、シニョリーア制から君主制である公国などへと変化し、近隣諸国との紛争を繰り返していた。コンドッティエーレと呼ばれる傭兵隊長が君主に仕え、領土の奪い合いを行った。

そんな中、フィレンツェ共和国メディチ家や、ローマ教皇、各国の君主は芸術を保護し、ダンテジオットミケランジェロレオナルド・ダ・ヴィンチラファエロといったルネサンスの巨匠たちによって偉大な文化的・芸術的業績が成し遂げられた。

1435年アンジュー家のナポリ女王ジョヴァンナ2世が、ヴァロワ=アンジュー家ルネ・ダンジューを後継者に指名して死去した。しかし、シチリア王でもあったアラゴン王家のアルフォンソ5世が反発し侵攻、1442年にナポリ王となった。

この黄金時代は、16世紀フランススペインなどの大国にイタリア諸都市が次々と併合されることで終わりを告げた(イタリア戦争)。

イタリア戦争(1494年 – 1559年)[編集]

1494年、フランス王シャルル8世は、ヴァロワ=アンジュー家からナポリ王位を継承したと主張、イタリアに侵攻して1495年にナポリ王となった。しかし、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガ率いるミラノ公国ヴェネツィア共和国の同盟軍にフォルノーヴォの戦いイタリア語版フランス語版英語版で敗北し撤退、同年ナポリはアラゴンの手に戻った。

1499年にはフランス王ルイ12世が侵攻、ミラノ公国を占領し、翌年ミラノ公位を奪取した。これに対し教皇ユリウス2世神聖同盟の結成を行い、フランスを追い払うのに成功した。

外国による支配の時代(1559年 - 1814年)[編集]

16世紀初頭、主要な通商路が地中海から大西洋に移ってしまったことで、イタリアは経済危機に見舞われていた。さらにイタリアを舞台にしたイタリア戦争が頂点に達し、イタリアのほとんどの弱小国家はスペインなどの外国勢力に敗れた。ミラノ公国ナポリ王国は併合され、ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国フィレンツェ共和国(のちのトスカーナ大公国)等は生き延びたが、弱体化していった。

宗教改革教皇の軍隊の敗北により、教皇権の重要性は失われ、カトリック教会もまたひどく弱まった。カトリック教会は宗教改革の波及を防ぐために、スペイン国王兼神聖ローマ帝国皇帝カール5世やその後継者たちの戦争を支持し、対抗改革と呼ばれる自己改革をおこなって、教会生活における厳格な規律を設けた。

イタリアではジョルダーノ・ブルーノが異端の宣告を受け、火あぶりの刑に処された。他にもトマソ・カンパネッラ天文学者ガリレオ・ガリレイも異端を宣告された。カトリック教会によるこのような新しい知識や文化への締め付けは、その経済危機とも相まって、イタリアの文化的先進性を喪失させた。その結果イタリアは数世紀の間凋落の一途をたどらなければならなかった。

18世紀のイタリアの政治的状況は、16世紀の時とほとんど同じであった。唯一の違いは干渉してくる外国勢力がオーストリア帝国に変わったことだった。 サヴォイア公国スペイン継承戦争1701年 - 1714年)に参戦。 1768年ジェノヴァ共和国は、独立戦争が続くコルシカ島をフランスに譲渡した。

ナポレオン戦争[編集]

ナポレオン・ボナパルト[1]は、1796年にフランスの将軍としてイタリアに侵入した。当時ミラノ公国はオーストリア帝国の属国と化していた。また、エミーリアロマーニャなどの教皇領北部も実質的には領主により支配されていた。それらの国の住民は圧政に耐えかねてナポレオンを解放者として受け入れたため、戦局はナポレオン優位に動いた。この時中立という立場を取りつつもオーストリア軍に自国の領土の通過を許したヴェネツィア共和国は、ナポレオンの反感を買ってしまう。ヴェネツィアは弱体化も激しく目立った抵抗も出来ずにナポレオン軍の侵略を許し、オーストリアに譲渡されてしまう。1797年には、北イタリアの占領していた地域をまとめてチザルピーナ共和国を建国し、1798年には教皇領のローマもフランスの手に落ちる。1805年、ナポレオンはオーストリアから奪ったヴェネト地方、エトルリア王国などを統合し自身を大統領とするイタリア共和国を建国し、皇帝になるとともに共和国はイタリア王国となった。残るナポリ王国も妹婿のミュラに委ねており、イタリア半島はナポレオンによりほぼ統一されたことになる。

