ゴリツィア
| ゴリーツィア Gorizia |
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| 行政 | |||
| 国 | |||
| 州 | |||
| 県 | ゴリツィア | ||
| CAP(郵便番号) | 34170 | ||
| 市外局番 | 0481 | ||
| ISTATコード | 031007 | ||
| 識別コード | E098 | ||
| 分離集落 | Lucinico, Oslavia, Piuma, San Mauro [1] | ||
| 隣接コムーネ | ブルダ(SLO)、 ファッラ・ディゾンツォ、 モッサ、 ノヴァ・ゴリツァ (SLO)、 サン・フロリアーノ・デル・コッリオ、 サヴォーニャ・ディゾンツォ、シェンペテル=ヴロトイバ (SLO) | ||
| 公式サイト | www3.comune.gorizia.it | ||
| 人口 | |||
| 人口 | 35,798 人[2] (2010年12月31日) | ||
| 人口密度 | 870.8 人/km2 | ||
| 文化 | |||
| 住民の呼称 | goriziani | ||
| 守護聖人 | Santi Ilario e Taziano | ||
| 祝祭日 | 3月16日 | ||
| 地理 | |||
| 座標 | 北緯45度56分0秒 東経13度37分0秒 / 北緯45.93333度 東経13.61667度 座標: 北緯45度56分0秒 東経13度37分0秒 / 北緯45.93333度 東経13.61667度 | ||
| 標高 | 海抜 84 [1] m | ||
| 面積 | 41.11 [1] km2 | ||
ゴリツィア県におけるゴリツィアの位置
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ゴリツィア(Gorizia)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州にある人口約3万6000人の基礎自治体(コムーネ)。ゴリツィア県の県都で、スロベニアとの国境に位置する。
目次 |
[編集] 名称
イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。
- スロベニア語: Gorica (ゴリツァ)
- フリウリ語: Gurize [3]
- フリウリ語ゴリツィア方言 (it:Friulano goriziano) : Guriza [3]
- ドイツ語: Görz
[編集] 地理
[編集] 位置・広がり
ゴリツィアはイゾンツォ川流域のヴィパッツォ(ヴィパーヴァ)谷 (Vipava Valley) に位置する。
コムーネの領域はイゾンツォ川の両岸にまたがっており、中心市街はイゾンツォ川の左岸(東岸)に位置している。
[編集] 地勢
地勢は平坦である。北側に位置する山脈によって、周辺地域に強い影響を与える地方風ボーラから守られている。地中海性の穏やかな気候から、人気のあるリゾート地であり、また、ワインの産地としても知られる。
[編集] 主要な都市・集落
ゴリツィアの市街地の中には国境線が走っており、スロベニア側にあるノヴァ・ゴリツァとは双子都市の関係にある。
イゾンツォ川西岸(右岸)には南部にルチニーコ(Lucinico)、北部にはオスラヴィア(Oslavia)などの分離集落がある。
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[編集] 歴史
[編集] 中世
イゾンツォ川沿いのこの地は、アクイレイアとエモナ(現リュブリャナ)を結ぶローマ時代の街道にも程近く、記録に残る以前から物見櫓や城砦などがあったと思われる。歴史的にスロベニア人が多く住む地域 (Slovene Lands) であり、ゴリツィアという地名もスロベニア語で「小山」を意味する gorica に由来すると考えられている。
「ゴリツィア」の名が記録に最初に現れたのは、1001年4月28日の日付が記載された神聖ローマ皇帝オットー3世の文書である。オットー3世が、サルカノ城と城下にあった荘園を、アクイレイア総司教ヨハネスとフリウリのエプシュタイン家(のちにバイエルンの宮宰を世襲する一族)に分け与えたこの文書で、"Villa quae Sclavorum lingua vocatur Goriza"(スラブの言葉で「ゴリツァ」と呼ばれる村)が登場する。
11世紀以降、この町は2つの地域に分かれて発展した。上手にある「城」の一帯は政治的・行政的な役割を果たし、「村」は地方交易を担う役割を果たした。12世紀から16世紀初頭にかけて、町はゴリツィア伯国 (County of Gorizia) の政治的・行政的な中心であり、伯国の最盛期には今日のゴリシュカ (Goriška) ・フリウリ東南部・クラス地方・中部イストリアから東チロルまでの地域の首都であった。
[編集] ハプスブルク家による統治
