コトル湾

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地図
Bay of Kotor maps.jpg
情報
名称: Bay of Kotor
Бока которска
Boka Kotorska
位置: モンテネグロ南西
河川: カルスト水系、ソポト川、スクルダ川
沈んでいる水源
目的地:
自治体: コトルヘルツェグ・ノヴィ
ティヴァトリサン
ドブロタペラスト
記録: アドリア海沿岸部最大の湾,
沈んでいる渓谷河川
(Bokeljska rijeka)
数字
水域: 87 km2
最深部: 60 m
水深平均: 27.3 m
水面積: 2412, 306 km3 (2,4 mrd m3)
標高最高地点: オリエン山 = 1894 m
標高最低地点: 海面 = 0 m
長さ: 28,13 km
最も幅のある地点: 7 km
最も狭い地点: 0.3 km
水系: カルスト水系およそ4000 km²
海岸線: 107.3 km
画像

入り組んだ湾の様子。左からヘルツェグ・ノヴィ湾、ティヴァト湾、奥のリサン湾、小コトル湾

コトル湾セルビア語: Бока которскаBoka kotorska; クロアチア語: Boka Kotorska; イタリア語: Bocche di Cattaro)は、モンテネグロ南西部にある、アドリア海に面した曲がりくねったの総称である。湾は時にはヨーロッパ最南部のフィヨルドとも呼ばれ、実際、オリエン山の標高の高い台地から流れるボケリ川が、海に浸食されて、川渓谷となっている。モンテネグロの重要な観光地である。

古代から湾内には人が定住し、中世からの町が良い状態で保存されている。コトル、リサン、ティヴァト、ペラスト、ヘルツェグ・ノヴィといった美しい町がその美しい自然環境とともにあり、主要観光地となっている。

湾周囲の陸には信仰の遺産がある。数多くの正教会カトリック教会キリスト教教会、そして修道院がある。観光地である一方、主要巡礼地の一つでもある。

モンテネグロ政府は、コトル湾にヴェリゲ橋という橋を架ける計画を持っている。

歴史[編集]

近郊の村落リサンは、紀元前229年頃にリゾン(Rhizon)と呼ばれたイリュリア人の栄えた都市であった。リゾンはその名を湾に与え、リゾニクス・シヌス(Rhizonicus Sinus)と呼ばれた。リゾンは紀元前168年に古代ローマへ従属し、同時期のアクリヴィウム(AcriviumまたはAcruvium、現在のコトル)はこの頃初めて近隣都市として歴史に名を現した。

コトル(本来はカッタロ、Cattaro)は中世初期以降要塞化され、この時代を通してローマ化したイリュリア人のダルマチア都市の一つとして影響力を持っていた。後にブルガリア帝国、そしてセルビア王国に統治され、中世セルビア王らの保護政治の元で半ば独立した共和国となった。コトル商人の船と重要性は次第に増し、14世紀終わりにセルビアが没落しオスマン帝国が台頭すると、コトル湾はヴェネツィア共和国の支配下に置かれた。コトル湾の一部は15世紀終わりにトルコに征服され、ヴェネツィアはカッタロ市を含む南西部を保持していた。トルコ領は17世紀終わりに取り戻され、湾全体がヴェネツィア領アルバニア・ヴェネタen:Albania Veneta)に含まれた。20世紀まで、旧トルコ領と旧ヴェネツィア領との違いは明かであった。なぜなら旧トルコ領は正教会信徒が多数を占め、旧ヴェネツィア領はカトリックが多数派だったからである。

ボケリ家は非常に強い艦船を持ち、18世紀には30隻を数えた。湾は、ドゥブロヴニクとヴェネツィアのライバルであった。

19世紀初頭、コトル湾一帯の地方はナポレオン・ボナパルトの傀儡国家イタリア王国に含まれ、のちフランス第一帝政の地方行政区画イリュリア州となり、フランス帝国に組み込まれた。その後、ロシア帝国の支援を受けたモンテネグロ主教公ペータル1世ペトロヴィッチ=ニェゴシュen:Petar I Petrović Njegoš)に征服され、1813年に湾全てがモンテネグロに併合された。