イタリアの統一(1815年 - 1861年)[編集]

ガリバルディとヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

イタリアとフランスの国境にある山岳地帯のサヴォイアを領域とするサヴォイア公国は、イタリアにおける領土を拡大しサルデーニャ島ピエモンテの北西部を領有するまでになった。しかし、1796年フランスナポレオン1世がイタリアを侵略するとこの状況は劇的に変わった。チザルピーナ共和国のような、ナポレオンが北イタリアに建国した国々は、実質的にはフランスの衛星国に過ぎなかったため、イタリア人の間に民族主義的な運動が勃興する。

これらフランスの衛星国はナポレオンの没落後生き残ることができず、ウィーン会議によって、北東部の旧ヴェネツィア共和国領と旧ミラノ公国のロンバルディアはオーストリア帝国の属国であるロンバルド=ヴェネト王国となり、旧ジェノヴァ共和国を含む北西部とサルデーニャ島はサルデーニャ王国、半島南部とシチリア島両シチリア王国トスカーナ大公国教皇領、その他中央部にいくつかある小国というようにイタリアは分割された。

保守反動的なウィーン体制に対して、各地で自由主義運動が高まった。1820年スペイン立憲革命が起こったことを契機として、ブルボン家の統治下にあった両シチリア王国でナポリ革命(ナポリ蜂起)、シチリア革命(シチリア蜂起)が起こった。この革命は内部対立とオーストリア軍の介入によって失敗に終わったが、翌1821年にサルデーニャ王国でピエモンテ革命(ピエモンテ蜂起)が起こった。しかし、この蜂起も失敗に終わった。1830年フランス7月革命は、イタリアにも及び、カルボナリが各地で革命を起こした。しかし統一の理想には程遠く、オーストリアによって翌年には鎮圧されてしまう。しかしカルボナリの理想は、後のイタリア統一戦争へと引き継がれていった。1848年にはイタリア各地で「1848年革命」が勃発し、革命派の軍がサルデーニャ王カルロ・アルベルトのもとに集結したが(第1次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版)、最終的にヨーゼフ・ラデツキー率いるオーストリア軍に敗れ、ヴェネツィア臨時政府も解散させられてしまった。

このような試みが何度か失敗に終わったのち、情勢は1859年から1861年にかけて急速に転換した。1859年、サルデーニャ王国の首相カヴールは、フランス皇帝ナポレオン3世との会談により同盟を結んでオーストリア帝国を攻撃(第2次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版)、ロンバルディアを奪還するとともに、トスカーナを含むイタリア中部の諸領域の併合にも成功した。1860年ジュゼッペ・ガリバルディ千人隊(赤シャツ隊)を創設して、シチリアやイタリア南部へ遠征に向かい、ブルボン朝の軍を何度も打ち破って征服に成功した。そしてその領土をサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に無償で献上し(テアーノの握手イタリア語版)、イタリアの大部分はサルデーニャ王の元に帰せられた(イタリア統一戦争)。1861年、統一国家としてのイタリア王国の成立が宣言される。

イタリア王国(1861年 - 1945年)[編集]

成立後[編集]