1500年、ゴリツィア伯爵家の継承者が絶え、その称号と領地はハプスブルク家のマクシミリアン1世のものとなった。その後、ヴェネツィアによる占領(1508年~1509年)もあったが、ゴリツィアの町はハプスブルク君主国による統治の下で発展を遂げた。町並みはゴリツィア城の下まで拡大し、北イタリアから移り住んできた人々が商業活動を始めた。ゴリツィアはさまざまな民族の暮らす町であり、フリウリ語・ヴェネツィア語・ドイツ語・スロベニア語が話された。
16世紀半ば、ゴリツィアは宗教改革におけるプロテスタントの中心地のひとつとして注目された。スロベニア人の有名な宗教改革者プリモシュ・トルバル (Primož Trubar) も、この町を訪れて説法を行っている。しかしながら16世紀末、当地の修道院長であったヤネス・タヴチャル(Janez Tavčar、のちのリュブリャナ司教)によって対抗宗教改革が推進され、カトリック側の巻き返しが行われた。タヴチャルが当地に誘致したイエズス会は、その後のゴリツィアの教育と文化に大きな影響を及ぼすことになる。
1751年、アクイレイアの総大司教座 (Patriarchate of Aquileia) が解体された際、ゴリツィアに大司教座 (Roman Catholic Archdiocese of Gorizia) が置かれ、ハプスブルク君主国におけるカトリックの宗教行政の中心のひとつとなる。ゴリツィア大司教区は、北はドラーヴァ川、東はコルパ川までを管轄地域とし、トリエステ・トレント・コモ・ペデナの司教座が所属していた。大聖堂を中心とした新しい街区が整備され、大聖堂にはかつてアクイレイアの教会堂に収められていた文化財が移されてきた。町には典型的な後期バロック様式の邸宅群が数多く建てられ、特徴的な景観を作り上げた。また、市壁の中にシナゴーグが建設されたことは、多民族性に対して比較的寛容だったこの町の気風を語るものである。
ナポレオン戦争中の一時期、この町はフランスの支配を受け、イリュリア州(1809年~1813年)の一部に編成された。ハプスブルク君主国の統治下に復すと、ゴリツィアを含む「ゴリツィア伯国」はオーストリア帝国を構成するイリュリア王国 (Kingdom of Illyria) の一部となった。この時期、ゴリツィアはオーストリアの上流階級の間では避暑地として知られるようになり、「オーストリアのニース」として呼ばれた。この地の住人には七月革命で王位を追われたブルボン家の人々もあり、ブルボン朝最後の王であったシャルル10世もこの地で終焉を迎え、埋葬されている(墓地のある受胎告知教会は、現在ノヴァ・ゴリツァ側に属する)。「諸国民の春」と呼ばれた1848年の革命も、周辺地域とは異なりゴリツィアの町にはほとんど影響を与えず、「静かで王家に忠実な地方都市」との世評を再確認させることになった。
1849年、「ゴリツィア伯国」はトリエステやイストリアを含むキュステンラントに属することとなった。1861年、「ゴリツィア伯国」は「ゴリツィア・グラディスカ公国」 (Gorizia and Gradisca) に再編され、自治権が認められた。
この時期のゴリツィアの町は、中心部ではイタリア語・ヴェネツィア語・フリウリ語・ドイツ語・スロベニア語が行き交う多民族都市であり、郊外にはフリウリ人・スロベニア人の暮らしが広がっていた。1910年のオーストリアの国勢調査によると、ゴリツィアの人口2万9291人のうち、イタリア語・フリウリ語を母語とする者が50.6%、スロヴェニア語を母語とする者が36.8%、その他スラブ系言語を母語とする者が1.3%、ドイツ語を母語とする者が11.1%であった。また、ユダヤ教の信仰を持つ者が0.9%いた。イタリア人とフリウリ人・スロベニア人の間には緊張もあったと記録されてはいるが、第一次世界大戦の勃発までゴリツィアの町は比較的寛容であり、イタリア人・フリウリ人およびスロベニア人の文化がともに花開いていた。
[編集] イタリア王国による統治
第一次世界大戦が勃発すると、イゾンツォ川流域はイタリアとオーストリアの激しい争奪の舞台となった(イゾンツォの戦い)。ゴリツィアは1916年にイタリアに占領されるが、翌1917年にオーストリアが奪回。1918年にはイタリアが再占領し、ヴェネツィア・ジュリア総督の暫定的な統治の下に置いた。1920年、ゴリツィアは正式にイタリアに併合された。最初はゴリツィア・グラディスカ自治県が置かれたが、1922年に解体され、1924年にはヴェネト州ウーディネ県に併合された。1927年にはヴェネツィア・ジュリア州に属する県都となった。
ムッソリーニ政権下、スロベニア人の民族団体は解散させられ、公的な場でのスロベニア語の使用も抑圧された。多くのスロベニア人は、ユーゴスラビア王国や南米(とくにアルゼンチン)へと逃れていった。また、抑圧に対抗してスロベニア人の地下組織が作られ、反ファシズムの運動として、時にはスロベニアの民族統一主義の運動が展開された。
第二次世界大戦中の1943年10月、イタリア王国が連合国に単独降伏すると、町はスロベニア人パルチザンによって解放された。しかしまもなくドイツ軍の占領を受け、アドリア海沿岸軍事地区 (Operational Zone Adriatic Coast) に含まれた。