1815年、湾はオーストリア帝国1867年以降オーストリア=ハンガリー帝国)に併合され、ダルマチア県に含まれた(1867年以降チスレイタニア)。1848年、モンテネグロ主教公ペータル2世ペトロヴィッチ=ニェゴシュen:Petar II Petrović-Njegoš)は、ハプスブルク支配下にあるダルマチア、クロアチアスラヴォニアを統合しようと試み、クロアチアのバンであるヨシップ・イェラチッチのため1848年革命を戦うよう住民たちに助言した。しかし、最初から明白にセルビア統一の立場を取っていたコトルの住民集会はこれを拒絶した。

カッタロ軍港に停泊するオーストリア=ハンガリー帝国海軍水雷艇隊(1915年)

第一次世界大戦中、カッタロはオーストリア=ハンガリー帝国海軍の作戦基地として整備され、潜水艦部隊などの根拠地が置かれたほか、大戦中期にはポーラ軍港から艦隊主力の一部も移駐してきた。モンテネグロ王国はコトル湾を手に入れようとし、ロヴチェン山(en:Lovćen)から爆撃を行った。しかし、1916年からオーストリアはモンテネグロを打ち負かした。1918年11月7日、セルビア軍が湾に入り、解放者として人々に歓迎された。オーストリア帝国下の住民の自己決定権受託によって、コトル湾地方は自らセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国の一部となることを宣言した。一ヶ月の内に、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国が形成され、1939年にはユーゴスラビア王国と改名した。コトル湾は1922年に廃止されるまでダルマチアの基礎自治体の名前であった。ゼタ州へ併合され、1939年以降ゼタ県となった。

1818年の統計によれば、地域には29,899人の住民がいた。21310人は正教会信徒で、8589人がカトリックであった。当時、正教会信徒人口が多いのはコトル、リサン、グルバリ、ブドヴァ、ヘルツェグ・ノヴィであった。カトリックが優勢なのは、ドブロタ、プルチャニ、ストリヴ、コトルのコンタダ、ペラストであった。

コトル周囲のアルバニア・ヴェネタ

1848年、セルビアのコトル防衛隊はペータル2世ペトロヴィチ・ニェゴシュのクロアチア=スラヴォニア統合の提案を拒否し、別のスラヴ国家(すなわちモンテネグロ)と統合する前にセルビアと統合しなくてはならないという姿勢を示した。

1880年における、ボカ地方(ボカ・コトルスカ、コトル湾地方を指す名称)の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった。:

基礎自治体コトルでは、クルトレは899人の正教会信徒に対しカトリック教徒は89人であった。基礎自治体リサン及びペラストでは、カトリック教徒683人に対し正教会信徒327人であった。

1890年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった。:

1900年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体だけで人口は以下の通りであった:

1900年における、ボカ地方の基礎自治体全ての人口は以下の通りであった。:

  • ブドヴァ = 正教会信徒5,526人、カトリック教徒1,537人
  • ヘルツェグ・ノヴィ = 正教会信徒7,377人、カトリック教徒2,198人
  • コトル = カトリック教徒7,617人、正教会信徒7,207人
  • リサン = 正教会信徒4,020人、カトリック教徒1,385人

1910年における、ボカ地方の沿岸基礎自治体のみでの人口は以下の通りであった。:

1910年の調査によると、コトル湾地域には40,582人の住民がいた。そのうち、24,794人が正教会信徒、14,523人がカトリック教徒であった。しかし、同時期のコトル湾沿岸地域には22,823人の住民がおり、そのうち13,002人がカトリック、9,331人が正教会に属していた。

16世紀のボッケ・ディ・カッタロの地図
オーストリア=ハンガリー帝国時代、ダルマチア王国内にあるコトル湾

1918年から、コトル湾はセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(1929年にユーゴスラビア王国と改名)の一部となった。1918年から1922年にかけ、ボカ地方はコトルが別の郡となっていた。1922年から1929年の間、コトルはゼタ州に、1929年から1941年までゼタ県(en:Zeta Banovia)の一部となっていた。1921年の調査によれば、ボカ地方には36,539人の住民がおり、正教会信徒は23,777人、カトリック教徒は12,342人であった。

1941年4月、イタリア軍がコトル湾地方を占領した。1943年9月まで、イタリア領ダルマツィアに併合されていた。1945年以降、モンテネグロ共和国の一部となった。

