シャルル・フェルディナン・ダルトワ

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シャルル・フェルディナン
Charles Ferdinand
ブルボン家

称号 ベリー公爵
出生 (1778-01-24) 1778年1月24日
フランス王国ヴェルサイユヴェルサイユ宮殿
死去 (1820-02-13) 1820年2月13日(42歳没)
フランス王国パリ
埋葬 1820年2月22日
フランス王国サン=ドニサン=ドニ大聖堂
配偶者 マリー・カロリーヌ・ド・ブルボン
  エイミー・ブラウン
子女 ルイーズ・エリザベート
ルイ
ルイーズ
アンリ
シャルロット・マリー・オーギュスティーヌ
ルイーズ・マリー・シャルロット
家名 ブルボン家
父親 シャルル10世
母親 マリー・テレーズ・ド・サルデーニュ
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シャルル・フェルディナン・ダルトワCharles Ferdinand d'Artois, 1778年1月24日 - 1820年2月13日)は、アルトワ伯シャルル(後のフランス王シャルル10世)の次男。ベリー公儀礼称号を有した。19世紀後半のレジティミストたちの象徴となったシャンボール伯アンリ・ダルトワ(フランス王アンリ5世)の父にあたる。

生涯[編集]

1778年にアルトワ伯シャルルとマリー・テレーズ・ド・サルデーニュサルデーニャヴィットーリオ・アメデーオ3世の娘)の次男として、ヴェルサイユ宮殿で生まれた。フランス革命が起こると父とともに亡命し、1792年から1797年にコンデ軍に仕えた。ついでイギリスに渡り、その地で平民女性エイミー・ブラウン英語版と知り合い、彼女との間に2人の娘をもうけた。しかしこれは教会からも国王からも認められていない結婚だった。

フランスの王政復古が成ると父とともにフランスに戻ったが、ナポレオン百日天下の際にはルイ18世とともにヘントに逃れた。

1816年ノートルダム・ド・パリで、両シチリアフランチェスコ1世の長女マリー・カロリーヌと結婚した。彼女との間には4人の子をもうけたが、成年に達したのは2人だった(後述)。妻との仲は良好であったが、コメディ・フランセーズの女優達との情事を続けた。

彼は1814年憲章に反対する反動的王党派であったユルトラ英語版と結びついていたため、狂信的なボナパルト派の馬具屋、ルイ・ピエール・ルヴェルによって、1820年2月13日オペラ座から出てきたところを暗殺された。ルヴェルは1815年パリ条約の責任はブルボン家にあると考え、血筋を断絶させることを狙ったのである。ただし、ルヴェルは死にあたり、行いの許しを乞うた。

ベリー公の遺体は、サン=ドニ大聖堂に葬られた。死後、非公認の妻エイミー・ブラウンが出産した2人の娘は、ルイ18世によりそれぞれヴィエルゾン女伯爵、ディスダン女伯爵とされ、年金を受け取れるようになった。

子女[編集]

  • マリー・カロリーヌとの子供
  • エイミー・ブラウン英語版との子供
    • シャルロット・マリー・オーギュスティーヌ・ド・ブルボン(1808年 - 1886年) - ベリー公の死後ルイ18世によりディスタン女伯爵とされる。1823年にリュサンジュ公爵と結婚。5児を出産。
    • ルイーズ・マリー・シャルロット・ド・ブルボン(1809年 - 1891年) - ベリー公の死後ルイ18世によりヴィエルゾン女伯爵とされる。1827年にシャレット男爵と結婚。
  • マリー・ソフィー・ド・ラ・ロシュ(1795年– 1883年)との庶子
    • フェルディナン(1817年 - 1908年)
  • ルイーズ・マンチーニ・ティリフォク(? - 1887年)との庶子
    • ルイーズ・シャルロット・アントワネット・アグラエ・ティリフォク(1819年 – 1843年)

他にも庶子が数名存在する。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  •  この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Berry, Charles Ferdinand". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 3 (11th ed.). Cambridge University Press.

関連項目[編集]