1861年3月に統一を成し遂げた成立当初のイタリア王国には、教皇の支配下にあったローマ1870年併合)、ヴェネツィア一帯の諸県(オーストリアとの再度の戦争により1866年併合)は含まれていなかった。1866年普墺戦争に参戦し、イタリアは緒戦において苦戦を重ねつつも結果的には勝戦国となりヴェネツィアを獲得(第3次イタリア独立戦争イタリア語版フランス語版英語版)。さらに1871年普仏戦争ではプロイセンに与して戦勝国となりローマを併合、同市を首都として遷都する。この結果ローマ教皇との政治的対立が発生し、これは1929年ラテラノ条約の締結まで続く。

1896年にはエチオピアに侵攻(第一次エチオピア戦争)。軍の近代化に成功していたエチオピア軍を過小評価した事から寡兵しか送らず敗北、植民地化に失敗する。

1911年にはオスマン帝国リビアに侵攻(伊土戦争)。同戦争に勝利したイタリアはリビアとドデカネス諸島を獲得する。

第一次世界大戦[編集]

第一次世界大戦直前はドイツ、オーストリアとの三国同盟を対外政策の基軸としていたが、トリエステ南チロルなどに代表される「未回収のイタリア」問題からオーストリアと対立し局外中立を表明。大戦中期の1915年、イギリス・フランスと未回収のイタリア問題の解決を含んだロンドン秘密協定を結び、協商国側として参戦した。

大戦直後[編集]

戦勝国となったイタリアは、パリ講和会議オーストリア・ハンガリー帝国から領土を獲得するとともに、日本の提案した人種差別撤廃案に賛成した。戦後に発足した国際連盟の常任理事国となった。しかし、いわゆる「未回収のイタリア」としてトリエステ南チロルイストリア半島は獲得できたものの、ダルマチアや港湾都市フィウメ(リエカ)を併合することはできず、国民の不満を残した。また、総力戦となった大戦はイタリア経済に過度な負担となり、戦争後には深刻な不況へと突入した。街には失業者と復員兵が溢れかえり、都市部では労働者の争乱、農村部では貧農の暴動が多発した。イタリア国民はこの戦勝国とは思えぬ悲惨さを「名誉なき戦勝国」と自嘲的に評した。

ファシズム政権[編集]

クーデターの『ローマ進軍』中のファシスタ党員

1922年、ファシスタ党が「ローマ進軍」を起こすと、革命の危機に怯えた王家はムッソリーニに組閣を命じた。1923年には新選挙法(アチェルボ法)が定められた。これにより全国で最多得票を得た政党が議席の3分の2を獲得できるようになり、1924年の選挙でファシスタ党が議会の最大勢力となった。統一社会党のジャコモ・マッテオッティはファシスタ党の暴力的手法などを批判したが、ファシスタ党員によって暗殺された。議会の内外で高まるファシスタ党批判に対し、ムッソリーニは独裁体制の構築を急ぎ、1926年には一党独裁体制を確立させ、1928年にはファシズム大評議会が正式な国家機関となった。

1929年、ローマ教皇庁のガスパッリ枢機卿とラテラノ条約(ラテラーノ条約)を結んだ。これにより、教皇領併合以来のイタリア国家とローマ教皇の対立構図は解消され、バチカン市国が成立した。その後は膨張政策を指向して1935年よりエチオピアへの軍事侵攻を開始、1936年にイタリア領エチオピア帝国を建て、その東部に位置するエリトリアソマリアとあわせてイタリア領東アフリカを築いた。そのほか、1938年にはアルバニアを併合した。こうした膨張政策は国際的孤立を引き起こし、スペイン内戦への介入を契機にナチス・ドイツへの接近を進めた。1937年にはドイツ日本日独伊防共協定を結成、国際連盟からも脱退した。

第二次世界大戦[編集]

イタリア植民地帝国の版図(1940年)