今日、地方の住民のほとんどが正教会信徒(セルビア人かモンテネグロ人を自称)であり、11%のカトリック教徒はクロアチア人を自称している。

コトル湾地方は、非常に豊富な文化遺産をもつためにUNESCOの保護のもとにある。そこには、かつてあったアルバニア・ヴェネタの最後の名残である、500人ほどのヴェネツィア方言を話す人々が暮らす小さなイタリア人コミュニティーすらあるのである。

1979年、一帯は地震に襲われ、多くの文化遺産が破壊されるか、深刻な損害を受けた。

人口[編集]

コトル湾地方の住民で多数を占めるのは、セルビア人(41.89%)とモンテネグロ人(34.68%)、クロアチア人(7.61%)である。

3つの自治体がコトル湾地方を形成しており、全体で71,443人(2003年調査)の人口を持つ。

宗教別では、76%が正教会セルビア正教会)、11%がカトリック教会に属する。

ボカ地方における民族集団[編集]

セルビア人とモンテネグロ人[編集]

スラヴ族は7世紀にコトル湾周囲に定住した。地域は、セルビア人とドクレアン人との間で分けられていた。 名前が不詳のセルビア正教会教会が13世紀にできた時、最初の主教管区がボカにできた。

歴史的には、3つの正教会派修道院と250の正教会教会が地域にあり、その多くは今も存在する。

クロアチア[編集]

コトル、ペラスト、Tivat、ドブロタ、プルチャニ(Prčanj)、ヘルツェグ・ノヴィ、ブドヴァでは1910年にはカトリックが多数派であった。ヴルマツ半島とスピチの南端(ストモレから、コトル湾とバール近郊にある、モンテネグロ間の境)は、1910年には孤立してカトリックが多数派を占めていた。

1931年からのセルボ=クロアチア系基礎自治体のローマ・カトリックの国勢調査は以下の通りである:

  • コトル: カトリック教徒3,006人、正教会信徒2,090人
  • ドブロタ:カトリック教徒675人、正教会信徒575人
  • ムオ: カトリック教徒483人、正教会信徒97人
  • プルチャニ(Prčanj): カトリック教徒584人、正教会信徒169人
  • ティヴァト: カトリック教徒2,726人、正教会信徒482人
  • ペラスト: カトリック教徒1,103人、正教会信徒322人

例えば、コトルの都市におけるカトリック教徒の人数は、1910年の69%から1991年には7%まで減少した。ヘルツェグ・ノヴィでは70%から2%へ、ティヴァトでは95%から23%に減少した。

1893年、クロアチアの家(Hrvatski dom)がコトルに開館した。

1991年、クロアチア人はコトル湾地方で8%いたが、2003年には7.61%になっている。

ボケリ・マリネ809(Bokeljska mornarica 809)は、沿海に住むクロアチア人の伝統を保存する目的の友愛組織である。

地理[編集]

コトル湾にある基礎自治体、モンテネグロ領のコトル、ヘルツェグ・ノヴィ、ティヴァト
コトル湾


湾はいくつかの小さな湾からなり、狭まる水道でつながれ、ヨーロッパ随一の良質の天然港となっている。 湾内の入り江は正式には川の一部である。非常に猛烈な地殻構造及びカルスト地形となる過程が、この川が浸食される事態を引き起こした。激しい雨の後、有名なソポトの滝はリサンとシュクルダで湧水となって現れ、その他のよく知られる水源はロヴツェン山から渓谷を流れていく。

湾の最も奥は、ティヴァト湾(イタリア語名テオド湾、Teodo)であり、小さな海軍港を持つ。外洋に面した側には、コトル湾への主要出入り口を守るヘルツェグ・ノヴィ湾(カステルヌオーヴォ湾、Castelnuovo)がある。内側の湾は、北西に位置するリサン湾、南東に位置する小コトル湾である。

陸に面した側は、コトルの要塞化された旧市街からさらに遠い聖ヨハネ城まで長い城壁が走る。この様子は風景の中で一目でわかるようになっている。オリエン山にある不毛の高原に属するクリヴォシエ(KrivošijeKrivoscie)は、小さな堡塁が複数集まっている。

コトル湾の沿岸には、多くの興味深い場所がある。ヘルツェグ・ノヴィは、正教会の聖サヴァ修道院、その近郊には美しい庭園のあるサヴィナ修道院がある。16世紀の創建で、多くの17世紀の優れた銀細工品を持つ。ヘルツェグ・ノヴィ東方8マイルには、ペラストの町の対岸の小島にベネディクト会派修道院がある。ペラストの町自体は、14世紀当時に一つの独立国家となっていた。

