シロンスク公国

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ボレスワフの息子たちによるポーランドの分割相続:
  シロンスク領、ヴワディスワフ2世の分領
  ウェンチツァ地方ボレスワフ3世の未亡人サロメアの寡婦領で、その死と同時に長子領に戻される
  ポモジェ、長子領の支配者の封土

シロンスク公国またはシュレージエン公国ポーランド語:Księstwo śląskie;ドイツ語:Herzogtum Schlesien)は、中世ポーランドシロンスクに存在した公国。1163年に創設されてまもなく、シロンスク公国群へと細かく分割される状況が生まれた。

概要[編集]

1172年 - 1177年のシロンスク
1177年 - 1185年のシロンスク

当初はシロンスク地域ポーランド語:dzielnica śląska)と呼ばれた公国は1138年、ボレスワフ3世の遺言状によってポーランド王国の5つの主要な地域の1つとして創設された。1138年から1146年にかけて、この地域はポーランド大公ヴワディスワフ2世によって統治されたが、ヴワディスワフ2世はポーランド王国の統合のための争いに敗れると、首位の公の地位を失った。その後、シロンスクは彼の弟であるボレスワフ4世によって統治された。1163年までに、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の支援でヴワディスワフ2世の息子達はシロンスクを回復した。

ヴワディスワフ2世の息子達は公国を分割し、これがシロンスク公国群の始まりとなった。長男ボレスワフ1世は中部シロンスクと低地シロンスクを含む広い地域を保持し、ヴロツワフを首都とするヴロツワフ公国を支配した(その広大な広さから、これをシロンスク公国と誤って呼ぶことも多い)。次男のミェシュコ1世ラチブシュチェシンを分領として獲得し、ラチブシュ公国が形成された。兄弟による短期間の争いののち、オポーレを首都とするオポーレ公国も同時に成立し、ボレスワフ1世に疎んじられていたその長男ヤロスワフ(聖職者になるのを拒否した)に与えられた。ボレスワフ1世とミェシュコ1世の弟である3男コンラト1177年グウォグフを与えられ、グウォグフ公国を形成した。但し、コンラトは子の無いまま死んだため、グウォグフ公国はボレスワフ1世が併合した。

ポーランドの分裂期に、公国は世代交替が進むにつれて細かく分裂していった。公国群は14世紀にはボヘミア王国と結びつき、一部は復活したポーランド王国に再統合されたりしたが、大部分が1348年神聖ローマ帝国領邦国家となった。1526年にボヘミアがハプスブルク君主国に組み入れられると、ボヘミアとシロンスクの諸公国は徐々にオーストリアの支配を受けるようになった。

1740年プロイセンフリードリヒ2世はオーストリア領シュレージエン(シロンスク)に侵攻し、18世紀後半まで続いたシュレージエン戦争の結果、この地域の多くをプロイセン領に併合した。旧公国群の大部分は後にプロイセン領シュレージエン州に再編され、オーストリア側に残った地域は1742年、オーストリア領シュレージエン(高地・低地シュレージエン公国)とされた。ポーランド領内に残っていた公国群の一部は、18世紀末のポーランド分割の結果、プロイセンとオーストリアに併合された。オーストリア領シュレージエンは1918年まで存続し、第一次世界大戦後にポーランド第2共和国チェコスロヴァキアとの間で分割された。

関連項目[編集]