第二次世界大戦ではドイツに呼応する形で1940年イギリスフランスに宣戦しフランス南部に侵入する。またバルカン半島や北アフリカ戦線にも攻勢を仕掛けるが、開戦前から疲弊していた経済では十分な軍備を整えることは出来ず、また国内資源に乏しいイタリアにとってイギリス・アメリカとの対立は資源不足に陥ることを意味していた。結果、訓練・装備の行き届いた一部の精鋭部隊を除けば芳しい戦果を挙げることは出来ず、次第にドイツの軍事的援助を受けるようになる。

1943年7月、日に日に悪化する枢軸側の戦況に対し危機感を抱いた王家とファシスト党の反ムッソリーニ派によってムッソリーニは逮捕され、新たにバドリオ政権が成立した。バドリオ政権は連合軍と休戦交渉を進め、ドイツ軍がイタリアへの進駐を開始すると政府・国王と、軍内部の王党派は南部イタリアのブリンディシに脱出し、連合軍の一員としてドイツと交戦を開始する(9月に無条件降伏調印、10月にドイツに宣戦布告)。

一方、幽閉されていたムッソリーニはドイツ軍の特殊部隊によって救出され、北イタリアのガルダ湖湖畔の町サロイタリア社会共和国(サロ共和国)を樹立、軍内部のムッソリーニ派を中心とするRSI(イタリア社会共和国)軍が形成される。これによりイタリアは、ドイツ軍と連合軍、RSI軍とイタリア王国軍、そして第三勢力とも言うべきパルチザンも加わった内戦状態となる。因みにバドリオ政権は1945年7月15日に日本にも宣戦布告を行っているが、日本政府は戦時中、バドリオ政権によるイタリア王国を承認せず、ムッソリーニ政権によるイタリア社会共和国と国交を結んでいたため、反乱軍の宣戦行為は無効として受理していない。

最後のイタリア王、ウンベルト2世

その後、連合軍の北進とドイツの崩壊によってイタリア情勢は連合国側に傾き、イタリア社会共和国もパルティジャーノと呼ばれたレジスタンス活動によって打倒され、スイスへの亡命を図ったムッソリーニはパルチザンに拘束され、裁判もなく公開処刑にされた。1946年6月、国民投票で王制廃止が決定(北部は共和制優勢で、南部では王政支持派が優勢であったという)。1946年5月に即位した王ウンベルト2世を筆頭にイタリア王家は全員国外追放され、イタリアは共和制に移行する。

イタリア共和国(1945年 - 1992年)[編集]

1947年パリ講和条約により、フランス国境に若干の変更があったほか、東部国境はユーゴスラビア側に動かされ、トリエステ市の周辺は自由圏に指定された。1948年イタリア共和国憲法が発効する。

1949年NATO同盟国およびアメリカ合衆国の同盟国となる。このことによりマーシャル・プランを通じての経済復興が進む。同年のちのEUとなるEECのメンバーとなる。1950年代-1960年代を通じて後に「奇跡的復興」とよばれる長期にわたる経済成長が実現。このことにより政情不安を抱えながらもイタリアは先進国へ返り咲いた。1954年には米英軍の統治下にあった自由圏Aゾーンおよびユーゴスラビア軍の統治下にあった自由圏Bゾーンがそれぞれイタリア、ユーゴスラビアへと分割され帰属することとなる。

鉛の時代[編集]

赤い旅団に誘拐されたアルド・モーロ元首相

1970年代後半から1980年代初頭は、政治的に非常に不安定な状態に陥り、「鉛の時代イタリア語版英語版」(イタリア語: Anni di piombo英語: Years of Lead)として知られている。

1978年にはキリスト教民主主義の党首であるアルド・モーロ元首相がマリオ・モレッティイタリア語版英語版に率いられた極左テロ組織の第二次赤い旅団によって殺害される。これにより、歴史的妥協から生まれたキリスト教民主党と貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル率いる共産党との連立政権は崩壊する。なお、モーロ暗殺事件にも、ジュリオ・アンドレオッティが関わっていたことが後に明らかになっている。広範な社会的対立や「ボローニャ中央駅爆弾テロ事件」(1980年8月2日)などの一般市民をも巻き込んだテロ事件などが左派と右派の急進的政治集団によって引き起こされた。しかしこの様なテロのいくつかは、ジュリオ・アンドレオッティアミントレ・ファンファーニなどのキリスト教民主主義の実力者や、情報・軍事保安庁ピエトロ・ムスメキイタリア語版英語版将軍などの軍関係者が関わっていた、もしくは裏で指揮していたことが明らかになっている。