[編集] 第二次世界大戦後
第二次世界大戦後は、ユーゴスラビア・パルチザンによる占領(1945年5月~6月)を経て、連合国軍(英米軍)の軍政下に入り、1947年9月15日正式にイタリアの施政下に戻ることになった。このとき、ゴリツィア県の大部分(シェンペテル=ヴロトイバなど)がスロベニア(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)に割譲され、ゴリツィアの町の中にも国境が走るようになった。1948年にはスロベニア側で新都市ノヴァ・ゴリツァ(新ゴリツィア)の建設が始められた。
ゴリツィアは「国境の町」であるが、スロベニア(ユーゴスラビア)側は分割後に発展した地域である。町の中心部において、国境線はオーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンとを結んでいたトランザルピン鉄道(現・ボヒニ鉄道) (Bohinj Railway) に沿って走っており、駅舎はスロベニア側に属している。
冷戦下、異なる体制によって都市が分断された状況から、ゴリツィアがベルリンになぞらえられることもあったが、ゴリツィアをめぐってイタリアとユーゴスラビアは良好な関係を保った。両国の調和と協調の象徴であった文化・スポーツ交流行事は、ユーゴスラビア連邦解体まで続けられた。
1991年のユーゴスラビア解体後、国境の向こう側はスロベニアとなった。2007年12月21日、スロベニアがシェンゲン協定に加わったことで、国境は往来を妨げるものではなくなった。
[編集] 文化・観光
この町は、歴史的にスロベニア人の多く住む地域であり、また16世紀以来、約400年にわたりオーストリア・ハプスブルク家の統治下にあった。このため、料理や菓子にも、イタリア以外のさまざまな文化の影響を受けたものが見られる。
- ゴリツィア城
- 中世に建設されたゴリツィア城は、かつてゴリツィア伯爵の行政・司法権力の象徴であった。城の区画は Corte dei Lanzi(16世紀に建てられた高い塔がある)、 Palazzetto dei Conti(13世紀)、Palazzetto Veneto の3つに分けられる。 Lanzi は「武装した衛兵」を意味し、ランツクネヒトのイタリア版である。聖バルトロメオの名を持つ宮廷礼拝堂には、ベネツィア派の絵画やルネサンス期のフレスコ画が収められている。また、ここにはゴリツィア中世博物館がある。
- 大聖堂
- ゴリツィアの大聖堂は、もともと14世紀に建設されたが、その後改修を経ている。市内の多くの建物と同様、第一次世界大戦で大部分が破壊された。現在の大聖堂は、1682年に建てられた様式に基づいて再建されたバロック様式の教会堂で、スタッコによる装飾がされている。ゴシック様式の礼拝堂が身廊に附属している。
- イエズス会によって1680年に工事が開始され、1725年に完成した。内陣にはイグナチオ・ロヨラの栄光を讃える絵画がある。
- セギッツィ国際音楽コンクール Concorso «Cesare Augusto (C.A.) Seghizzi»
- 合唱の国際コンクール・ヨーロッパ合唱グランプリ (European Grand Prix for Choral Singing) を構成する大会のひとつ。
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[編集] 社会
[編集] 人口

[編集] 交通
[編集] 鉄道
- ウーディネ=トリエステ線
- ゴリツィア中央駅 (it:Stazione di Gorizia Centrale)
[編集] 道路
- 国道
- SS55 (it:Strada statale 55 dell'Isonzo)
- SS56 (it:Strada statale 56 di Gorizia)
- SS351 (it:Strada statale 351 di Cervignano)
- SS356 (it:Strada statale 356 di Cividale)
- NSA55 (it:Strada di Osimo)
[編集] 姉妹都市
[編集] おもな出身者
[編集] 註
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- (イタリア語) コムーネ公式サイト
- (イタリア語) 県サイトによるコムーネの紹介
- (イタリア語) 州観光局サイトによるコムーネの紹介
- (英語) 州観光局サイトによるコムーネの紹介
| サン・フロリアーノ・デル・コッリオ | ブルダ (SLO) | |||
| モッサ | ノヴァ・ゴリツァ(SLO) | |||
| ファッラ・ディゾンツォ | サヴォーニャ・ディゾンツォ | シェンペテル=ヴロトイバ (SLO) |
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