気候[編集]

コトル湾は地中海性亜熱帯の気候帯内にある。夏季は暑く日照数が多く、秋から冬・春にかけては雨季となる。地中海性気候であるが、広い地方の中では部分的な修正がある。沿海のディナル・アルプス山脈の独自性は、コトル湾においては降雨量の大系となる。オリエン山はヨーロッパで最も降雨量が多い。ちょうどモンスーンのような雨が季節ごとに広範囲に降り、11月の雷雨は時には数日間で2000リットルも注ぐ。8月はしばしば完全に乾季となり、山火事を招く。大きなカルスト湧水の一つソポト湧水は、水の最大の流出量200 m³/sである。この湧水は、季節ごとの多様性の顕著な徴候である。ほとんどの時間の水の動きは鈍いが、激しい雨の後はコトル湾の上部に、20mの高さがある目立った滝が現れる。

測点 標高 [m] 種類 特徴 降水量 [mm]
ズバツキ・カバオ 1894 D 地中海性気候内の亜寒帯 ca. 6250 140日
ツルクヴィツェ 940 Cfsb (fs= 夏季の乾季なし), 地中海性気候内の高山気候 4926 70日
リサン 0 Cs’’a (s’’= 冬季に二度の雨季がある), 地中海性気候 3500 2日

* ケッペンの気候区分以後の分類

2つの風力発電システムはその生態学上の意義から注目すべきものである。ボーラシロッコが湾にも吹く。山から吹き降りる強く冷たいボーラは冬季に現れ、リサン湾で最も厳しい。突風は1時間で250kmにもなり、数時間で気温を下げる事態となる。ボーラの吹く天候状況は頻発するので、船で航行する者は、ボーラが差し迫っているかを示す山頂の雲に注意を払っている。シロッコは温かな湿気のある雨をもたらし、激しい雨をももたらすので重要である。年間通してシロッコは見られるが、秋と春に常に集中している。

測点 時期 標高 [m] 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 1-12月 [mm/m²a]
ヘルツェグ・ノヴィ 1961年-1984年 40 230 221 183 135 130 73 28 45 160 181 326 262 1974
リサン 1961年-1984年 40 405 342 340 235 153 101 66 123 188 295 423 434 3105
グラホヴォ 1961年-1984年 710 351 324 305 251 142 94 55 103 202 416 508 473 3224
ポドヴルスニク(Podvrsnik) 1961年-1984年 630 407 398 367 305 151 101 77 132 238 465 593 586 3820
ヴルバニェ(Vrbanje) 1961年-1984年 1010 472 390 388 321 181 104 70 122 224 369 565 536 3742
クネズラズ(Knezlaz) 1961年-1984年 620 547 472 473 373 207 120 72 136 268 400 629 661 4358
ツルクヴィツェ 1961年-1984年 940 610 499 503 398 198 135 82 155 295 502 714 683 4774
イヴァン・コリタ 1960年-1984年 1350 434 460 742 472 128 198 74 46 94 300 694 972 4614
ゴリ・ヴルフ 1893年-1913年 1311 271 286 307 226 188 148 75 70 215 473 415 327 3129
ヤンコヴ・ヴルフ 1890年-1909年 1017 424 386 389 346 212 124 55 58 202 484 579 501 3750
ツェティニェ 1961年-1984年 655 434 357 367 288 164 92 72 118 209 306 489 498 3394
グラブ=ズブツィ 1934年-1960年 677 333 325 257 195 183 83 59 86 173 360 447 485 2985
トレビニェ 1931年-1960年 276 193 190 160 102 119 70 43 76 110 239 247 249 1762
ドゥブロヴニク 1931年-1960年 49 147 113 102 92 79 60 24 38 97 156 213 186 1307

* ダルマチア、ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロにおける月ごと及び年ごとの降水量変動範囲

ギャラリー[編集]

参照[編集]

  1. Odjeci slavnih vremena - Tomislav Grgurević,
  2. Boka kotorska: Etnički sastav u razdoblju austrijske uprave (1814.-1918. g.),Ivan Crkvenčić, Antun Schaller, Hrvatski geografski glasnik 68/1, 51-72 (2006),

外部リンク[編集]

座標: 北緯42度26分 東経18度38分 / 北緯42.433度 東経18.633度 / 42.433; 18.633