さらに1981年に明らかになった「P2事件」においては、多くの政治家や軍関係者、実業家やマフィア関係者が、極右政党の党首でアンドレオッティやマフィアとの関係が深いリーチオ・ジェッリが代表を務める秘密結社「ロッジP2」に属していたことが明らかになり、国際的なスキャンダルになった。さらに、「ロッジP2」のメンバーで、宗教事業協会(バチカン銀行)の主力行であるアンブロシアーノ銀行の頭取でもあるロベルト・カルヴィが暗殺され同じく国際スキャンダルになるなど、こうした不安定な政情は1980年代初頭に収束するまで続いた。

「鉛の時代」の終わるにつれ、共産党は着実に議席を伸ばしていき、1980年代には共和主義勢力と社会主義勢力により、初の非キリスト教民主党政権が樹立される。一方で社会党ソビエト連邦およびイタリア共産党に対する批判を強め、レーガン政権によるイタリアへのミサイル配備を支持するなど、意見対立も散見された。

第二共和政(1992〜 )[編集]

冷戦が崩壊した1990年代は検察によるマフィアの摘発が相次ぎ、これに対抗する形でのマフィアの報復抗争が激化、反マフィア治安判事のジョヴァンニ・ファルコーネ1992年5月23日カパーチの虐殺イタリア語版)とパオロ・ボルセリーノ1992年7月19日アメリオ通りの虐殺イタリア語版英語版)が殺害される事態にまで発展した。また、アンドレオッティ元首相とマフィアとの癒着やクラクシ元首相の汚職、政治家の汚職が多数発見され(マーニ・プリーテ)、これらの政財界における大規模汚職の発覚は「タンジェントポリ(「汚職の町」の意)」と呼ばれ、多くの国民からの批判を呼んだ。これらのアンドレオッティやその側近の相次ぐ疑惑を受けて、アンドレオッティが長年事実上の最高権力者として君臨したキリスト教民主主義は完全に支持を失い分裂状態に陥った。

1994年には、TVや雑誌などの企業を持つフィニンヴェストの総裁で、上記の「ロッジP2」のメンバーでもあったシルヴィオ・ベルルスコーニは、自らの政党フォルツァ・イタリアを旗揚げし、メディア戦を展開、下院選に当選・連立内閣を結成して首相となった。これらの影響で戦後の最大政党であったキリスト教民主主義 やイタリア社会党などが解体し、政界再編が促された。

2002年には欧州の通貨統合により、独自通貨であるイタリア・リラからユーロへの切替えを行った。

2003年のアメリカ軍によるイラク侵攻をベルルスコーニ内閣は支持し、イタリア軍の海外派兵を行ったが、2005年アメリカ軍によるイタリア兵の射殺など犠牲者が増えるにつれ、またイラク戦争の大義が疑われ始めるにつれ、世論は撤退に傾き派兵を推進したベルルスコーニ政権への批判が高まっていった。これは改善しない経済や汚職疑惑、閣僚の失言によって支持率が低下していたベルルスコーニ政権に追い討ちを掛けることになった。

2006年の総選挙においては、ロマーノ・プローディ率いる中道左派連合が勝利し政権が交代。プロディ政権は、批判の強かったイラク派兵の終結や組織の基盤固めを進めている。

参考文献[編集]

  • 井上幸治編 『南欧史』 山川出版社 1977年。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 1769年にコルシカ島で生まれた

関連項目[編集]

古代[編集]

中世[編集]

近世[編集]

近代[編集]

現代[編集]

小説家[編集]